2-3 再会

「じゃあね、舞!ちゃんと次会うときまでに英語やっといてよ」

「うぅ、わかってるもん!……まったく、翼ってほんと前世と変わらないんだから」

「じゃっ、舞ちゃん、左大臣によろしくねー」

「はーい!……まったく、奈々さんは前世と全然違うのに。って、あれ?結局あんな感じだったっけ」


 一人つぶやきながら翼と奈々と別れた舞は自転車のペダルを踏み込んで、夕方の街へと漕ぎだした。日が伸びたおかげでまだ辺りは明るいがそれでも時刻はすでに十九時近い。早く帰らなければ夕飯に間に合わなかったかどで母親に責め立てられ、罰と称する姉の横暴によりおかずもしくはデザートを取り上げられるかもしれない。急がなければ……!


 ペダルを漕ぐ舞の膝の躍動とは全く無関係に、白いワンピースの裾を、夕風が膨らませはためかせていく。素肌のはぎからサンダルを履いたつま先まで撫ぜていくその風が心地よかった。日盛りのうちに煮凝った暑熱は、まだ見えない果実のようにあちらこちらに実を成しているようであったが、傾きかけた日が投げかけた長い影が肌の上をすべる一瞬は、舞はその触れればたちまちはじけそうな果皮から安全に守られていた。そして、日陰を抜け出るとき、舞の髪は果汁を浴びてきらきらと輝いた。


 やかましい蝉の声からそっと鼻歌を守りつつ、緋色の硝子窓のなかに閉じ込められてしまったような街のなかを、舞は軽快に進んでいく。今日はどっちから帰ろうか。早いのは町の中心にある十字路を突っ切っていく道なのだけれど、夕方時は混むので自転車では走りにくい。やはり少し時間はかかるとはいえ住宅街の方を抜けていこう。


 そろそろ帰宅時間であるので、住宅街の路上にもサラリーマンや部活動帰りの学生たちなどちらほら人影は見受けられた。だが、ある角を曲がると、直線上にぱたりと人影が絶えてしまった。舞の背後に沈みかける夕日に照らされ、まっすぐに続くその道は、紅の巨大な石柱を渡したようにも見えた。


(左大臣、迎えにいってあげなくてよかったかな)


  電柱や家々の屋根の影がところどころに暗いを落とすなかを、あるいはくぐり、あるいは避けて、舞は自転車を走らせた。


(お腹すいたなぁ。今日のアイス美味しかったなぁ、またみんなで食べにいきたいなぁ……今日の夕ご飯何かな)


 人気のない道路には音が少ない。蝉の声も遠く、からすの声も遠く、自転車の車輪がからからと回る音だけが足元から響く。


(……幸せだなぁ。毎日美味しいものが食べられて、みんなと遊んで、楽しく過ごせるなんて)


 やっと誰かが前方からこちらに向かって歩んでくる気配がする。


(こんなに自分が幸せだなんて、知らなかったなぁ今まで。なーんて、月並みかなぁ……でも、ほんとうだもの)


 ブレーキの音と共に、サンダルのつま先が地に触れた。舞の「幸せ」な気分は、その瞬間にはすでにばらばらになって路上に散らばっていた。


 舞と向こうから歩んできた人も、同時に足を止めた。二人の距離はあと五メートルほどというところであっただろうか。ともったばかりの街灯が見つめ合っている人の顔を照らし出していたが、彼の人の顔が蒼褪めていたのは、なにも真上から青白い光を投げかけられたせいばかりでもないだろう。だって、この道にはあんなにも紅の陽光が満ち満ちていたのだから。


 舞の髪と同じ風に吹かれているつややかな黒髪、秀でた眉、間もなく降り来るであろう宵闇を先んじて閉じ込めたかのような薄紫色の瞳、翡翠のような血管が透けるのではないかと思うほどに白く脆い、雪のような肌――


「しら……!」


 舞ははっと両手で口を押える。違う!その人の名前は違うんだから……!


「結城君……」


 その名を呼ぶ、舞の声は弱々しかった。紫蘭の名を呼びかけたときよりもずっと。舞はうつむいた。紫蘭の顔は一瞬で掻き消えた。よみがえるのは幸せの絶頂から奈落の底へ叩き落とされた、誕生日の思い出だった。




「はっきり言っておく。僕は僕だ。赤の他人の幻影を僕に押し付けるのはやめろ」



「質問が難しすぎたか?お前には」



「二度と、僕に関わろうとするな」




 オルゴールの音がほんの少しかき鳴らされて、止まる……




「……ごめんなさい」


 うつむいた舞は消え入りそうな声で、ようやくそう言った。司がその時どんな表情をしていたかはわからなかった。ただ、舞がペダルを踏み込み、その傍らを通り過ぎていったあとも、司はその場に立ち尽くしていた。立ち尽くしているようだった。





 結城司――十四年間の舞の人生のなかで、その名ほど大切にしてきたものはなかった。司は舞の幼馴染。同じ七月十一日に、同じ桜花市内の病院で生を受けた。「まあ、この子たち、まるで一緒に生まれる約束をしてきたみたいね!」――母親同士はそんなことを言って笑い合った――「もしかしたら、前世で恋人同士だったりして」。


 母親同士が親しかったことから、舞と司は自然と仲良くなり幼い日々のほとんどを共に過ごした。幼稚園、小学校、中学校……司は容姿端麗だというばかりでなく、学業にもスポーツにも秀でた少年だった。明るく優しい性格で、自分の優秀さを少しもひけらかさないため多くの友人に好かれていた。舞が自然と司に恋をするようになったのは、なによりもその気取らない優しさのためだった。泣いてばかりいる幼い舞をまるで兄のように叱りながらも、司はどんな時だって舞を見捨てずに優しくその手を引いてくれたのだ。そんな司だから、幼馴染であることが誇りだった。誰かが司のことを褒めていると我がことのように嬉しかった。目の前にいて、じっと見つめられるときは……


 ……でも、いつのころからだろう。そばにいるとどこか辛かった。司がまた誰かに好かれるたびに、怖くなった。まるで、舞の幼馴染である司がいなくなってしまいそうな気がして。誰かにとられてしまったらどうしようという不安は常につきまとった。けれどもまた、全く同じ理由によって、舞は想いを伝えることもできかねた。このまま何もせずにいても、何かをしたとしても、舞と司の関係が変わってしまうことは、舞もよくわかっていたのだ。


 それでもまさか、本当に、舞の幼馴染である結城司がいなくなってしまうだなんて思わなかった――


 四月十二日に、結城司は舞の目の前で死んだ。突如襲いかかってきた怪物から舞を庇って。非情な運命と戦うべく、舞は京姫になった。一方で、司はになってしまった。


 ……怪物に襲われ目を瞑った瞬間、舞は桜色の光に包まれた。そして再び目を開けたとき、舞は四月十二日の朝の自宅の寝室にいた。全てが夢なのだと思った。だが、いつも通りに登校した舞は、桜花中学校への転校生としての結城司と出くわすことになった。彼は見た目も名前もそっくりそのままの結城司であったが、幼いころに桜花町を離れて京都に住んでいたとのことであり、舞の知っている司とは経歴が違っていた。誕生日も舞より一月早かった。もっとも舞にとっては耐えがたかったことは、性格までもが豹変してしまっていることだった。優しい人気者だった司は冷酷で孤独な少年へと変貌を遂げていた。歩み寄ろうとする舞に対しても司は冷たく頑なな態度をとりつづけていた。


(でも、それでもちょっとずつ仲良くなってきたのに……)


 司が京都の学校でいじめを受けていたことを知った。両親が別居しているせいで、病身の母親を一人で支えていることも知った。今度の司も舞の幼馴染であることは変わりないのだと知った。だから、舞は司に微笑みかけることができるようになった。舞の誕生日の日、司が母親から託されたというプレゼントを持って京野家を訪れてくれたとき、舞はに恋をしている自分に気がついた。


(なのに、あの時私が鈴を落としちゃって、それであんな行き違いに……)




 ……あんなに楽しみにしていた夕飯も、何を食べたのか結局わからずじまいだった。舞はただお腹が膨れきっているのだけを感じながら、Tシャツにショートパンツという部屋着姿で、自宅のベッドの上に寝転がっていた。きっと母親が見たら「牛になるわよ!」と言って怒るだろう。


(あの時、結城君はもう二度と僕に関わるなって言ってた。だから、正解、なのかな……今日のことも)


 枕を抱えて、舞は寝返りを打つ。左大臣はまだ帰宅していない。


(でも、ずっとこのままで本当にいいのかな……)


 これからも司とは学校で顔を合わせなくてはならない。その度に今日のような気まずい思いをし続けなくてはならないのだろうか。それだけならまだしも、舞の母親と司の母親は数年ぶりの再会を経て友情を建て直しつつあるから、今後も結城家と行き来しなければならないかもしれない。母親にはなんとしても司との不仲を悟られたくなかったが、なにもないふりをし続けるのは恐らく無理だろう。それに、なによりも…………


 枕に押し当てた瞼にひらめいた青年の横顔と、その黒髪に宿る水晶のきらめきに、舞ははっと目を開けて顔を赤らめた。誰に説明されるまでもないが決まりきっている。舞が京姫の生まれ変わりであるように、結城司は六条紫蘭の生まれ変わりなのだ。


 紫蘭という人をどう捉えていいのか、舞はまだわかりかねている。京姫にとって大切な人であった、多分……二人は共に孤独で、おそらくそのために惹かれあって、共に京を抜け出した。それは宮廷を離れてはならない立場にあって京姫にとっては重たい罪であり、また形式上とはいえ帝の妻であった京姫をさらうことは紫蘭にとっては恐ろしい罪であった。姫を連れ出したときの本当の紫蘭の心は知らない。ただ姫に乞われるままに仕方なくだったのかもしれない。自分を追放した朝廷への、兄帝への腹癒せであったのかもしれない。馬に乗り、紫蘭に寄り添って、京を離れた姫は何も知らずに幸せだった。


(あーダメダメダメダメ、思い出しちゃ……!)


 自分でも知らぬ間に、舞は真っ赤になった顔を枕に押し当てて足を宙でじたばたさせていた。京姫の幸せの絶頂を思い出してしまったのだ。満天の星がちりばめられた誰もいない草原で、京姫と紫蘭は互いに持ち合ったさびしさを示すがごとく、抱擁し、接吻くちづけを交わした。その身を冷やし重たくするような疲労の末に、紫蘭の手枕たまくらの上で姫は眠った。二人なら永久に生きられると、その時の京姫はたやすく信じることができた。


 しかし、紫蘭は最終的に京姫を突き放した。別れたのちの紫蘭がどうなったのか、京姫の記憶は知らなかった。


(落ち着こう、舞。落ち着こう……!)


 悲しみが霜のように心に降り立ってきたところで、舞はようやく深く呼吸をすることができるようになった。うつ伏せになった舞は目元だけをピンク色の枕カバーから離した。寝室がずいぶんと明るく見える。


(とにかく紫蘭さんのことは忘れよう。紫蘭さんのことは今関係ないんだもん。今は結城君の……!)


 ふと舞は気づいた。今日の邂逅の折、舞が誤って紫蘭の名前を呼びかけたとき、司の表情が一瞬大きく揺らいだように見えはしなかったか、と。記憶違いだろうか。斜陽が見せたいたずらだろうか。まさか、司までが前世のことを知っているということはあり得るのだろうか。舞のようにもし記憶が戻っていたとすれば――


「いやはや、遅くなりました。ただ今戻りましたぞ、姫さま」


 ベッドの下の左大臣の声も耳に入らぬままに、舞はあるひとつの決意を固めた。

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