第四話 祭りの夜

4-1 「柏木、お嬢様がお出かけだ」

 頬に受けるくれないは夕日のためか、それとも手にしている宝石のためか、はたまた最愛の父からプレゼントを貰った喜びのためなのか、赤星玲子という少女をよく知らない者にはわかりかねるだろう。フランス窓に向き合うようにして腰かけた玲子はめずらしく口元に微笑を浮かべてルビーのペンダントを掲げているが、この微笑みだけは偽ったものでないことを柏木はよく知っている。このごろ沈みがちであった玲子にとってはちょうどよい慰めになったことだろう。ルカからの(忌々しい)電話があって以来、寡黙なこの令嬢はいよいよ黙りがちになり、柏木が日課の通りに世話をしようとするのにさえ、無言ながらに手厳しい拒絶を示すことがあった。そういう時の令嬢の顔に、柏木は懐かしい皇女のおもかげを認めて慄然とした――それはどこか甘い戦慄ではあったけれども。


 ……とはいえ、そうだ、誕生日ぐらいはこの方とて、十六歳、否、十七歳の少女に立ち戻るべきなのだ。容姿や振る舞いだけなく、もの思うその心から。


 折しも、ちょうど出かけるところであった父親がその場に現れたことによって、少女の喜びは完璧なものとなった。


「すっかり気に入ったようだね、お嬢さん」

「えぇ、もちろん。お父様からのプレゼントですもの。いまさら返せといわれても返さないわ」


 椅子の背もたれの上から屈みこんで語りかける父親を見上げて娘が笑いながら言うと、父はその額にひとつキスを落とした。


「まったく、手のかかる子だ。なんていったってご機嫌をとるのに宝石が必要なんだから。これで一体いくつめだ、玲子?お父様ばかり貧しくなって、玲子は年々お金持ちになっていくようだね。嫁入り道具にでも持っていかれたらそれこそお父様はたまらないよ」

「そんなことしないわ。でも、お父様こそ、今日は玲子の誕生日なのにずいぶんひどいじゃない」

「大人になるとどうしようもならないことが沢山あるということさ。玲子はまだ子どもだから分からないんだよ」

「あら、玲子はもう大人よ」

「そんなことを言っていること自体がまだ子どもだという証拠なんだよ。なあ、柏木?」


 急に話題を振られた柏木は、はいともいいえとも答えかねて「わたくしには何とも答えかねます」といういささか間の抜けた、歯切れの悪い返事をした。いくらかこの生真面目で寡黙な男をからかってやろうという気もあったのだろうか、桜花市長は柏木の当惑に満足そうに声を立てて笑った。すると、玲子がもどかしそうに父の袖を引っ張って言った。


「お父さまったら。柏木をからかっている暇があるのなら早く出かけられたら?」

「これはひどい。宝石だけ奪い取ったら父親は用済みか」

「だって、お帰りが遅くなるでしょう」


 子どもっぽく拗ねてみせる玲子に父はまた笑い、それから少し考えるようなそぶりをした。やがて、なにごとか思いついたらしくぽんと手を打った父親は、いたずらっぽく娘の鼻先をつつきながら次のような提案をした。


「そんなに拗ねるというのなら、玲子、お前も一緒に行くことにしよう。誕生日を夏祭りで祝ってもらうというのも悪くはないだろう?」


 目を丸くしてきょとんしてみせる玲子に構わず、父親は市長の声に半ば戻りかけた。


「柏木、お嬢様がお出かけだ。運転手に伝えて、お前も支度をするように……玲子、ダメだ、それは置いていきなさい」




「あんた下駄と浴衣でよくそんなに動けるわねぇ。さすが日舞にちぶやってるだけあるわ」

「石段危ないから足元気をつけてね、美香。ここの石段結構きつ……うわっ?!」

「……日舞やっててもドジじゃあ意味ないわ」


 美香に助けられて身を起こしながら、舞は石段の上の暗がりから提灯の投げかける赤い光の群れへと、小さな顔をもたげる。舞の瞳はたちまち夥しい光を捉えた。同時に、抜いたえりから伸べられた白いうなじがきらきらと輝き、滴る汗は耳朶にまで宿って水晶の耳飾りのように光って揺れた。桜色の浴衣に包んだ薄い胸はまだあやうげな揺動を宿しているが、金糸雀カナリア色の帯の下はすでにしっとりと落ち着きつつあり、ほっそりした影を引き結ぶような鼻緒のべにが、薄闇のなかに鮮やかだ。人混みに後から後から押されるので立ち止まって見つめている暇もろくになかったが、美香は舞を促して歩み出しながら、思わずこう言わずにはいられなかった。


「ずるいわ、あんたって。ほんっと……」


 いつもそうだ、小学生のころからずっと。舞は誰の目から見ても可愛くて、親友のあたしでさえつい見惚れてしまいたくなるぐらい……当の本人は、早くも綿菓子の夜店を見つけてそこに駆けていきたそうな様子を見せながら、「えっ、何が?」と気の抜けた声で聞き返しているけれども。


 だが、もしも舞が友人の意味するところを理解していれば、きっと言葉と誠意を尽くして友人を褒めたことであろう。舞の母は美香のいつもの三つ編みをアレンジして可愛らしいお団子を作り、シュシュ(いつしか舞と一緒に買ったもの)で飾り立ててやっていた。浴衣は紺地にうっすらと花模様のあるシンプルなデザインだが、思い切って眼鏡をはずしてそばかすのある素顔をさらけ出しているせいで、普段の美香よりあどけなく見える。小麦色の肌には、親しみやすく、素朴な健康美があった。


「あっ、焼きそばもある!焼きそばもいいなー」

「あんた食べ物ばっかしじゃない。射的やろうって、射的!」


 桜花神社の境内は、石段を登って最初の鳥居を潜った先に長い参道が続いており、さらに石段をのぼると二つ目の鳥居と拝殿が控えているという構造になっている。露店が立ち並んでいるのは参道沿いであるから、人はこちらばかりに集まって、拝殿の方は詣でる人もなくしんとしている様子である。奥に向かって参道の左手にはやぐらが組まれており、祭囃子やら、くぐもった挨拶やらが聞こえてくるのはそこからであるらしい。舞たちはよくわからなかったので近づこうとはしなかった。


 祭りは大賑わいである。考えつくかぎりのさまざまな露天が立ち並ぶその隙間に、たくさんの黒い頭がひしめきあっており、それがふとした光の加減やちょっとした注意力によって、ようやく表情を持ったひとりの人間の顔となる。その一瞬と一瞬のなんの脈略もない連なりは、祭りの客の頭上をもとほる神の気まぐれの軌跡と見えて、美しい。けれども夜風は一向に訪わない。祭りの庭は熱気に満ちている。桜花市の人口をいささか見くびっている舞と美香には、この市の全ての人がここに集結しているのかとも思われるほどであった。舞と美香はあまりにもたびたび同級生に出会うので、特別挨拶をする義理がない相手を先に見出した場合は極力回避することにした。なぜって、着飾っているところを見られるのは、なんとなく気恥ずかしいので。


 ……よりによってなぜ彼らに気づかなかったのだろうか。いや、本当はお互いに気づいたのだ、舞と司は。それぞれヨーヨー釣りと射的の店の前で、友人が競技にいそしんでいるのを待っている間に、何気なく隣を見た時に。互いの姿に気づくまで数秒かかった。舞は浴衣姿であったし、司は暑さのために前髪の流れ方が少し違っていたためだろう――というより舞は、こんなにぎやかな場所に司が来ているだなんて思いもしなかったのである。しかし、お互いを認識した瞬間、舞はほつれた髪を耳にかけた姿勢のまま凍りつき、司は襟に風を入れていた手をぴたりと止めた。ぶつかりあった二人の瞳は時の流れを見失ったがごとく静止した。


 冷たい痺れのようなものが足元からいっきに体を駆けあがるのを感じた。呼吸が怪しくなった。あらゆる音が遠ざかった。結城司という人間に対してもう何の感情も抱かないという祖母への誓いは脆くも崩れ去ったのだ。この上なく大きな意味を結城司という人間に、結城司という人間の存在に、見出している。そんな自分に舞は慄いた。それは恋愛とは全く関わりのない感情であった。より深刻で、より原始的で、より観念的な……たとえば、思わぬ傷口を自分のなかに見つけ出したときのような。たとえば、なくしてしまった半身を見つけ出したときのような。


 最初に目を逸らしたのは舞の方だった。これは司にとって意外だったのか、顔をそむけたあともなお一二秒は、司の瞳が舞の右頬のあたりを漂っているのを舞は感じていた。肩に打ち出でんとする震えを懸命に押し留め、下駄の歯で土の上の小石を踏みしめながら、舞は逃げ出さないように頑張った。


「あれ?京野じゃん!」


 よりによって最悪のタイミングでお声がかかった。男子の声だ。そしてよりによって司のいる方向からだ。舞はよほど無視してやろうかと思ったが、残念ながら聞こえなかったふりをするには声が大きすぎた。きっと美香もすでに気づいてしまっている。舞は仕方なく声のした方に目を遣った。


「東野君……」

「って、あれ?……なーんだ、佐久間かよ!」


 オレンジ色のヨーヨーを手にしゃがんでいた美香が立ち上がると、恭弥はしばしその顔をじっと見つめてから笑って言った。美香はヨーヨー釣りに熱中していたせいなのか、頬のあたりが薄桃色に染まっていた。


「な、なんだ、東野も来てたの?それに結城も」

「まったく誰かと思ったぜ。なっ、結城?」


 返事をしない司に代わって、美香が会話を続けた。


「あんたたちは二人?」

「ああ、まあな」


 仲良しなんだ、この二人、と舞はぼんやりと思う。まるで前の司と恭弥のようだ。性格が大きく変わっても、司と恭弥が仲良くなるというのはなんだかふしぎだ。舞と司はこんなにも上手くいかないというのに。でもきっとこれでいいのだ。司が幸せなのならば。現世の幸福で前世の不幸を希釈できるのならば――舞は物思いながら美香と恭弥にできるかぎり気取られぬように司から目をそむけていた。


「ほら、結城のやつ、桜花神社の祭りは初めてじゃねぇかと思ってよ。そんで連れてこようかと思って」


 初めてじゃないよと胸のなかでそっとつぶやいて、舞は思わず胸元を押さえる。私が何を知っているというの?でも、ああ、なんだか懐かしい気持ち……私、司と一緒にお祭りに来たことがあったっけ。そうだ、ラムネの一瓶を二人で分け合って飲んだんだった。ガラスのラムネ瓶は重たくて両手でないとうまく持てなくて。炭酸がぱちぱちと口のなかではじけて、びっくりしている舞を笑う司の声がその音にまざって聞こえてきて。空になった瓶のなかのビー玉が、この世でなによりきれいなものに思われて、欲しくて欲しくて仕方なくて……


(こんなこと思い出してどうするの?苦しいだけなら早く忘れちゃったほうがいい。だって、忘れてしまっていたら、なかったことと一緒なんだから。そう、もし、忘れてしまえるんだったら……)



「……それでは桜花市長の赤星誠治あかぼしせいじ様より、ご挨拶をいただきたいと思います!」



 マイクが伝えてくるくぐもった声が、舞を思い出から引き戻した。掌の下でどくんと大きく胸が鳴ったあとで、青ざめた目線が行き合った。司の足が一歩退こうとするのが舞にはわかった。太鼓の音があの夕立ちの日の、雷のうなりによく似ている。また逃げようとしているのだ、司は――舞の胸に悲しみがあふれ出した。その刹那に思ったのは、自分の不憫な恋心ではなく、忘れるべき前世の記憶に怯えて、友人の隣から逃げ出さなければならない司のことであった。


「美香!」


 司より先に舞は声を上げた。ハウリングしているマイクに負けないように。


「わ、私、その……ラムネ!ラムネ、買ってくるね!」

「えっ?」

「その辺で待ってて!買い終わったらメールするから」


 舞はすばやく人混みのなかに身を隠した。どこに向かっているかはわからなかった。ただとにかく司から離れようと思っただけで、拝殿の方に向かっているなんて自分でも知らなかったのだ。

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