22.先生と先生

また面倒なヤツが来た。

矢吹 真輔(やぶき しんすけ)は思わず煙草の灰をこぼした。ジャージの上を火花が走る。そして無精ヒゲの残る顎を掻きながら、教頭でも連れてくるべきだったと後悔した。

喫煙所でコイツと2人きりになるのは非常に気まずい。だからって無視するのも大人げない。もうオレは35なんだから。

そう思って真輔は、屋外喫煙所にやってきた男に頭を下げた。

「お疲れ様さん、吉井先生」

「話しかけんなよ」

男の反応は冷たい。

吉井 遼太郎(よしい りょうたろう)はポケットから煙草を出すと、火を点け、勢いよく吸い込んだ。

味わうって感じじゃない。さっさとニコチンを補給する為だけの吸い方だ。

「仕事に支障は出さねぇけど、2人きりなら別だ。てめーとは話したくもねぇ」

「おいおい。同僚だし、同じ喫煙者だし、同じゲイだろ? そんな言い方すんなよ」

「生徒に手を出すようなヤローと一緒にすんな」

空が晴れている。5月、雲が一つもない。文字通りの五月晴れだ。遼太郎の真っ白なYシャツが良く映える。彼は教師になって2年目。今年の春から真輔と同じ高校で、同じ数学を担当している。しかし、2人が最初に出会ったのは学校ではなかった。

ある夜、ある場所で、真輔は彼氏とイチャついていて、遼太郎は相手を探していた。そのときは互いに気にも留めなかったが、数か月後、2人は高校で同僚として再会することになる。そして真輔は知られてしまった。そのとき連れていた彼氏が、その学校を卒業した生徒だったこと。その彼氏が高校2年生の頃から、真輔と関係を持っていたことを。

「生徒に手を出すクズには、そもそも偉そうに先生を名乗ってほしくねーな」

遼太郎は煙草を何度も吸う。さっさとこの場を出ていきたい、そんなふうに。

真輔はゆっくりと煙を吐いて、頭を下げた。

「へいへい、すみませんでした。でも、誰も不幸にはなってねーんだけどな」

「誰が不幸になったとか、そういう問題じゃねーんだよ」

吉井はもう一度煙草を深く吸うと、吸いがら入れに押し付ける。

まだ火のついたそれは、赤い飛沫を散らしながら、水へと落ちていった。

「そういう問題じゃねー。人としての最低限の常識だろ」

「逆に聞くけど、17歳、18歳、19歳に、そんな違いがあるの?」

「屁理屈言うな。お前がやったのは淫行だろ。犯罪だ」

「でも、オレは捕まってないぞ。合意もあったし」

遼太郎が吸いがら入れを蹴った。

「黙れよ、言い訳すんな」

金属音の残響の中、遼太郎は真輔を睨みつけた。

「オレの生徒に手を出してみろ。ブッ殺すからな」

真輔は残りわずかとなった煙草を、まだ震えている吸いがら入れに投げ込んだ。そして、「オレはもうしばらくここにいるから、先にここから出ていってくれ」と伝えるために、もう2本目の煙草を取り出した。

「そういう単純な問題じゃねぇぞ」

「言っただろ。言い訳すんな」

「お前、泣きながら告白されたことあるか?」

真輔がそう言うと、遼太郎の表情が一瞬、わずかに曇った。

「やっぱないか。じゃないと分かんねぇよ」

真輔が2本目に火を点けると、遼太郎は喫煙所に背を向けた。歩き始めたその背中に、真輔は言葉を投げる。

「なぁ、人生って何がどうなるか分からんぞ。オレはお前を軽蔑してるだろうけど、お前だってオレみたいになるかもしれん。たとえば――」

真輔が言葉を止めると、遼太郎の足も止まった。

「お前がオレをブッ殺してでも守るって言ったヤツから、『あなたと付き合えないなら死ぬ』って言われたらどうする?」

遼太郎は動かない。

「これ、マジで忠告しとくわ。オレら教師は何百、何千って生徒と出会う。先生ってそういう仕事やからな。そういうことだってフツーに起きるぞ。よく考えとけよ」

真輔の2本目は、半分まで来た。

「で、オレは突っぱねるだけが正解とは思ってねー。オレは生徒が泣くのを見るのが嫌いだ。でもよ――」

一歩も動かない遼太郎に、真輔は言った。

「これ、話すの初めてだよな? 一番笑えるのは、オレ、この間アイツにフラれたんだぜ。アイツ、大学に入った途端に別の男を見つけてさ。まぁ、アイツはきちんと別れ話をしてくれたから、まだマシだったけど」

遼太郎は俯いた。

「ははは。まったくよ~。泣いて告白してきたくせに、勝手なもんなんだよなぁ。こっちは人生狂う覚悟で付き合ったのによ」

何処からか、空に雲が流れてきた。

遼太郎は姿勢を正す。そして背を向けたまま言った。

「それでも、オレは間違ってると思う」

遼太郎は消え、喫煙所は真輔1人になった。

「正解も間違いもねーんだよなぁ」

呟き、3本目を取り出して口をつける。噛み、ライターを点け、息を吸う。しかし、煙が口に届く寸前に、何となく思った。

「やっぱ、もういいや」

そう呟いて、3本目の煙草を吸いがら入れに放り込んだ。少しだけ勿体ない気もしたが、口をつけたし、何よりもう捨ててしまっている。

真輔は何もすることがなく、空を眺め、息をして、伸びをする。気がつけば、あと10分ほどで昼休みが終わる時間になった。また生徒たちの相手をしないといけない。ここからは「先生」をやるために頭を切り替えなければ。

そんなことを思いながら、ふと吸いがら入れの中を覗いた。先ほどまで真輔と遼太郎が吸っていた煙草は、幾つかの吸いがらの中に溶け込んでしまっている。しかし、ただ1本だけ、あの3本目の煙草は、噛み痕だけ残し、黒い水の上をユラユラと漂っていた。

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