40.一撃必殺

寝室で眠る妻と娘に「おやすみ」を言う。そして多部 友晃(たべ ゆうこう)は寝間着を脱いで、クローゼットの奥にしまいこんでいたYシャツと黒のスーツを着た。灰色のネクタイを締め終わったとき、久しぶりだが、違和はない。あの頃と変わらないと思った。

友晃は2階から1階のキッチンへ向かう。そこに1人の男が立っていた。彼と同じ黒のスーツを着ている。ただしネクタイは黒だ。

「準備は?」

男が言った。

「まだだ。場所を変えたい」

「何故?」

「どうなろうと、この家に血の跡を残したくない」

「だったら何処かの道路で」

「いいだろう」

「それでは」

灯りの無い廊下に、2人の革靴の音が響く。玄関へ歩く男に、友晃も続いた。

強くなっている、と友晃は悟った。背中が大きくなっているし、「歩く」という些細かつ些細な動作だけでも、彼が昔の彼ではないことが分かった。

友晃は彼の本名を知らないが、彼を何と呼ぶべきかは知っている。

「ロウ」。ここでいう「ロウ」は「Law」、英語で「法律」の意味である。彼は黄色人種であり、髪も瞳も黒い。英語圏の人間ではないが、そう呼ばれていた。彼の組織の中での役割だ。あの犯罪組織にはアジア・ヨーロッパ・アメリカ・アフリカ、世界中の人間が所属していた。コミュニケーションを円滑に進めるために英語が選ばれ、それが彼にLawという名を授けたのだ。

「ロウ、強くなったな」

友晃が言うと

「ええ。昔の貴方よりも」

「言ってくれるな」

苦笑い。友晃は昔を思い出した。彼が自分の助手だった頃を。出会ったとき、彼には異名すらなく、本名も戸籍もない、ただの捨て子だった。友晃は彼を『ガキ』と呼び、ガキは

友晃を『ロウ』と呼んだ。

「皮肉なもんだな。これからオレが教えた技術が、全部オレに向けて使われるわけだ」

ロウは立ち止まった。

「同情はしませんよ」

背中越しの声に、友晃は答える。

「分かってる。オレがお前を見込んだのも、お前がそう言う性格だからだ。お前は誰が相手だろうが変わらない。たとえ昔は師匠で恋人だった相手でも、上に『消せ』と言われれば消すだろうさ」

「挑発や皮肉も意味がありません」

「それも分かってる。だけど、お前だって分かってるだろう?」

「ええ。あなたはお喋りだ」

「ハハハハ、やっぱり分かってるな。ひょっとすると今のオレの奥さんより、オレを分かってるかもしれない。今さら後悔してきたよ。あのまま抜けなきゃ良かったかな。で、悪いことならまだしも、暗殺なんてやってられねぇって、もっとお前に相談すりゃよかった。そうすれば、こんなふうになることもなかったかもな」

「勝手に消える前に、するべきでしたね」

「だなぁ。お前、やっぱオレより才能があるよ。オレよりよっぽど『ロウ』って名前が似合う。オレには務まらなかった」

「残念ですね」

「おっ、同情してくれる感じ?」

「いいえ。ただの感想です」

2人は外に出て、しばらく歩き、向かい合った。深夜二時、人通りはない。在るものは街灯の光だけだ。

「オレが負けたら自殺ってことにしてくれ。悪いけど、どっかそのへんの電柱なり木なりに吊るして貰えると助かる」

「了解しました。遺書は?」

「組織を抜けた日に書いた。机の中にしまってあるよ。オレが自殺したってなれば、たぶん遺品整理のときに見つかるだろう」

「それは――」

「大丈夫だ。誓って言うが、組織の話はしていない。妻と子どもに謝る話を書いてあるだけだ。組織のことは一文字も触れていない。ま、必要なら今、新しく書くよ。とにかくオレの妻と子どもを巻き込むな。『ロウ』の肩書を持っているなら、そこの裁量権もお前にあるはずだろ?」

「そうします。あなたが『誓って言う』ときは、絶対に嘘じゃありませんからね」

「話が早くて助かる。それじゃオレが勝ったときの話だけど、お前はここに放置しておく。お前が負けたら、明日から組織は数で押し切る作戦に切り替えるだ。乗り込まれると相手するのが面倒だ。オレは嫁さんたちを連れて、今晩のうちに何処かに夜逃げしねぇといねぇ」

「構いません」

「決まりだ」

友晃は構えた。左手を開いて前に、右手を拳にして奥に。全体重を拳に乗せるため、全体重はどっしりと下半身に。一撃にかける型だ。

すぐにロウも構えた。友晃と同じ、一撃必殺の構えだ。

相手との距離は1メートル。互いに必殺の間合いの中にいる。構えたままジリジリとミリ単位で更に距離を詰め、

「しゃっ」

先に友晃が、

「ふっ」

遅れてロウが右拳を打つ。

そして、胸が砕けた。拳は胸骨を容易く粉砕し、折れた骨が心臓に突き刺さる。

死がすぐに来る。友晃は悟った。

突き刺さったのは、ロウの拳だった。友晃の拳は虚しく空を切った。

「当たりも、しねぇか」

友晃の拳は宙に浮き、衝撃に痙攣し、やがて全身と共に地に落ちた。

血の泡を吹きながら、しかし友晃は笑った。

「お前は強いなぁ。やっぱり、オレの目に狂いはなかった」

「同情はしませんよ」

「それでいい。そうじゃなきゃ、オレみたいに……」

大量の血が口から吹き出る。そして最期の言葉は途切れた。

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