47.ペースメーカー

2月、外は寒い。

阿山 喜一(あやま きいち)は走っている。彼は卓球部に所属していて、毎日自主的に朝練をしている。高校1年生、165センチ、60キロ。毎朝10キロ走るので、筋肉はシッカリついていて、余計な脂肪は一切ない。だからこの寒くて渇いた時期では、2キロくらい走っても汗は出ない。

「全然、暖まらないな」

10キロを50分台で走るペースだが、それでも汗ではなく溜め息が出る。それに、スタートもゴールも決まっているのだが、どこまで走ればいいのか分からない気がした。ペースだって上げられるが、上げる気が起きない。まるで、

「なるほど。腑抜けるって、こういうことか」腑抜けている。オレは今、確実に腑抜けている。原因はアレだ。吉岡先輩に勝ってしまったからだ。


「おいおい、クソザコじゃねーか」

吉岡 光春(よしおか みつはる)がそう言って笑ったとき、喜一も笑うしかなかった。こんな負け方をしたのは初めてだったし、生まれて初めて本物の才能を見たからだ。

トータルのスコアは3-0で、ストレート負け。しかも3試合とも11-0。文字通りの完封だ。

高校2年で全国一になった選手がいるとは聞いていた。自分より強いのは間違いないとも思っていた。しかし、こっちだって中学の全国大会で1位だった。勝てないにしろ、何か出来るとは思っていた。

「ま、気にすんな。オレは天才だから♪」

こんな負け方をするかよ、と思った。おまけにクソザコ呼ばわりされるなんて。

喜一は家に帰って、泣いた。情けなくて、恥ずかしかった。入部初日の挨拶で、「一番強い人じゃないと、オレの練習相手は務まらないと思いますよ」そう言い放ったことを思い返すと、顔から火が出そうだった。

頬を滑り落ちた屈辱は、やがて胸の奥で闘志に変わった。

「絶対アイツに一泡吹かせてやる」

その夜、喜一はオーバーワークな朝練メニューを組み、翌朝にはそれを実行した。もちろん部活の時間には全身全霊で打ち込んだ。光春の研究も怠らなかった。身長が180、体重は70。単純にリーチが長いのもあるが、何より全身がバネのようで、普通なら絶対取れない球まで打ち返してしまう。

「天才か。たしかにそうだ。あの体は、確かに天性のもの……」

一週間ほど観察した結果、正攻法で落とせる相手ではない、対・光春用の戦略を練る必要があると気がついた。4月に掲げた打倒・光春の目標を達成すべく、喜一は徹底的に自らを鍛え上げた。そして年が明けた1月、部内の順位を決めるリーグ戦が開かれると

「案外、大したことなかったですね。先輩」

トータルスコアは3-1。いずれも11-8,11-7,8-11,11-9と接戦だったが、喜一は光春に勝った。最後のカウンターでのスマッシュが決まった瞬間、光春はその場に崩れ落ちて、泣き始めた。一方、喜一は雄叫びを上げたい心を必死で押さえ、情けなく泣きじゃくる先輩を見下ろし、

「お先します」

そう言ってシャワールームへ向かった。ぐっしょりとかいた汗をシャワーで流すと、喜一は泣いた。あの夜とは違う涙を思う存分に。


リーグ戦から一カ月が経った今日、喜一は一滴の汗もかかずに5キロの折り返し地点に辿り着いた。折り返し地点は電柱だ。いつも通り、そこで左に回って――。

「待てコラァ!」

後ろから声がした。

「はぁ、はぁ、てめぇ、待てコラァ」

声の主は光春だった。汗だくで、肩で息をしている。もう限界って感じだ。

とりあえず喜一は反転して、もと来た道を走り始めた。

「だから、はぁ、はぁ、待てよ、てめぇ」

その横に光春がぴったりと張り付く。

「先輩、何してるんですか?」

「走り……はぁ、はぁ……走り、込みだよ。見たら分かる……はぁ、はぁ……おぷっ」

光春の顔色が悪い。吐くな、と予感した。

「ペースを落としましょう」

「ふざけんな。落とすかよ、ボ……おぐぅ」

「そうですか。僕は休みたいから、少し落としますんで」

喜一が6割の速度に落とすと、光春もペースを落とした。

「おっぷ、てめぇ……何だよ、体力ねぇな」

「吐きそうな顔して、よく言いますね」

「ふざけんっ……ごくっ」

「今、飲み込んだのは何です?」

「……はぁ、はぁ、何でもねぇよ。てめぇ、毎朝、こんなに、走って……はぁ、はぁ……」

「そうですね。あなたにクソザコ呼ばわりされた翌日から、毎日走ってます」

「はぁ、はぁ、マジ?」

「そうです。何か問題ありますか? クソザコに負けた先輩さん」

「お前なぁ……そういう態度、直せっ」

「呂律が回ってないですね。クソザコに負けた先輩さん。で、クソザコに負けた先輩さんは何で走ってるんです?」

「この……陰湿ヤロー……はぁ、はぁ……分かるだろ。てめーが、朝練してるなら……オレだってなぁ」

「ペース、落としましょうか?」

「ふざけんな、はぁ、はぁ、要らねぇよ、バカヤロー」

「じゃ、ボクは上げますね」

8割、いや10割だ。

喜一はペースを上げる。すると光春との距離はグングン開く。

「待でっ! ゴラァ!!」

叫ぶような声が聞こえたが、

「おっぶ……!」

あえて目線は向けなかったが、案の定、吐いたらしい。いい気味だ。

「ぷはっ……! おいゴラァ! てめぇ! 天才が、はぁ、はぁ、天才が! 努力したら! どうなるか! てめぇに思い知らせてやるからな! 覚えとっ……おぶっ!」

光春が怒鳴る。

そこまで言うなら、ちゃんと先輩に聞こえるように、大きな声で返さないとな。

「そうですか。がんばって」

喜一は走る。5キロを超えたからか。それとも10割の力で走ったからか。いや理由なんて何でもいい。今一番大事なのは、体が暖まって来たことだ。

喜一は更にペースを上げる。このまま最後まで走り切れるか分からないが、それでも上げよう。それくらいしないと、あの人には勝てないからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る