44.ちょうどイイ
田村 正喜地(たむら しょうきち)は栄転が決まった日、恋人から別れ話を切り出された。それ自体は別に悪いことだとは思わなかった。だって自分には妻子がいて、これは不倫だからだ。おまけに男同士、どうせ長く続くとは思っていなかった。
けれど、別れ際にあんな言葉はないだろう。
転任先の東京で、PCと睨めっこをしているとき、ふと思い出す。何でアイツは、最後の最後であんな言い方をしたんだ。
最終出社日。会社の送別会が終わったあと、正喜地は小田 康孝(おだ やすたか)と2人で駅まで歩いた。他愛もない話をしながら。お互い40を超えて、何でこんなことになったんだろうな。社内恋愛で、しかも男に惚れてしまうなんて。人生どうなるか分からないな。
酒も入っていた。普段より饒舌になり、足元にはフワフワと浮かぶような感覚があった。
「それにしても、引っ越し先が東京ってのはビックリだよなあ。お前、44だろ。会社も無茶を言うよな」
康孝が言った。
「いや、俺は45だよ。先月で」
「あ、そう言えばお祝いもしたっけなぁ。ハハハ、悪い悪い、忘れてた」
「忘れるのは酷いな。不倫相手の誕生日なんだからな」
「コラ、不倫なんて街中で言うなよ」
「今ごろ気にするか?」
そう言うと正喜地は安田を手を取ろうとした。いつもなら、こうして手を繋げるのだ。けれど、康孝はサッと手を引っ込めた。
どうした? 正喜地がそう思ったとき
「大事な話があるんだ」
康孝の目からは、酔いが消えていた。
「何だよ?」
「オレたち、別れないか? こういうのは続けられるもんじゃないし、お前も転勤するし、ちょうどイイ機会だと思うんだ」
正喜地は康孝の提案自体は拒絶しなかった。分かっているからだ。どうせ長くは続かないと思っていた。悪いことをしている自覚もあった。いつかやめないといけない、漠然とそう思っていた。それでも、「ちょうどイイ機会」という言葉だけが引っかかった。
ふざけんな。何がどう「ちょうどイイ」んだよ、バカ野郎。
「ちょうどイイ」って言葉の持つ軽さが感情を逆なでした。それに「ちょうどイイ」のは事実だ。40超えて遠距離恋愛なんて無理だろう。ちょうどイイ、だけど、「ちょうどイイ」とは言われたくない。
オレたちの関係は転勤で消えるのがちょうどイイのか? その程度だったのかよ。オレは本当に惚れていたんだぞ。でも、分かってるよ。
「康孝……お前の言う通りだよ。潮時って言うか、ちょうどイイかもな」
正喜地は答え、そして2人は別れた。
最後の最後で、嫌な思いをした。それに嫌な思いをさせてしまった。
ある日の昼休み、康孝は屋上の喫煙場で煙草を吸っていた。いつもなら正喜地といるのだが。あいつは今ごろ、東京のデカいビルの中で忙しくしているだろう。
別れたのはつい一か月前なのに、やけに懐かしく感じる。きっと取り返しがつかないからだろうと思った。
「ちょうどイイ……んなワケねぇよな」
あの日、正喜地にかけた言葉を反芻する。
そうだ、そんなわけないんだ。でも言わなきゃいけなかった。あれ以上続けることは、きっと俺もアイツも不幸になるだけだ。後腐れなく別れなきゃいけなかった。そのためなら、嫌われるくらい大したことじゃない。
ただ、胸は痛い。「ちょうどイイ」そう言ったときの、正喜地の表情を思い出すとーー。
「何でそんなこと言うんだよ」
顔にそう書いてあった。そのとき悪いことをした。でも、成功したと思った。これでもう、後ろ髪を引っ張られることはないだろう。、本当の意味で別れられた。
しかし、それはそれとして、きっと今日のこれみたいに、ふとした時に思い出すのだろう。アイツと過した日々と、最後にかけた言葉を。
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