43.瀬戸際

死ぬほど殴られた。いや、まだだ。

「ぐぅっ」

まだ殴られている。何でこんな目に遭ってるんだ、俺は。

「おぐっ」

もう一発、今度は腹だ。肘でガードしなけりゃヤバかった。そのまま倒れていたかもしれない。それで終わりだ。

でも……何が終わるんだ?

「ぶっ」

顔面にグローブが飛んできた。そいつが直撃して、やっと思い出した。

観客の熱狂、眩しいライト、真っ赤血が飛び散ったカンバス。

ああ、そうだ。俺はボクサーで、今まさに試合の真っ最中なんだ。17で飛び込んで、殴って、殴って、殴った。倍くらい殴られたけど、25でベルトを腰に巻いた。今度はベルトを守るために殴って、殴って、気がつけば27になっていた。

でも――。

「がっ」

また腹かよ。今度はマジで入っちまった。コイツ、マジで容赦がねぇな。

背中に冷たい感触。

そうか。オレはコーナーを背負っているのか。

「げうっ」

ワン・ツー、綺麗に2発、オレの顔面に入れやがった。膝が震えてる。崩れ落ちていいんだ。知ってるよ。殴られると、人は壊れるんだ。スパーリングでブッ壊れて引退する選手だって、けっこうな数いるんだ。チャンピオンだったのに、殴られすぎたせいで引退後マトモに生活できないヤツもいる。ファイトマネーは貰えるけど、それにしたって何で殴り合うんだろうな? 他にも仕事はあっただろ。何でこんな商売をしてるんだ。それにさ、そもそも何で俺は倒れてねぇんだろう? 

「ぶぐっ」

腹。またマトモに入った。こいつ本当に凄いパンチを持ってやがる。勝てるわけねぇ。オレは――クリンチだ。倒れないためには、それしかない。

「もうやめろ。あんた、死ぬぞ」

あん? 誰だてめぇ、うるせぇな。

「あんたを壊したくねぇんだよ。先輩」

ああ、そうだ。対戦相手だな。お前は、それで、後輩だ。高校の時から、そうだったな。オレと一緒にボクシングをやったんだったな。ホント、バカみてぇに練習してたよ。いや、オレもやったよ。けどさ、お前には負けるよ。

「タオル投げさせろ。ホント壊れるぞ」

うるせぇよ。誰がタオルなんか投げさせるかボケが。

「ぐっ」

これはオレの声じゃねぇ。オレが殴った相手、そうだ、目の前のこいつの声だ。クリンチから、脇へ一発。手応えあり――。

「ぶっ、がっ、かっ」

オイオイ、マジかよ。そんなキレる? 顔面ばっかじゃん。もう前が見えねぇのに、なんでこんなに殴るんだ? 死んじまったら、どうするよ?

またクリンチだ。

「先輩、本当に死ぬぞ」

勝てるわけねぇ。オレより若くて、オレより才能も努力もしてる。そいつがやっと実を結んだ。そんな相手に勝てるわけねぇ。なのに、やっぱ負けたくねぇな。

そうだ、そうだよ、オレは負けたくねぇんだ。だからボクシングを始めたんだ。オレが男が好きだって言ったとき、「気持ち悪い」って言ったヤツら。そいつらをボコボコにしてやるためにボクシングを始めた。殴れば殴るほど、もっと殴りたいヤツが出てきた。そのうち殴ること自体が好きなんだなって気がついた。二十歳過ぎた頃くらいだったかなぁ。天職だって思った。ハッキリ覚えてる。

「やめさせろ。もう十分やったよ、あんたは」

ふざけんな。まだ殴りたり足りねぇんだ。死んでもやめるもんか。初めて出来た恋人に止められようが、オレは絶対やめねぇぞ。

「やめろ、いいな? いいな?」

うるせぇんだよ、オレはやめねぇ。

「つっ……!」

ほらよ、一発入れてやったぜ。顔面にイイのを。オレの一番得意な右のアッパーだ。手応えはねぇけど、ざまぁみやがれ。

おおっ、キレたな。表情が変わった。怒ってんな。でも、何でだ? 何でちょっと悲しそうなんだよ。そりゃどういう意味だ。

ああ、分かった。右か。右のフックで、俺の顎を撃ち抜く気だな。バレバレだぜ。動きがスローモーションみたいにゆっくりじゃねぇか。それにお前、3人に分身するのは反則だろ。それに、周りのこれは何だ? 観客もどっかに消えたし、静かすぎる。みんないなくなって、周りは……ああ、ガキの頃のオレだ。泣いてる。そうだそうだ、そう言えば昔はイジめられて、ああやってよく泣いてたな。

なぁ、ガキのオレ。泣くなよ。大丈夫だ、オレは強くなるから。世界一強いんだぞ。世界チャンピオンになって、死ぬほど殴られたって死なない。無敵の男になるんだ。だから泣き止めよ。オレは強いんだ。絶対に負けねぇんだ。

「ぐぶっ」

おい、天井じゃねぇか。昔のオレは何処に行った? いや、オレの体は? あれ、どっちが床で、どっちが天井だ? オレの体は、どうなってる?

「ぶがっ」

おいおい、ガキのオレじゃないか。さっき一瞬どこ行ってたんだ? まぁいいや。泣き止んだな。いいぞ、それでいい。安心しろ。オレは負けねぇんだ。何があろうが、絶対に――今お前、何て言った?

「先輩、さよなら」

あっ、顎をやられた。

それに分かるぜ、この感じ。新人の頃に何回も味わったからな。天に昇るこの感じ。こうなったら、もう無理だよ。オレのKO負けだ。

だけど……妙だな。何で周りがドンドン真っ暗になって、オレは冷たくなっていくんだ? 全身の汗が引っ込んでいく。ああ、もしかして、これはヤベェやつなんじゃないか。

でも、まぁどうでもいいか。ガキのオレが笑ってくれてる。あんなに泣き虫だったのになぁ。それだけで、もういいや。よく頑張ったよ。もう、しばらくゆっくり眠ろうぜ。おやすみなさい、オレ。今はとにかく眠りたいんだよ、オレは――。

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