30.非常階段

その日も矢谷 光輝(やたに こうき)は仕事をサボって非常階段でゲームをしていた。何故この場所なのか? 22階の非常階段、ここには誰もこないからだ。

光輝は仕事の席から長時間消えても、特に何も言われない。「またサボってるんだな」と流されるだけだ。周囲が彼に求めるのは、人目につかないところで1人、ひっそりとサボること。若手の社員や派遣の人たちに悪影響を与える怠惰な正社員の姿を見せないことだ。

新卒で一部上場の大企業に正社員として入れた。当時、光輝は自分が素晴らしいことをやってのけたと思ったし、理想と野心もあった。しかし程なくして彼は失望し、下手を打つ。彼は目の前の仕事を頑張ってこなせば、それで報われると思っていたが、それは大きな間違いだった。

万単位の社員を抱える企業において、出世に必要なのは社内政治だ。プログラマーとして入社した光輝は努力し、注目を集めた。ある上司に声をかけられ、大規模なプロジェクトのリード・プログラマーに就いたのだが、彼がアサインされたとき、既に物理的に不可能なスケジュールが組まれていた。次々と倒れ、会社を去っていく部下たち。上司からの叱責。そんな日々を耐えて、何とか仕事を完遂させたが、成果物の評価は散々だった。

そして守ってくれるはずの上司は、全ての責任を現場を仕切っていた人間、つまり光輝に押し付けた。周りに味方は誰もいなかった。根回しが足りない、こういう時の為に社内で仲間を作っておかないと、そんなふうに嘲笑う者はいたが。

以後、光輝に仕事は回ってこないようになった。出世の道は閉ざされ、小さな案件で、やってもやらなくてもいいような仕事をこなす。いわゆる社内ニート。転職も考えたが、冒険をするには遅すぎる。

『ボクの力、思い知った?』

スマホの中で、自パーティの少年キャラが勝利の声をあげた。

光輝は少し肉が付き始めた腹と、無精ひげを撫でる。42歳、人生をやり直すには歳を取り過ぎた。それに今の条件だって悪くない。今の世の中で上場企業の正社員を投げ出すなんて、さすがに勿体なさすぎる。とは言え仕事は、午前中に全て片付いてしまっている。何もやることがない。だから光輝は人目が無い非常階段で、仕事をサボってゲームをやる。

この日もそうだった。もう2~3周イベント・マップを回ったら、席に戻って手遊びでもして過ごそうか。

「暇なんですか?」

声がした。

「あ?」

顔を上げると、

カツンカツン。

軽快なステップで一人の男が降りてきた。

若い、20半ばくらいか。見ない顔だが、いいものを使っている。Yシャツにネクタイ、ズボンに革靴。そして時計。全て値が張るものだ。ついでに言うと顔もいいが……幼い。童顔ではないが、ボンヤリとした表情をしている。服の隙の無さが、隙だらけの顔を強調しているようだ。

「暇なんですか、って聞いたんです」

男は言った。

誰だか知らないが、面倒なことを聞く。さっさと会話を打ち切りたいから、少し乱暴に聞こえるよう意識して答えた。

「休憩だよ。フツーに」

しかし、男は更に食い下がる

「だったら、ちゃんとレストルームがあるでしょう。何でわざわざ外の、この非常階段にいるんです?」

男は辺りを「どうぞごらんください」、そう言わんばかりに見渡した。高層ビルが連なる一帯。非常階段はその隙間にある。22階だが景観はゼロ。日当たりも悪く、何なら少しコケまで生えている。お世辞にも過ごしやすいとは言えない場所だが、

「こっちの方が好きなんだよ。快適だから」

嫌味っぽく言った。これで話は終わりだ。これでこっちの気持ちを、お前をウザがっていると察しろ、そう思いながら。

「オレもここで休憩していいですか?」

「はぁ?」

「オレもここで休憩していいですか、って聞いたんです」

「何でよ?」

「あなたが言う通り、快適だからですよ」

「どこが?」

さっそく矛盾した発言だが、男は気せず話を進める。

「あなたと同じ理由ですよ」

……めんどくせぇ。何だコイツ。

「そんなの勝手にしろよ。ここ、オレの場所じゃないしな」

「ありがとうございます――あっ、そうそう。自己紹介、まだでしたね」

「いらねーよ。しなくていい」

「たぶん、ここでよく会うことになりそうですから」

「はぁ?」

「多井中 裕生(たいなか ゆうしょう)です。よろしく」



こうして光輝と裕生と出会って、1カ月が経った。



『ボクの力、思い知った?』

裕生のスマホから、勝利の声が響く。

「あなたの言う通り、このキャラは使えますね。バランスがおかしいくらい強い。こいつ1人で何とかなっちゃう」

「だろ? いつか修正が入るんじゃないかってくらい使える」

光輝にとって、この一カ月は時空が捻じれたようにしか思えなかった。長いはずが、あっという間だった。その「あっという間」の間に、自分を取り巻く状況が一変した。

相変わらず光輝は非常階段でサボっているが、何でこんなふうに過ごしているのか? 何で裕生と一緒にサボっていて、何でこんなに楽しいと思うようになったのか? 時間がすっ飛んだようにも思えた。何となく仲良くなったとしか言いようがない。強いて言うなら、このゲームのせいだろうか。

「しかし、このゲーム面白いっすね。教えてもらって良かったですよ。毎晩ずっとやってますもん」

やはりだ。一カ月前、出会ったとき、

「何やってるんですか?」

「ゲーム」

「何ていうやつです?」

あのとき「教えねぇよ」と言えば違ったのだろう。タイトルを教えると、裕生はその場でゲームをインストールして遊び始めた。それから毎日、光輝が非常階段に来ると裕生が先にいて、ゲームを遊んでいた。

こいつ、オレよりサボってるな。

そう思ったが、既に光輝の愛社精神や労働意欲はゼロだったし、何より自分もサボっているので、叱る気にはならなかった。何となくゲームで遊んでいる内に仲良くなり、「部署は?」「どういう役職?」と言った当然の質問もしないまま、一カ月が経ってしまった。

「あ~、そうそう、光輝さん。ちょっといいですか?」

苦笑いが出る。仕事をサボってゲームしているのに、ちょっといいも何もないだろう。

「今夜、ご飯でも行きませんか?」

「いいよ」

こうして2人は、初めて非常階段以外の場所で会う約束を結んだ。



光輝が裕生と最後にセックスをしてから、3カ月が経った。



光輝は一人、非常階段でゲームをやっている。やはりここは1人の方が似合う。あいつには似合わないし、あいつとオレの2人でいるのはもっと似合わない。そう思いながら。

初めての一緒にご飯を食べに行った日、2人は大いに盛り上がり、泥酔し、ヤッてしまった。翌朝、ベッドの中で裕生がゲイであることを知らされ、勢いでヤッてしまって申し訳ないと謝られた。光輝は記憶を飛ばしていたので、何とも返しようがなかったが、ヤッてしまったものは仕方ないと思った。

その日から、2人の肉体関係が始まった。

光輝は自分がゲイだとは思っていなかったし、今でもそうは思っていない。男性向けのポルノで自慰もする。しかし、裕生に自分の体を他人に求められる快感には夢中になった。生まれて初めての感覚に流されるまま、溺れた。女性経験はあったが、それとは全く異なる快楽だった。

「あなたと出会えて、本当に良かった。やっと自分に正直になれた気がします」

乱れるだけ乱れたあと、そう言って髪を撫でられる時間は驚くほど心地よかった。

「こちらこそ」

そう返して抱き合ったとき、心が通じ合っているとも錯覚した。


『ボクの力、思い知った?』

スマホから自キャラの勝利の声がした。非常階段は静かだ。会社の大騒ぎが嘘のように。社長の愛人の息子で、課長代理だった社員が辞めたのだ。そいつは多井中 裕生だった。


「光輝さん。オレ、実は海外に行きたいんです。アメリカで自分の会社を起こします」

ベッドの中で裕生に言われたとき、頭が真っ白になった。10秒ほど絶句し、ようやく、

「何言ってんだ、お前」

疑問を口にすることができた。

「子どもの頃からの夢でした。向こうにいる友人とも、かなり細かい部分まで話を詰めています」

何言ってんだ。アメリカ? 起業? 無理に決まってるだろ。

「だから、一緒に来てくれませんか? お願いします」

「ちょっと待て。無理だ」

「お金は稼ぎます。苦労はするでしょうけど、僕はそれでもやってみたいんです。それに向こうから結婚もできる」

「無理だって。お前はいいだろうけど、俺はこの年齢だ。向こうに行ってもやりたいことなんてない。俺は日本にいたい」

「いてどうなるんです? 一緒に行って、何かしましょうよ」

「何かって、何だよ?」

裕生の手をはねのけた。

「それは分かりませんけど……ずっとあのまま非常階段でサボってるつもりですか? ねぇ、光輝さん、オレ――」

裕生が唾を飲み込んだ。

「あなたと会って、やっと自分に正直になれた。それで、気がついたんです。親父に言われるまま今の会社で働くの、もう嫌なんです。苦労してでも、自分のやりたいことやりたいって。だから、ねぇ、一緒に来てください。何より一緒にいて欲しいんですよ。」

「……ごめん、無理だよ。ついていけない」


光輝は今日も一人で仕事をサボる。会社は大騒ぎだが、気にはならない。元々閑職だ。社長の息子が家出しようが影響もない。

ただ、昔の感覚を取り戻すのには時間がかかりそうだ。あいつと2人で過ごしすぎた。あの感覚を忘れるのには、それなりにかかるだろう。この非常階段でサボるのは、オレ1人が普通なんだ。この一時期が特別なんだ。

『ボクの力、思い知った?』

非常階段に勝利の声が響く。もう2~3周、イベントマップを回ったらデスクに戻ろう。それがオレの在り方なのだから。

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