49.今夜だけは

2月16日の21時。浜浦 光(はまうら ひかる)はコンビニで買い物を済ませて、先輩のアパートへ向かっていた。外に出るには億劫な時期だし、飲み会を始めるにしても少し遅い時間だ。なのに瀬賀 達樹(せが たつき)先輩が宅飲みに誘って来たとき、何が話題になるか、なぜ呼び出されたのか、すぐに察しがついた。そして案の定、達樹の家についたとき、すでに彼は出来上がっていて、光に抱き着いてきた。

「よぐきでくれたぁぁ……ありがとうぅ」

呂律が回っていないし、涙ぐんでいる。かなり飲んでいるが、楽しんでいるわけじゃなさそうだ。見れば部屋の中が散らかっていた。大きなビニール袋がワンルームのド真ん中に置いてあって、そこに写真やら本やらマグカップやらが放り込まれている。

やっぱり、思った通りだ。想像が確信に変わる。

「何があったんです、先輩?」

答えは分かっている。けれど何がどうなるにせよ、達樹先輩の口から答えを聞かないといけない。

「別れた。アイツと」

「それは……どうしてです? 上手くいってたじゃないですか」

「知らないよ。急だよ、急に言われた。別れようって。あんたと一緒にいるとダメになりそうだって、酷くね?」

「まぁまぁ、とりあえず部屋に入れて、座らせてください」

光は靴紐を解く為にしゃがんだ。一瞬だが、達樹から顔が死角になった。そのとき、思わず微笑みを零してしまう。

思った通りだったこと。自分の好きな人がフリーになったこと。目の前で酒に酔って泣く人には見せられないから、見せないように笑った。



光は達樹。2人は大学1年生と2年生、テニス部のサークルの先輩/後輩にあたる。テニサーと言えばヤリサーと同義だが、この大学は違った。それなりにシッカリと練習するタイプのサークルで、2人は実力が似たようなものだったこともあって、すぐに仲良くなった。

更に入部から一か月も経たないうち、2人きりになったとき、

「光さぁ、違ったらごめんだけど、お前ってゲイじゃない?」

達樹にそう訊かれた。

「そうですけど」

「ああ、やっぱりなぁ。何となく雰囲気に出るもんな」

「何か問題がありますか?」

「いや、逆。それはオレが聞きたい。オレもゲイでさ、やっぱほら、いろいろと面倒なこともあるじゃん。それで、何か悩み事とかない? あったら聞くよ」

「別にないですよ」

「それならそれでいいけどさ、でも絶対そのうち出てくるって。お前は顔がイイから、何かと苦労とすると思うし。ま、悩んだときはいつでも声かけてくれ」

達樹の言う通りだった。大学でゲイとして生きる光の前に、苦労は続々と現れた。『サークル内の女子生徒に告白されたけど、どう断ればいいか?』『ゲイバーってどうやって遊びに行けばいいのか?』そういった問題と出くわすたびに、彼は達樹に相談に行った。そのたびに達樹は真摯に相談に乗って――少なくとも光にとっては――最適な答えを丁寧に教えてくれた。

秋が終わる頃、光は達樹にこう尋ねた。

「先輩、何でこんなに優しいんですか?」

バカみたいな質問だな、と自分でも思った。

「普通じゃない? 困ってるときはお互い様って言うし」

そのとき「オレはこの人が好きだな」と気がついた。けれど、

「オレの今の彼だって、そういうふうにしてくれた」

既に知っている事実の筈なのに、その一言が絶望的に重く感じた。


「一緒にいるとダメになるって、酷い言われようですね」

「だろ!? 急にだよ、しかも」

ストロング系の缶チューハイを一気に空け、達樹は言った。

「急にそんなこと言われても、ワケ分かんないし、って言うか、悪い所があったら直すって言ったのに、全然聞いてくれないの。どうすりゃいいんだよ、本当に」

まくし立てる。だが、その半分も光の耳には入っていなかった。それよりも彼の胸は高鳴り、同時にそんな自分への嫌悪感を募らせていた。

大好きな人が悲しんでいるのに、喜んじゃダメだ。それに達樹先輩がフリーになったからと言って、すぐに自分と付き合えるワケじゃない。むしろ、ここで喜ぶようなヤツには、先輩と付き合う資格はないだろう。もしそんな他人の不幸を喜ぶようなヤツと先輩が付き合い始めたら、きっとは気が狂ってしまう。

自己嫌悪を薄めるために、酒を重ねる。達樹の嘆きに、ただ頷き続ける。コンビニで2000円分買って来た酒が、たった1時間で綺麗さっぱり無くなってしまった。光は酒に強い。それでも少し眩暈を覚えたが、まだ夜を続けていたかった。

「何か飲み物、買ってきますよ」

光が立ち上がろうとした。そのとき、彼の手首を達樹が掴んだ。強くて、乱暴に引き寄せられ、彼の傍らに座らさせる。

「なんです?」そう訊く前に、

こつんっ。

光の額に達樹の額が当たった。

眩暈が一層酷くなる。まさに目の前にいる達樹の顔が、今まで見たことがない形に見えた。

「ヤらせて」

達樹が言った。

光は息を飲む。こんな言葉が、この人の口から出るのか。

「誰かとヤらないと、ダメな感じなんだよ。オレのこと嫌いになってもいい。明日になったら忘れてもいい。だから……頼むよ」

今すぐに答えないといけない。けれど、どう答えるべきか分からない。

酔っていない理性が叫ぶ。「失恋を忘れるために、抱かせろだって? オレを何だと思ってるんだよ。だいたいオレの気持ちはどうなるだよ」

でも、酔っている何かも叫ぶ。「オレの気持ちは一つだろ。ちょうどいいじゃないか。だいたいココに来るときに、こうなることも薄々期待してたんじゃないか?」

そして光は、後者の言葉に従った。

「電気だけは消してください」

「ごめんな」

弱々しい声だった。けれどリモコンで電灯が落ちた途端、達樹は荒々しく、組み伏せるように光にのしかかった。

「いいですよ」

乱暴な前戯の中で、微笑みを漏らす。今はこの人の不幸を喜ぶことにしよう。そう思ったとき光は、自分にこれ以上は考えるなと言い聞かせた。考えすぎるな、これは悲しんでいる人を慰める為なんだ。大好きな人が悲しんでいたら、それを慰めたいと思うのは当然じゃないか。それに、この人はきっと前の恋人にも、こんなふうに迫って、こんなふうにしていたんだ。こうやって甘えて、迫って、ヤってたんだろう。「一緒にいるとダメになる」……か。今なら何となく分かる。今はいいけれど、もしこれが違う場面だったら。たとえば将来の不安を話し合っている時とか、そんな時でもこんなふうに強引に流していたら、そんなの長続きするわけがない。いや、そもそも今だってそうだ。こんなことをしてしまったら、明日からはどんなふうにしていけば……ああ、ダメだ。考えちゃいけない。

光は自分に言い聞かせる。

何がいいことで、何が悪いことか、考えてちゃいけない。今はただ、今のことだけを考えよう。あとのことは、あとで考えればいい。何もかも忘れよう。今夜だけは、何もかも……。

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