38.ルール無用のガチンコ・ファイト

吹き出したあと、「マジかよ」と声が出た。

「この期に及んで、まだプロレス技で戦う気かよ」

刈谷 正吾(かりや しょうご)の眼前で、2人の男が戦っている。どちらも強い。べらぼうに強い。自分が彼らの先輩であることが誇らしくなるくらいだ。

一人の男が構えている。両腕を上げ、“手四つ”を誘う。

手四つ。それは正面から手を握り合う、最もシンプルかつプロレス的な力比べだ。伊集院 洪(いじゅういん こう)は、178センチの90キロという恵まれた体格をしている。おまけに肩まで伸びた金髪に堀の深い顔も併せ持ち、プロレスの構えは驚くほど様になっていた。とても高校一年生だとは思えないほどに。

しかし、正吾は洪が手四つに構えたとき、彼の正気を疑った。正吾は知っている。洪がプロレス技のみで、この高校の目ぼしい連中を全員シメてしまったことを。あの構えからいつも戦いを始め、常に勝利してきたことを。盤石、必勝の構え。そう言ってもいいが、今回の相手の前では無謀すぎる。だから正気を疑ったのだ。

洪と向き合っている男は露骨な不快感を示した。両手をポケットに突っ込んだまま、「てめえ本気か?」口にこそ出さないが、洪への視線は怒りに満ちていた。

久我 宗太郎(くだ そうたろう)。実家は中国拳法・太極拳をベースに、柔道や剣道、ジークンドーまでも足したオリジナルの護身術「極拳」の道場だ。身長は170センチに70キロと小柄だが、五体には人体を破壊するイロハが叩き込まれている。事実、宗太郎は2年生の全員をシメ、さらに「生意気」と突っかかってきた3年生の殆どの生徒を返り討ちにしたのだが、その全てを1分以内に処理した。必要なら目を突き、睾丸を捩じり上げる。そういう戦い方をする男だ。

宗太郎がポケットから手を抜く。

「正吾先輩、イイんっすね。コイツをブッ倒すだけで、オレともう一回タイマン這ってくれるんですね?」

やはり宗太郎は怒っている。それでも言葉遣いには最低限は気を遣うところがコイツらしいと、正吾は笑い半分で返した。

「ああ、いいぜ」

「ブッ倒すだけってなんだ馬鹿野郎。つーかな、正吾先輩とタイマン張るのはオレだよ。オレが勝つんだよ、チビスケ」

「ハハハ、チビスケだってよ。言われてんぞ、宗太郎」

いよいよ吹き出してしまった。

「分かったっす。んじゃ、こいつ今から潰しますわ」

「だからオレをザコ扱いすんじゃねぇよ。ゴチャゴチャ言ってねぇでさっさと来いよ、チビス――

洪が言い終わる前に、強烈な打突が彼の口を塞いだ。

「ごふぅっ」

痛みの発信源は、鼻。

そのことに気がついたとき、洪は初めて自分が何をされたかに気がついた。宗太郎が放った右の掌底が、顔面のド真ん中に入ったのだ。

「死ねよ」

宗太郎の呟きが確かに聞こえた。次の瞬間、

左わき腹に拳。右胸に胴体全体を押すような掌底。その掌底で宗太郎と距離が出来た瞬間、みぞおちに激痛。足の指を揃えた前蹴り。「蹴られた」よりも「刺された」というべき蹴撃が入ったのだ。

「がうぅ……」

洪が膝を地に着ける。そして彼は、心の底から感心した。なんというデタラメな速さだ。顔面への掌底、左わき腹へのフック、右胸への掌底、みぞおちへのキック。合計4手の攻撃だったが、まるで見えなかった。それに何て重いんだ。全ての打撃に、適切に体重が乗っている。1~2秒の間に繰り出された攻撃とは思えない。

洪は痛みに顔を歪める。一方、「まだやんのか?」そんな呆れ顔を浮かべる宗太郎。2人を見る正吾は

「……ま、演劇と格闘技じゃ分が悪いわな」

「分かってたことっすよね。体は出来てるみたいっすけど、こんなんじゃオレには勝てねぇっすよ。いっぺんオレとやってるヤツなら、あんたなら分かるでしょ?」

「ああ、分かってる」

「だったら、やらせんでいいでしょ。こんなヤツは」

「お前ともソイツとも、オレはやってる。だから分かる。お前ならそうやるだろうし、ソイツはソレくらいじゃ止まらねぇってな」

「はぁ……はぁ……おい、チビスケ先輩。やるじゃねーか、ビックリしたわ」

洪は立っていた。

宗太郎は動揺している自分に気がついた。

たしかに叩き込んだ。特に最後の蹴りは、完璧なタイミングで完璧な位置に突き刺さった。絶対に立てない筈だ。確かに殴ったとき、蹴ったとき、こいつの体は異常なまでに分厚かった。それでも貫いたつもりだったのだが。

「な♪ そいつ、やたら頑丈なの」

正吾はまた笑う。

そういう問題じゃない。急所は鍛えようがないから急所なんだ。その急所を突いたのに、こいつはまだ――

「まだ続ける気か?」

「当たり前だろ、チビスケ先輩」

と、洪は再びあの構えを取る。

手四つ。口と鼻から血が吹き出ているが、堂々と洪は構えた。

「いいねぇ。プロレスラーらしくなってきた」

正吾が言うと、宗太郎は跳んだ。

一息で間合いを詰めると、洪の腹に正拳を突き入れる。

「ごふっ」

洪は打突の衝撃で、体内の空気が一気に出て行くのを感じた。やはり速い、速すぎる。それなりの距離があったのに、あっという間に詰められた。殴り合いじゃ勝てない。何より――

「がぶっ、ごっ」

容赦がない。全力の打撃を次々と放つ。本当に殺す気でやっているとしか思えないほどの一撃。どうすれば、どうすればこいつを倒せる?

そのとき

「大したやつだ」

宗太郎の呟きが聞こえた。次の瞬間、

「あっ」

両手首を宗太郎に掴まれ、引き寄せられる。反射的に後退しようとした瞬間、宗太郎が掴みを緩めた。

洪は宗太郎の100の力から脱するため、120の力で後ろに引いた。しかし、その瞬間に洪の力は60ほどになったのだ。予想外の勢いがついて体勢を崩し、おまけに洪は両腕を掴まれたまま自由が利かない。そして真正面がガラ空きだ。

「ぐごぉっ!」

宗太郎が洪の顎を蹴り上げた。

十分な距離と加速。そして蹴り抜いた手応え。顎は砕けてはいないだろうが、ヒビくらいはいっただろう。不幸な男だ。なまじタフなだけに、なまじ戦い方にこだわったあまり、このような一撃を食らうことになったのだ。

洪の手首を離す。すると彼はそのまま膝から崩れ、引力に引かれ――

「まだまだぁぁぁぁぁ!!!」

絶叫と共に洪が立ち上がってきた。

「なにっ」

宗太郎が驚きの声を上げたとき、既に彼は拘束されていた。太く強い腕に抱かれていたのだ。そして、足は宗太郎の足が浮いた瞬間、それは立派な技として完成した。

「おっ、ベアハッグ?」

正吾は感嘆の溜め息をついた。相手を抱き、持ち上げ、ねじるように締め上げる。肋骨と背骨を圧迫する、シンプルながら強烈な技だ。

「ぐおおおおおおおっ」

洪が締め上げる。

ミシミシと嫌な音がする。

「ぐむっ」

宗太郎は直感した。

このままでは死ぬ。なんて馬鹿力だ。両腕ごと抱きかかえられ、身動き一つとれない。腕力じゃ返せない。オレだって鍛えてる。なのに、その筋肉も骨も全部まとめて砕かれてしまいそうだ。いや、その前に内臓が口から飛び出る。

「死ぬのはテメェだチビスケ先輩ッ、ぐぉぉぉ!」

洪が叫ぶ。上腕二頭筋が膨れ上がる。

マジか、この野郎。まだ強くなるのか。

この日初めて、宗太郎は心の底から洪を恐れ、認めた。この男は強い。普通ではない。自分と互角か、それ以上の力を持っている。ならば――

「ケンカは……なんでもあり、だ」

宗太郎の呟き。洪が「あ?」と聞き返すのを狙って、宗太郎は首を激しく横に振り、その前髪が洪の目を擦った。その拍子で拘束が緩むと同時に、宗太郎は腕を強引に下げ、洪の睾丸を掴んだ。

一瞬で洪の全身から血の気が引いた。「こいつ、マジだ」潰す。間違いなく本気で潰すつもりだ。だったら――。

「ちゅっ」

洪は宗太郎にキスをした。

「……むぁっ!?」

宗太郎は驚き、睾丸から手を離す。

同時に洪はベアハッグを解いて、流れるように宗太郎の背後へ。そして腰に腕を回すと全身全霊でブリッジ

「どりゃぁぁぁ!!」

宗太郎の体は見事な半月上の軌道を描き、頭部から地面に叩きつけられた。ジャーマン・スープレックス。まさにプロレスを代表するフィニッシュで、勝負はついた。


しかし、失神した宗太郎は納得しなかった。

「テメェふざけんな! アレは何だ!」

「リップロックだよ、チビスケ先輩。立派なプロレス技だ」

「ただのキスだろ! バカ!」

「いや、だからリップロックなんだって。それにケンカは何でもありだろ。あんたが言ったんじゃん」

「省吾先輩、オレは納得できねーよ」

「あぁん? どう見てもオレの勝ちだろ、チビスケ先輩」

「あんな技で勝つ野郎に、うちの学校の看板を預けられるか!」

掴みあう2人の間に、省吾が割って入った。

「はいはい。2人とも落ち着け」

省吾は煙草に火を点けた。

「最初からルールは決まってんだよ。オレが背負ってる看板は、オレより強い野郎にくれてやる。それだけだ」

ふぅっと煙を吐く。宗太郎は鼻をつまんだ。

「お前ら以外にも、看板を狙ってる野郎はゴマンといる。そいつらを全員相手するのは面倒だから、オレは後継者の最有力候補を2人、見繕ったわけだが……オレが思うに、お前らってドングリの背比べだよ。ぶっちゃけ」

「はぁ? オレがこのチビスケ先輩と同じだって?」

「先輩、ふざけんでほしいっすね。オレとこいつを同格なんて、節穴としか思えないっすよ」

「うるせぇな」

正吾の発した一言。そのたった一言の迫力で、2人は黙った。

「たった一回の勝った負けたでギャーギャー言ってるくせに、何を偉そうに言ってんだよ。ハッキリ『オレの方が強い』って言えるようになったら来い。オレは3年だから、あと1年はいる。1年ありゃハッキリすんだろ。それともハッキリしねぇか?」

「こんなチビスケ先輩、1日ありゃ充分だよ」

「もう一回やりゃハッキリするっすよ」

省吾はニカっと笑った。

「だったら、そうしようぜ。第2ラウンドだ」

正吾がそう言うと、洪と宗太郎は再び正面から向き合った。

「チビスケ先輩、失神した直後だろ? 死んでも責任取れねぇぞ」

「上等だ。やってみろよ」

再び手四つに構える洪。

対して拳を上げ、テンポよく地面を蹴ってフットワークを刻む宗太郎。

省吾は笑った。

「オレはイイ後輩を持ったなぁ」

そして煙草を投げ捨て、

「ファイッ!」

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