41.オナホールの恩返し

「前に助けてもらったオナホールだ」

「おまわりさーん!!」

突如として部屋に来た異常者に、鏡 京太郎(かがみ きょうたろう)は国家権力へ助けを求めた。

しかし、すぐに異常者は彼の口を押さえ、

「デカイ声を出すんじゃねぇ。ホントに警官が来たら大変なことになるだろうが」

いやいや、警官が来ないとこっちが大変なことになる。

京太郎は大きく、柔らかく、やたら良い香りのする手を引っぺがそうとするが、異常者の力は強い。見ればガタイが良すぎる。身長は180以上あるし、細いのではなく徹底的に絞られた、非情に筋肉質な体だ。ジーンズに黒無地のTシャツというシンプルなファッションが様になっている。そのくせに中性的な、まるで海外の女優にも見えるような美しい顔をしている。もしパリコレとかだったら、「美しい」と素直に賛辞を述べただろう。かし、残念ながらこの人物は「オナホール」を名乗る異常者だ。

なんてことだ、こんなことになるなら一人暮らしなんかやめればよかった。初めての大学生活、初めての一人暮らし。その最初の夜に、異常者が家に踏み込んでくるなんて……。

「おい、京太郎。今から手を放すけど、大きな声を出さないって約束できるか?」

約束できるわけがない。助かるラストチャンスだ。腹から叫んでやるー―ん? ちょっと待てよ。

異常者が手を放した。

「どうして僕の名前を?」

「言っただろ。オレはお前に助けられたオナホールだ」

「えっと、話が見えないんですけど……」

「高校3年生のとき、お前がやったことを思い出せ」

「高3?」

京太郎は記憶を掘り返す。もっとも、つい数カ月前のことだが。

「あっ」

「思い出したか? お前がやったことを」

「はい。たしかに僕は、オナホを拾いました」

京太郎は思い出した。高校三年生の夏休み。彼は近所の森の中で不法投棄されていた未開封のオナホールを発見した。受験シーズンの夏休み、誰がどう考えても大事な時期だ。しかも未開封とは言え、落ちているオナホール。拾うべきではないと最初は思った。

しかし、京太郎は未成年で、おまけに実家暮らしだった。逆に言うとオナホールを入手する方法は「落ちているものを拾う」しかない。これは千載一遇のチャンスなのもまた事実――そう思ったとき、彼はオナホールを家に持ち帰っていた。

そして、京太郎は使った。もう徹底的に使った。洗って何度でも使える高級品だ。夏・秋・冬と使い倒した。しかし春、志望校への合格が決まる頃に、オナホールは壊れてしまった。普通に捨てれば家族にバレる。何より一年間、自分を慰め続けてくれたホールだ。愛着もあった。せめてもの供養のつもりで、彼はそれを近所にある神社の裏の森、オナホールを拾った場所に埋めて、手を合わせた。

「あんた、オレを可愛がってくれたよな?」

「ま、待ってください。確かに高3の頃にオナホールを拾って、大事に使いましたよ。でも、オナホールが人間になるなんて、さすがに信じられない。それにどうして男なんですか?」

「オレだって分からない。気がついたらあの寺の森で倒れてて、覚えているのはただ一つ。オレは元オナホールで、お前に愛されていたということだけだ。それと――」

異常者、否、自称オナホールは手を広げた。

「これを見てくれ」

「これって……」

ただの手じゃないか。指は長くて綺麗で、やや深爪気味だが……え?

「え、ええ?」

京太郎は息を飲んだ。手から液体が染み出してくる。手汗なんて量じゃないし、そもそも汗でもない。粘着質なそれは、どろっと自称オナホールの手を覆い、しばらくすると一筋だけがゆっくりと重力に従い、玄関の床に落ち始めた。

京太郎には一発で分かった。これはローションだ。この自称オナホールは、手からローションを自然発生させた。およそ人間に出来ることではない。

「信じたか?」

信じざるを得なかった。手からローションが発生するなんて、手品でも出来るわけがない。逆に何らかのトリックだったとしても、そこまでして自分はオナホールだと言い張る意味がない。

「はい、信じます。でも……」

新たな疑問が生じた。何故、男なんだろう? こういうときは美少女だと相場が決まっているではないか。

「どうして、男なんですか?」

「よく分かんねぇけど、オレを作ったのが男だったからじゃねぇかな。それに使ったのも男だろ? 道具としてのオレは、生まれてから死ぬまで男の心にしか触れていない」

「男の念が籠り、男になったってこと?」

「たぶん。それ以外に思い当たる節がねぇ。ま、それよりさ♪」

オナホールが、京太郎の腰を抱いた。

「恩返し、されてもらうぜ?」

「へ?」

恩返し? オナホールの恩返しと言うと、ひょっとして?

「あの、もしかしてエロい系ですか?」

「もちろん♪」

「いやいや、待ってください! 僕は別に男の人に興味はないですし……」

「相手がオレでも?」

オナホールの瞳が輝く。美しい。黒い宝石のような瞳だ。別にルールがあるわけでもないが、京太郎は「反則だ」と思った。男も女も超越したような、圧倒的な美しさがあった。

「それは、そのっ……」

言葉に詰まる。断りたい、断りたいのだが……

「心配すんな。あんたのことは誰より知ってる。どこをどう責められたら悦ぶか、どんなことをしたいのか……」

いい香りがする。オナホールの手が、京太郎のTシャツをまくった。彼の手は徐々に下へ、

「んっ」

思わずエロい声が出る。

まずい、まずいぞ。

京太郎の理性が必死で抵抗する。彼は童貞で、こういう経験は初めてだ。しかし、今のこの流れには従うわけにはいかない。

京太郎は拳をギュッと握り、自分に言い聞かせる。

ダメだダメだ、気を強く持て。絶対に、こんな流されるような――。



翌朝。京太郎は全裸でベッドに寝転がっていた。カーテンから覗く眩しい朝日に照らされ、目を覚ますやいなや、

「流されたぁぁぁぁぁぁぁ――!!」

心の中で慟哭し、頭を抱える。

まさか初めての相手がオナホールの精霊(?)で、しかも男になってしまうとは。でも、あんなの反則だ。あいつが言った通り、あいつは全部を知っていた。こっちが求めること、やりたいこと、やってほしいこと、全てを完璧に突いてきた。抗えるはずがない。

「ズルいぞ。どうなってんですか?」

京太郎が質問を投げたのは、この世界そのもの。オナホールを人間の美男子に転生させ、恩返しに差し向けた「存在」。この世界でこんなことが起きるなんて。この世界は、あるいは神様と言うべきか、とにかくオナホールに生命を与えた存在は、何を考えているんだ。こんなことが起きるなんて、絶対にありえない。ありえない、はずなのに……。

体中に残る激しいキスの跡、情事のあとの淫靡な香り。汗でやや湿ったままのシーツ。全てが昨夜のことが現実だったと証明していた。

しかし――。

「あっ」

オナホールがいない。綺麗サッパリ消えてしまっている。

京太郎の全身に、昨夜の感触が残っている。乱れた記憶、愛された記憶もある。しかし、その相手がどこにもいない。ただ彼だけが夢の世界に置き去りになったようだ。

「そっか。帰ったのか……」

オナホールは恩返しだと言ったけれど、京太郎は彼を使っただけだ。ただ半年ほど使っただけなのに、オナホールから人間になって恩返しに来るなんて……そんなに使われたのが嬉しかったのだろうか? 京太郎は人間である。当然、道具の気持ちは分からない。しかし、彼が自分に抱いてくれていた気持ちは、何となく理解できた。

京太郎は布団に倒れ込み、天井を仰ぐ。

義理堅いヤツだったな。むしろこっちが感謝するべきなのに。半年間、ずっと自分の性欲に付き合ってくれたこと。そして、こうしてまた恩返しにまで来てくれたこと。何より、少々強引で変な体験だったけど、最高に気持ちがよかったのは事実だ。だから――

「ありがとう」

京太郎は呟いた。そう言うべきだろうと思ったから。



すると家のドアが開き、ビニール袋を持ったオナホールが現れた。

「朝飯を買ってきたぞ。あと財布、返すわ」

「……へ?」

「どうした?」

「え、いや、帰ったって言うか、てっきり消えてしまったと思ったんですけど……」

「それがなぁ、オレも消えるかと思ったんだけど、普通に目が覚めて、腹も減っちゃって。あ、財布、勝手に借りてすまねぇな」

ごくごく当たり前のように部屋に上がり込んでくるオナホール。どういうことだ? こういうのって普通は一夜限りとか――

「え、えっと……恩返しって、いつまで続く感じなんですか?」

「それな」

オナホールがビニール袋からサンドウィッチとコーヒーを取り出す。

「実はオレにも分かんねぇんだよ。てっきり一晩だけだと思ってたんだけどなぁ」

どういうことだ? 

京太郎の頭が高速回転する。そして、ある仮説に行きついた。

「もしかして、こっちの世界のものを食べたりしました?」

そうだ。小説や映画でたまに見る。異世界に行った人間が、そっちの世界の物を食べたせいで、その世界の住人になってしまう話。戻れなくなってしまう話だ。

「あっ」

オナホールが固まった。

「言われてみると……昨日の夜、飲んだわ。いや、飲んだし、注がれた。お前の――」

「ストップ!! 朝からそれは聞きたくないです!」

「『千と〇尋の神隠し』みたいなやつだな。両親が豚になるやつ」

「何で知ってるんですか。国民的名作をこんな最低の会話で出さないでください」

つまりオナホールが恩返しにきたとき、その恩返しに応えると、自動的にオナホールにこちらの世界のものを「摂取」させることになる。オナホールに人間の肉体を与えたのが神だとしたら、まさにこれは神の意表を突くエロの永久機関だ。……で、どうしよう?

「とりあえず、朝ご飯を食べようぜ。そのあと、今後のことについて話し合おう」

オナホールが言った。

「うん。了解」

京太郎は適当に服を着て、オナホールが買ってきたサンドイッチを手に取る。食べるが、味を感じない。考えるべきことが多すぎて、それどころだからだ。

彼は永遠に消えないのだろうか? ということは、僕はこのまま一生オナホールと添い遂げるのか? と言うか大学生活はどうすればいいんだ? でも、また今夜もあれくらい乱れてしまうのか? それはそれで悪くないような――いやいや、これ以上は流されちゃダメだ。

疑問は止めどなく湧いてくる。

「あ、そうだ。食べ終わったらさ、オレの名前を考えてくれない?」

オナホールが言った。

「このままココで生きるなら、さすがにオナホールが名前だと色々と問題があるだろ」

「たしかにそうですね、オナホールさん……うん、やっぱりこの名前で呼ぶのは、ちょっと悪い気がしますね」

「だろ? よろしくな」

「はい」

少しずつサンドイッチの味が分かってきた。今、自分が食べているのはハムチーズ。これは、やはり美味い。

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