2-2 左大臣の最期

「自ら命を……?」


 理解は言葉が形作られるより少し遅れた。繰り返した言葉の意味が呑み込めた時、ルカは初めて目を見開いた。


「いやはや、お恥ずかしい。散々に老醜を晒しておいてこのざまとは」


 左大臣は照れつつも肩をすくめてみせる。


「……わたくしは生前妻も子も親兄弟をも亡くしました。もはや失うものなどないと思い込んでおりましたが、ただ姫さまだけは…………ルカ殿、前世の姫さまが惨い最期を遂げなければならなかったのも、わたくしのせいなのです。わたくしがこの命を捨てて群衆より姫さまをお守りしていれば、姫さまはどこへでも逃げ延びられたはずなのですから。それを思うと、わたくしはとても耐えられなくなりました。それになによりも、姫さまのいらっしゃらない世界に生きていることが虚しかった。ゆえに、姫さまの死を聞くなり、わたくしは自ら腹を切りました。はは……」


 たかだかぬいぐるみの顔に、穏やかな、しかし取りつきがたい高貴な微笑みが浮かんでいた。ルカは開いた口元が唇から渇き出すのもそのままに、左大臣の微笑みをただ見つめ続けた。左大臣が自死を選んだことに対する衝撃のみならず、あれほど多くの者に慕われていた老翁が、誰にも看取られることなく、ひっそりと血を流して生涯を終えたことへのいたわしさが、ルカに言葉を禁じていた。


 左大臣はさすがにその様子に気づいたと見えて、またもや強いて繕った気楽な口調で「いやいや」と切り出しながら、首を振った。


「憐れんでいただくほどではありませぬぞ、ルカ殿。姫さまや四神の皆さまの最期のほうがよほど惨い。皆さまはまさしく花の盛りであったのですからな」

「……舞は知っているのですか?」

「まさか。今後お話しすることもありますまい。すでに終わったことでございますからな」

「そうですか」


 ルカはティーカップの取っ手を指で挟みかけてやめた。やたらとティーカップが重たく感じられたので。


「……ところで、ルカ殿。わたくしからもお聞きしたいことがございます」


 左大臣がすっと居ずまいをなおしたことに、ルカはうつむいて眉にかかった前髪越しに気がついた。


「ルカ殿、この間のお話ですと前世の白虎殿は芙蓉を倒され、姫さまを追って京へ向かわれている途中で亡くなったとのことでしたな」

「恐らくはね。芙蓉の毒にやられていたから、私自身もいつどこで亡くなったかははっきりとわからないが」

「しかし、ルカ殿は姫さまの最期をご存知でした。一体なぜです?」

「聞いたのさ、朱雀にね」


 朱雀の名が出た瞬間、左大臣とルカの間にふしぎな緊張感が漲りはじめた。石が投げ込まれた後の水面が凪ぐのを、じっと目を凝らして待っている時のような張り詰めた空気であった。


「……しかし、朱雀殿こそなぜご存知で?」

「私にもわからない。朱雀は前世の最期のことを語りたがらないから。私の予想では柏木に、右大臣に聞いたのではないかと思う。あいつなら一人逃げ延びたとしてもおかしくないからね」


 ルカの冷ややかな言葉を取り上げたものかどうかと迷ったようだったが、左大臣は結局無視することに決めたらしい。


「ルカ殿、朱雀殿は、つまり転生した朱雀殿はどちらにいらっしゃるのです?」

「この町のどこかとしか答えられない。彼女は姫さまのことを案じているし、できることならば今すぐにでも参上したいと思っているはずだ。それが叶わないのには事情がある。第一に彼女は変身することができない。覚醒はしている。だが、変身する力を失ってしまった。第二に彼女は足を動かすことが出来ない。生まれつきのものではなく、ある時から急に動かなくなってしまった。彼女はじきによくなると言い張っているがね。こういうわけだ、左大臣。私たちが彼女と接触することは危険だということがわかるだろう?彼女は戦うことができない。敵に彼女の正体を勘づかれてはならないんだ」


 それからルカは少しためらってからこうも付け足した。


「……右大臣も朱雀と一緒だ」


 左大臣は深々と溜息をついた。


「朱雀殿が参上されない訳については理解いたしました。だが、ルカ殿、姫さまとのお約束をお忘れではありませんな。姫さまは朱雀殿が一体何をしたのかを知りたがっておいでなのです。結城司が豹変したことには、朱雀殿が関係しているとのことでしたな?」

「それについては彼女自身が話すと言っている」

「参上できないままに?」

「彼女はやると言ったことは必ずやる。それが姫さまにとって必要ならば今すぐにでも」


 虎の眼が左大臣を射抜いていた。左大臣はたじろぐそぶりすら見せなかったが、内心ではこの美しく雄々しい女性の想いの強さに舌を巻いていた。やはり白虎は変わらない。朱雀に寄せる想いは前世から少しも衰えることないのだ。


 今は待つほかない。舞も今は結城司のことをうまい具合に忘れているようであるし……いずれ時がくれば全てが明らかになるはずだ。




 携帯電話の着信音が赤星家の書斎の静謐をかき乱した。その部屋に所蔵されている三千四百冊あまりの本には皆、赤星文庫の印がされ、今後赤星家の後継者が途絶えたその時には水仙女学院大学図書館にその全てが寄贈されることが密かに取り決められているという噂があった。だが、今のところこうした密約が明るみに出る心配は無用である――赤星家の令嬢その人が書斎にいますかぎりは。


 令嬢は着信音に顔を上げようともしない。側に控えていた中年の男性が代わりに電話を取り上げ、やや片眉を吊り上げたあとで令嬢に差し出すと、玲子嬢はようやく頁を繰る手を止めて尋ねた。


「どなた?」

「生徒会長です」

「ルカね」


 玲子は柏木の皮肉っぽい口調にも取り合わずに電話を受け取った。


 シニヨンに結い上げられたくれないの長い髪、めったに感情を宿さない瞳、十六歳――間もなく十七歳になるが――にしては整いきり、おさまるべきところにおさまりきってしまったという印象の高貴な横顔。前世で三宮さまと呼ばれていたころと比べても、少しの遜色もない。最後に見たお姿は確か二十五、六にもなろうという年ごろでもあっただろうか。の脳裏に蘇るのは月影の下に見た表情である。不思議だ。あの邂逅の夜の三宮さまの方が、今よりずっとあどけなく見えた……


「どうかして、ルカ?……いいえ、こちらは何事もないわ。姫さまはその後、お元気なの?…………そう、よかったわ」


(いや、このお方はあの時よりもはるかに成長されたのだ。あれから幾多の苦痛と悲しみを乗り越えたために)


 その苦痛の証である車椅子の銀色が、書斎の乏しい灯りを以ってしても彼の目には眩く見える。


「そう、左大臣が……」


(これからもこのお方の前には困難な道が続いている。だからこそ、俺はこのお方の側にいることを選んだ。たとえ呪わしい身に成り下がろうとも)


「えぇ、いつでも話をする覚悟はできているわ」


(このお方が左腕を失くした時、俺はこの女性ひとの左腕となった。このお方が両足を失った今、俺はこの方の両足として生きる……)


「……ねぇ、ルカ、考えていたのだけれど、私、そろそろ参上しようと思うの」


 柏木武はそこで物思いから呼び覚まされた。そんな相談は受けていない。無論、全ての決定権は玲子にあるのだからたかだか護衛に過ぎない柏木に相談する義理などないのだが。


 主人が長いこと黙りこくっていることから察するにどうやら猛烈な反対を受けているらしいのだが、とうに予想していたものと見えて困惑する様子は見られなかった。長らく待って、玲子はようやく反論する機会を得られたようだった。


「えぇ、でも大丈夫。力は使えなくても、武器は手元にあるのだもの。貴女たちの手を煩わせることはないと思うわ……」

「お嬢様、お電話中失礼いたします」


 車椅子の上で振り返った玲子は、扉横の内線電話を手にしている柏木の姿を認めた。


「急用なの?」

「来客だそうです……例の」

「約束の時間よりだいぶ早くはないかしら」

「いかがなさいますか」

「一時間後に来いと追い返す訳にもいかないでしょう。応接間で待たせておいて」

「かしこまりました」


 主人と護衛とはそれぞれの電話へと向き直る。恭しく謹んで指示を待つ門番に、柏木は主人の言葉を誤りなく伝えた。内心の呆れを少しも気取られないように気をつけながら――全く、気の早い客人だ。これも若さゆえだろうか。落ち着いた少年だと見えたが、やはり年相応のところもあるようだ。あの結城司という少年は。



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