31.本を読む顔
「……こいつ、エロいな」
八木 亮(やぎ りょう)は思った。別に何もエロいことは起きていない。むしろエロさとは真逆の状況にある。それでも今すぐ立ち上がって「お前! エロすぎるだろ!」と抱きしめたくて仕方なかった。けれど、さすがにそんなことはできない。ここは公共の場、図書館なのだから。亮がいくら不良でも、図書館では盛るべからず、それくらいの常識はあった。
とは言えエロいものはエロい。何もできないなんて、何故お預けを食ららなきゃいけないんだ。
「どうかしたか?」
エロい奴が、垣 俊太(かき しゅんた)が言った。
しまった、ウズウズしているのがバレたか。なるべく声を落ち着かせて
「なんでもねーよ」
そう答えて手元の『まんが日本の歴史』に視線を落とした。不信感を帯びた俊太の目を感じたが、じっとやり過ごす。やがて俊太も手元の本『遠藤周作 全集』に視線を落とした。
ヤバかった、と胸の中で溜め息をつく。
でも、何でこんなにエロいんだろう? 本を読んでるだけだぞ?
亮は俊太を見て考えた。
服装は普通だ。カッターシャツに黒ズボン、ごくごく平凡な高校3年生の夏服だ。襟から覗く白く細い首、夏のせいでやや汗ばんだ肌。柔らかな黒髪と細いシルエットも相まって、ショートカットの女性と言われれば信じてしまうだろう。女子バレー/バスケ部に紛れたら、本当に分からなさそうだ。
だけど、そんなのはいつも見ていることだ。こいつと付き合い出してから、亮は一番近くで俊太を見ている。付き合い始めてから三カ月が経つし、今さらそこで「エロいな!」とは思わない。実際、図書館に来るまで「エロいな!」とは思わなかった。
だから今「エロいな!」と思ったのは、そこじゃないんだ。でも、どこだ? 何でこんなにエロく見えるんだ?
俊太がページをめくる音がした。静かな図書館でしか聞こえない、普段なら気にも留めない音だ。新たにめくられたページは、
文字、小さすぎないか。あんなもん読むのか?
亮の疑問をヨソに、俊太の細く長い指が、紙面を滑らかに這う。一文字一文字、しっかりと捉えながら読んでいく。
不意に俊太の長い睫毛が揺れた。指が止まる。
どうしたのだろう? 何か感心するようなことがあったのか?
ふふっと俊太が微笑む。目も止まる。そして鋭い目つきが緩み、慈しむような、柔らかなものに変わる。
やっぱり良い所らしい。
そして数秒ほどの間を挟んで、再び指が動き始めた。柔らかな目と、静かな指の動き。
なんか、幸せそうだな。
亮がそう思ったとき、「エロいな」と思った理由が分かった気がした。
帰りの電車に乗る頃、空は真っ暗になっていた。そんな時間に山の中を走るローカル線は、亮と俊太の2人きりだ。
「図書館は退屈だったか?」
「何でよ?」
「お前、本を読んでなかっただろ」
俊太の指摘が、亮の胸にグサリと刺さる。
図星だ。『まんが日本の歴史』を読んでいたが、正直、聖徳太子が出てきたくらいで飽きていた。考えていたことは「俊太、エロいなぁ」だけだ。
「悪かった。デートで行くような場所じゃなかったな」
「いやいや、フツーに楽しかったぜ。聖徳太子が10人くらいの話を一気に聞くところとか」
「……そうか、わかった」
何も「そうか、わかった」じゃない。絶対に納得していないと分かった。亮にはすぐ察しがついた。何せ小学生の頃からの仲だ。同じマンションで育って、恋に落ちた。付き合いだしたのは高校生になってからで、互いの偏差値には天と地ほどの差が出来ていたが、それでも気持ちを読み取ることはできる。凹んでいるのは一目で分かった。
「ごめん。たしかに本は面白くなかったけど、でも、本当に退屈はしなかったぜ。つーか面白かった」
「図書館で本が面白くなかったら、何が面白いんだ?」
本当のことを言うべきか、言うまいか悩んだ。でも――まぁ2人きりいいか。
「いや、お前がエロかったから」
「は?」
「だからエロかったんだよ。特に顔が」
「……ばっ、ば、バカ、何を言ってる?」
やっぱり怒られた。用意していた言い訳を
「いや、今って2人きりだからいいかなって」
「よくない! そもそも何だそれは?」
俊太は立ち上がった。
「顔がエロいだと?」
「だってしょうがないじゃん。エロかったんだから」
「しょうがなくない!!」
「褒めてつもりなんだけどなぁ。それにさ、本当に楽しかったんだぞ。お前が妙にエロく見えてさ、で、何でかな~って考えるの。そうそう、それで気がついたんだ」
「何だ?」
「本を読むときのお前って、真剣で、優しい目をしてるじゃん。それで分かったんだよ。『エロいって思って当然だわ。この顔は、エッチしてるときと同じだから――
ゴンッ。
鈍い音が車両に響いた。
「痛――ッ! 殴ることないだろ!」
「殴られて当然だ」
「人、いないからいいじゃん」
「そうじゃない。こっちの気持ちを考えてみろ。そんなこと言われたら、これからどんな顔して本を読めばいいんだ?」
「そりゃエッチしてるときの顔で――
ゴンッ。
「痛~……進学校行ってるくせに、手が早すぎるだろ。学校でもそんなんだったらオレ、心配だぞ」
「もうお前とは図書館に行かない」
「なんで!?」
「そういう目で見られるからだ」
「もう見ないって! 悪かった!」
「断る」
俊太はそう言って再び席に着いた。
ガタンガタンと列車が揺れる音だけが響く。
……何て重い空気だ。静かだが、さっきの図書館とは全然違う。気まずい。何て気まずいんだ。何とかしかければ、
そう思った亮は、
「えっと……。とりあえずさ、帰ったら……ヤる?」
ゴンッ。
「盛り過ぎだ、バカ」
俊太の拳骨が落ちた。
こりゃしばらくエロいことは無理だな。
亮は頭頂部を摩り、深く溜め息をつく。
すると、
「……そんなにエロい顔してたのか?」
俊太が言った。その顔はーー
ちょっと嬉しそうだ。もしやエロいと言われて喜んでいるのだろうか。しばらくエロいことは無理だと思ったが、これはワンチャンあるのでは? だったら、そんなの即答だ。
「おう! 見とれるくらいな」
「……本当にバカだな」
俊太は呆れ交じりの微笑みを浮かべる。
そして4度目の拳骨が落ちた。
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