46.当て馬じゃねぇ
夏休みに入る直前、フラれた。けれど薄々予感していたから、思ったよりショックは小さい。それでも胸は苦しくて、走って、歩いて、街を彷徨って、夜になっても家に帰らず、学校に戻ってきてしまった。神山 涼子(かみやま りょうこ)。16歳。高校生。たった今、水泳部の先輩・木場 敬(きば けい)にフラれたばかり。
何で学校に戻って来たのか? 理由はハッキリしている。泳ぎたいからだ。クラスメイトとモメてムカついたときも、親から成績についてグチャグチャ言われたときも、友だちがケガで部活を引退して一緒に泣いた日も、いつだって泳げば落ち着いた。フラれて悲しいけど、泳げば落ち着くはずだと思った。門限はとっくの昔に過ぎている。
夜の学校は無人だった。涼子の通う学校で一番厳しい野球部も引き上げている。壁をよいしょっと乗り越えても、誰も何も言ってこない。外壁を乗り越えて校舎に進入したら、あとは簡単だ。プールは屋外だし、周りを覆っている金網はけっこう派手にガシャガシャ鳴らしても、どうせ無人だし、問題ないだろう。
一時間くらい、いや、二時間くらい泳ごうかなと思った。夜のプールが見えてきた。ストレッチは条件反射になっている。手足をグルグル回しながら、泳ぐ気持ちを高めていく。
と、先客がいた。
「やばっ」
涼子は慌てて校庭の桜の木の陰に隠れる。こんな時間に高校のプールに忍び込むなんて、変態かもしれない。自分もそうなのだけど。
目を細めて、月明かりの下にいる先客を見る。シルエットに見覚えがあった。綺麗な逆三角形の肉体は、水泳選手独特のものだ。
「先輩?」
今しがた自分をフッた木場先輩だった。見間違えるわけがない。あんなスタイルの良い男は、そうそういないから。でも――
その横には、別の男がいた。そいつは水泳部じゃなかった。身長も低いし、誰だろう?
2人は制服を着て、プールサイドで楽しそうに談笑している。木場先輩が友だちと遊んでいるのかな?珍しい。あの人は真面目で、けっこう厳しい人だ。夜にプールに友だちと忍び込むような人だとは、思ってなかった。
そのときだった。
身長の低い男が、木場先輩にキスをした。
「えっ?」
涼子は小さいが、声を出してしまった
「誰かいるのか?」
木場先輩の声がした。
「やばい」と思ったときには、涼子は逃げ出していた。全力疾走。振り返らず、何も言わず、必死で走る。水泳部らしく鍛えられた背中を、木場先輩に見られていることも気にせずに。
翌日の放課後、さっそく呼び出された。木場先輩と2人きりだが、先輩は今まで見たことがない顔をしていた。ああ、先輩は普段から厳しいけれど、ここまで怖い顔をするんだな。
「昨日のことなんだけど、神山、お前さ。オレらのこと、見てたよな」
「何のことですか」
「トボけるな。オレと、もう一人がプールにいたところをだよ。逃げてく背中しか見えなかったけど、アレはお前だろ」
「ごめんなさい、本当は見ました」
「どこから、どこまで見てた」
「話して、キスしたところまでです」
「そうか」
怖い顔が、少し、いいや、ドンドン弱々しくなった。心配してる、涼子にはすぐ分かった。絶対に勝てないと分かってる競技会のとき、先輩はこういう顔をするからだ。何を心配しているのかすぐに分かったから、涼子は言った。
「あたし、誰にも言わないですよ。昨日見たこと、何も言わないです」
涼子はそれが当たり前だと思った。詳しくは知らないけれど、こういうのはとても繊細な問題だし、木場先輩本人も酷く心配そうにしている。言っておいた方がいいと思った。
「だから、別に心配しなくていいです」
「信用できない」
木場先輩が言った。
「オレ、お前をフッたしな」
「は?」
待てよ、何だそりゃ、涼子は思った。木場先輩、あんたは私を、フラれた腹いせに、他人の大事なことをネタに何か悪いことするクズだと思ってたのか?
「これだけは言っておく。もし、お前がオレらのことを喋ったら、そのときは水泳部にはいられなくなると思え」
木場先輩がこっちを睨んでいる。こっちを脅している。そう言えば、こんな言葉を知ってる。『百年の恋も一時に冷める』今がまさにその一時だ。何故あたしが言いふらすのが当然みたいに思ってんだよ。
「先輩、あたし――」
「何も言うな!」
怒鳴られた。いつも叱られるけど、あれとは違う。いつもの先輩なら、声は大きくても震えはしない。真っすぐとこっちの目を見て、よく通る声で怒鳴る。そういう声には「はい」としか答えないし、そういうところが好きだった。でも、今日のコレは違う。だから何とも思わず言い返せた。
「あたしがそんなクズに見えますか?」
「あ?」
「あたしのこと、そんなクズだと思ってたんですか?」
全然怖くないし、全然言い返せる。落ち着いて、静かに、ゆっくりと反論できる。そうか、あたしって本当に怒るとこうなるんだ。
「ち、違う、そういう意味じゃない。分かるだろ? こういうのは、とても複雑なんだ。それにお前はフラれたばっかだ。ただでさえ女って感情的になり易いし……」
「そうですか?」
「いや、世間一般の話だよ。お前はどうか知らないけど、よく言うって、そういうレベルの話で……」
しどろもどろだ。こうなってしまったら、もうためよう。何を話しても意味がないし、こっちもあっちも、不愉快になるだけだ。
「先輩にフラれたことはどうでもいい。先輩がゲイなのも別に何とも思わないです。でも、あたしをそういう性根の曲がったクズだと思ってたこと、すっごく残念です」
そう言うと、先輩は震えながら怒鳴った。
「う、うるせぇな! お前に何が分かるんだよ! オレたちのことなんて、何にも分からねぇだろうがよ!」
身長180を超える男にキレられている。なのに、何でだろう? 負ける気がしない
「ええ、分かりませんよ。分からないから、丁寧に話したかったし、話してほしかったんです。勝手に悪役扱いされたくなかった。それだけですよ」
そう言うと、木場先輩が急に小さくなった。もちろん気持ちの問題で、実際に小さくなったわけじゃない。でも確かに、少なくとも涼子の目には小さくなったように見えた。
「ごめん」
そう呟いたときには、ハッキリと自分より小さくなってるように思えた。
「とにかく、あたしは何も言いませんし、水泳部も辞めないです。いいですね?」
「……いいよ」
「じゃあ、この話はこれでおしまいです」
「ごめんな。たしかにオレ、失礼だった」
「いいんです」
「なぁ、神山。お前をフッて、悪かったな」
最後の最後で吐いた言葉がそれかよ。何も分かってないな。でも、これ以上モメてもバカバカしいと思った。何せ百年の恋は、もう一時で冷めてしまったのだから。これ以上、木場先輩と話すのは時間の無駄だ。それよりも、もっとやりたいことがある。
「失礼します」
木場先輩を置いて、涼子は走った。目指すのはプールだ。泳ぐぞ、今日は思い切り、とことん泳ぐぞ。
この日、涼子は200mでベストのタイムを出した。
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