26.金曜の朝、旅に出て

「課長、見てください。海っスよ、海。砂浜もあるし、海の家もある。海水浴場だったんですね」

木田 健介(きだ けんすけ)が指さす方には、たしかに海があった。6月、梅雨の時期だが空はピーカン。太陽は高い。薄い青の空と、濃い青の海。水平線を境に、2つの青が目の前にいっぱいに広がっていた。すると――海は広いな大きいな。そんな童謡の歌詞が何十年ぶりに山本 和利(やまもと かずとし)の脳裏に浮かんだ。

「ほら、行ってみましょう」

そう言って健介は和利の手を引き、ローカル線の改札を抜けて、砂浜へ。健介はビジネスバッグを放り、革靴と靴下を脱ぎ捨てた。そしてズボンの襟を折ると、波打ち際に走って行った。

「おおっ、ちょっとまだ冷たい」

足を波に着けると、健介は笑い声をあげた。「課長もどうっすか? イイ感じに冷たくて、気持ちいいっスよ~」

どうしたものかな、と思った。そもそも海水浴場に来るなんて何年ぶり――。

いや、会社をサボることも、勤続15年で初めてのことだ。休みをとったこともあるが、体調を崩しても、祝い事や身内の不幸でも出来る限り休むことはしなかった。思えば物心ついた頃から、たぶん小学生の頃から何かをサボったことはない。出来ることは出来る限りやって40歳まで生きてきた。まさかこんな形で人生初サボりとは。


半年前の入社式の日。和利が健介に抱いた第一印象は「地味」「不器用そう」だった。メガネをかけて、伸ばしっぱなしの黒髪で、童顔と細い体格のせいでスーツに着られてた。その見立ては当たっていて、入社から数日経っても、彼は周りと打ち解けられず、昼休みには一人でコンビニ弁当を食べていた。和利と同じように。

似た者同士、仲良くなるのに時間はかからなかった。最初はコンビニでいつも会い、何の偶然か、通勤電車でもよく会った。程なくしてご近所さんであることも分かった。互いに独身で、考え方や趣味も合った。海外ドラマや映画の好みもあったし、何故だか酒の好みまで合った。

和利は生まれて初めて他人の家で酒を飲み、『大乱闘ス◯ッシュブラザーズ』の最新作を徹夜で遊び、深夜に大声を出してしまって揃って頭を下げた。大人げない、けれど楽しくて仕方がなかった。和利は40歳だったが、健介と一緒にいると15歳に戻ったような気がした。そのことを健介に伝えると

「オレもっス。こんなに人と仲良くなったの、生まれて初めてかもしれないっスね」

そう言って笑ってくれた。あの笑顔が決め手だったのかもしれない。

和利は健介の家に、健介も和利の家に、それぞれ入り浸るようになった。具材を買って帰って、平日の夜も2人で夜更かしをした。ゲームで遊んで、映画を見て、ピザを食べた。しばらくすると、2人揃って通勤時の電車の時間を2本ズラした。それでも定時の30分前だったが。

やがて、その夜は訪れた。和利の家で遊び疲れて電気を消したあとだった。

ワンルームの床に敷いた、二枚のせんべえ布団。2人は並んで寝ていたのだが、気がつくと和利の布団の中に健介がいた。

「……せめて何か言ってくれ」

和利がそう言っても、健介は応えなかった。ただ、彼の背中に顔を埋め、すすり泣き続けていた。

「いい、大丈夫だ」

和利は振り返って、全てを受け入れることにした。実際のところ、彼も近いうちにこうなると思っていた。40の男のくせに。そう嘲笑う自分を振り切って答えた。

「オレでよかったら、喜んで」

すると健介は言った。

「よろしくお願いします」

やり方なんて分からなかった。ただ求めるままに抱いて、口づけをかわして、脱がして、また抱いて、色々な方法で何度も果てた。翌日は幸運にも日曜日で、2人が目を覚ましたのは空が赤く染まる頃だった。

2人の娯楽に、新しい項目が加わった。

それは勉強とゲームの間のようなもので、2人の性に合った。資料で予習をして、実践して、復習する。どちらも色恋沙汰に無縁だったせいで、何をするにしても苦労した。2人で資料を見ている時には、「何、真剣な顔して見ているんだろう?」と吹き出してしまうこともあった。楽しくて、楽しくて、仕方がなかった。なのに――。

全てが一変したのは、ある木曜日の夜のことだった。

和利はそれを伝えたくなかった。だけど伝えなければならなかった。呼び出された会議室から、健介が待つファミレスまで、出来ることなら延々に歩いていたかった。窓沿いに座ってソシャゲをやっている彼を見たとき、彼が笑いかけたとき、その場から走って逃げようかとも思った。

しかし、和利は健介に伝えた。

「オレとお前のこと、バレたみたいだ」

沈黙、その重さに目眩がして、ほんの少し前に浴びた言葉が蘇る。部長に呼び出されて、問いただされた。「社員の中で見たものがいる、本当か?」「取引先は把握しているのか?」「これからどうする気だ?」「社内の連携に乱れ出るかもしれない」「こんなことは言いたくないが、まだ今の社会は――

だったら言うなよ。言いたくないなら、口に出すなよ。その言葉を飲み込んで、頷き続けた。

その夜、2人は別々に帰った。


翌朝、金曜日。

和利はいつも通り、通勤電車を待っていた。サボろうか、2度とあんな会社行かないでおこうか、散々考えたが、しかし彼はいつもの場所に立っていた。

そのとき、背中に重みを感じた。誰かが倒れこんできたような、すがって、ひきとめるような。

振り返ると、健介だった。

「課長、オレら」

「どうした?」

「オレら、いつもこっちの電車に乗るじゃないっスか」

「どうしたんだ、何の話だ」

「もし逆に乗ったら、どこに着くんだろって」

反対方向の電車が近づいてくる音がした。

しかし目の前には、いつもの通勤電車がある。扉が開き、人の波が一気に吸い込まれていく。発車を知らせるアナウンス、押し込まれた人の舌打ち、バッグやスーツがぶつかり合い、けたたましい大波が過ぎ去ってゆく。

そして訪れた束の間の凪の時間。2人の男が向き合っていた。

「オレも、付き合うわ」

健介と和利は、反対方向の電車に飛び乗った。Suicaのチャージ分がなくなるまで、乗り換えに乗り換えを重ねて、とにかく真っ直ぐに。そうして1日がかりで辿り着いた先は、海だった。


「オレ、こーいうの始めてっスよ。学校も、大学だってサボったことないんっスよ」

足で波を蹴り返しながら、健介が笑った。

「オレも。1限だろうとサボったことはなかった。よくノートを人に貸してたよ」

どこまでも似た者同士らしい。和利は笑い返すと、辺りを見渡す。

「あっちの看板を見ろ。『民宿』に『刺身』、『この先3キロ』とある。予約なしだがシーズンオフだ。たぶん大丈夫だろう」

「『刺身』、いいっスね~♪ 課長は金、いくら持ってます? オレ、とりあえず10万引き落としてきました。駅前のコンビニで」

「現金はないな。オレも下ろす。郵便局を探そうか」

そのとき、一つ引っかかった。

「そうだ。課長って呼ぶの、もうやめてもらえるか? オレ、会社辞めるからさ」

「あ~。やっぱ似た者同士っスね、オレら。ちょうどオレも辞める気でした」

2人はまた笑い合った。

そして和利は考える。

もう戻るつもりはない。40はネックだが、ま、何とかなるさ。コツコツ就活すれば、とりあえず何かの職は見つかるだろう。苦労はするだろうけど。

だが、この金・土・日の3日は休む。この場所で、こいつと楽しく過ごす。それだけは絶対に譲れない。美味いものを食べて、適当に観光して、出来る限りセックスして。ちょうど鞄には買ったばかりの文庫本もある。旅らしいじゃないか。

そうと決まれば話は早い。

「その前に、オレも海に入っとくわ」

靴を脱ぎ捨て、ズボンをたくし上げる。海に入ると――冷たい。だが気持ちがいい。ひんやりとした海水、穏やかに押し寄せる波で、体がふらつく感覚、足裏に感じる細やかな砂粒、全てが新鮮……いいや、新鮮なんじゃない。単にずっと忘れていただけだ。それに、他にもたくさんのことを忘れているような気がする。きっと思い出すだろうな。この旅で、こういうのを。

少し大きな波が来た。

2人は足を取られ、慌てて互いを支え合う。たったそれだけのことなのに、2人はまた吹き出した。夏を静かに待つ海水浴場に笑い声が響き渡る。ただひたすらに、笑えて笑えて仕方がなかった。

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