20.ベッド・イン/見えざる戦い

やっとこの日が来たか。

光也 正樹(みつや まさき)、31歳。身長178センチ、体重75キロ。サラリーマン生活5年目。彼は今日を待っていた。就職したその日から期待していた1日だ。仕事でミスをして、親会社の役員に呼び出されたのである。

もちろん、これだけなら正樹も歓迎しない。むしろ怒られるのは嫌いなので、相当に足取りが重かっただろう。問題は呼び出された環境だ。ビジネスホテルの一室に、彼のミスをチャラにしてくれた役員の男と2人きりで会うことになったのである。

仕事上がりの午後20時。出張に来たであろうサラリーマンたちがフロントに吸い込まれていく。

この場所と時間帯を相手方から電話で指定されたとき、彼は「来た!」と思った。


来た! これはアレだ! 『仕事のミスをチャラにしたお礼に、そういうことをしろと脅されるヤツ!』 オレが大好きなシチュエーションだ! 一度体験したかったやつだ!


正樹はエロ漫画の読み過ぎであった。


指定された部屋へ向かう。胸が高鳴る。この先に待っているのだ。あの男が。

月形 光多(つきがた こうた)。30歳。身長182センチ、体重76キロ。慇懃無礼なメガネ野郎だが、弱冠30で正樹が勤める会社の親本社で、役員としてのポジションを得ている。彼が成し遂げてきた仕事を並べるなら、テキスト形式よりエクセル管理した方が早いほど、数え切れない成果を出してきた。子会社で平社員をやっている正樹とは、天と地ほどの差がある。

そんな人間だ。普通ならキャリアに傷がつくような真似、すなわち人の弱みに付け込んでセックスに持ち込むような犯罪的な行為をするはずがない。しかし、正樹は確信を持っていた。

このシチュエーションは間違いなくそういうことだ……たぶん!


指定された部屋のドアを開ける。

禁煙室らしく、まず芳香剤の香りがする。次にビジネスホテル名物、アメニティ類、つまり髭剃り・洗顔剤・タオルが扉付近の棚の上にきっちりと並んでいた

そして男が、光多がいた。

「時間から3分遅れています。こういったルーズな所が、今回の件の原因でしょうね」

そう言って光多は、特に乱れてもいないメガネの位置を微調整する。

「すみません。でも3分くらい……」

「3分も、です。3分あればメールを一つ出したり、昼食を取ることだって出来る」

少しムッとした正樹は、皮肉っぽく返した。

「それじゃ、その貴重な時間を使って、今日はいったい何の用事なんですか?」

ストレートに質問を投げる。

さぁ、どう返してくる? いきなり命令してくるか? それとも嬲るように来るか? 個人的には後者の方が好みだが……。

「その前に言うことがあるでしょう」

――後者、いいぞ。いい展開だ。ここでオレに借りがあることを再確認させて、精神的に優位に立つ気だな。教科書通りの良い手だ。 正樹は心の中でうんうんと頷く。なお、彼には反省と言う概念がなく、社会人としてはダメな方に属している。

「オレがやった発注ミスですね。あのミスをなかったことにしてくれたこと、本当に感謝します。おかげでクビにならずに――」

ここで正樹は思考する。恐らくだが、光多はこういうことをするのは初めてだろう。彼は自己中心的だが、他人を自ら傷つけるようなことは嫌う。そういう展開に持ち込むなら、言葉を選んであげるべきだ。

「本当に感謝しています。あなたには、どんなお礼をしても仕切れない」

したたかに正樹は言葉を選んだ。こちらが『恩』を自覚していること。その見返りを払う『覚悟』があること。この2点を示したのだ。事をスムーズにセックスへ繋げるため、彼の中にあるであろう「脅迫して肉体関係を築くなんて、良くないんじゃないか?」という良心の呵責を軽くしてやったのだ。

正樹は心の中でほくそ笑む。仕事で脳を使う気はサラサラないが、こういうエロいことなら別だ。なお、本筋とは関係ないが、彼は今日も寝坊で会社を遅刻している。

「違うでしょう」

……なにっ。

返って来たのは予想外の答え。こちらに謝罪を求めるのではないのか?

光多は胸ポケットからミントを取り出して、1粒を口に放り込んだ。そして不機嫌そうに、バリバリと噛み砕く。

「ふぅ……。謝罪なんて誰でも出来ます。僕が聞いておきたかったのは、あなたがどういう再発防止策を考えているかです。しかし、見たところ考えていないようだ」

真面目かよ……! 

しかし、光多の言った通りだった。再発防止策なんて考えもしなかった。むしろ、そんな文字列は見たことすらない。正樹はセックスのことしか考えていなかった――とは口に出せないので、ひとまず頭を下げる。

「すみません。オレ、そこまで考えてませんでした」

「まったく。あなたという人間には呆れるばかりです。反省しなさい」

「はい」

「よろしい。それでは……分かったら、再発防止策を練って、今後は気をつけてくださいね」

「はい」

「では、失礼します」

「はい。では――」

えっ? ちょっと待てくれ、解散するのか? このまま、何もせずに?

「えっ、もう終わりですか?」

「どういう意味です?」

「だって、今の会話をするためだけに、わざわざホテルで部屋取ったんですか?」

そんなわけがない。確かに光多は高給取りで、こんなビジネスホテルを借りるくらい何てことないだろう。しかし、たったこれだけの会話の為にホテルを取って、そこに人を呼び出すだろうか? さすがに不自然だ。不純な動機があるとしか思えない。

「悪いですか? もし僕があなたのミスを意図して見逃したなんて誰かの耳に入ったら、あなたのクビに関わる。気を使ってあげただけです」

「だったら喫茶店とかレストランでもいいじゃないですか」

「だから……そこに万が一知人がいたら大変でしょう。ホテルの部屋なら問題ない」

まさか……本当にそうなのか? てっきりそういうことだと思ったが、こいつはオレの見立てより遥かに真面目な人間で……いや、信じられない。

「本当に?」

「本当ですって。むしろ本当じゃなかったら何なのですか」

……むぅ、本当に誠実な男なのか? やはり納得できない。客観的にも主観的にも。ここは……あえて攻める。硬く黒い土を掘らねば、金脈には辿り着けない。攻めろ、攻めるんだ。ここから理想のセックスへ持っていくために……!

「じゃあ、このまま泊まるんですか。このホテルに」

「いいえ、君が出て行ったら、すぐに私も出ます」

光多の表情に変化は見えない。当てが外れたか? ピンク一色の脳ミソをフル回転させ、正樹は考える。

何でもいい、何かないか? ことの真贋を見極める何かが。

光多を見て、部屋を見渡し、そして――。

否、違う! こいつは嘘をついている!

最初から不自然なポイントがあったのだ。そこに気がついた途端、正樹の頭の中に勝算が弾き出される。

「でも、月形さんって随分と綺麗好きなんですね」

「何の話です?」

活路はある。起死回生の一手、最後の切り札に繋げる為の入り口。それはーー。

「オレと会う前に、歯を磨いたでしょう。アメニティの中で、歯ブラシだけ無かったですもん」

「えっ……」

光多の表情が乱れた。

やはりか。

暗闇に一筋の光が刺す。

見えたぜ。この先を掘り進めれば何かに当たる。光輝く金脈か、あるいはオレを飲み込む地崩れるか。いずれにせよ――ここからが本当の勝負だ。賭けるしかない。一歩踏み出さなければ、勝つことも負けることもできない。

「口臭とか、そういうの気にするんですね。ここは禁煙室だし、月形さんはタバコを吸わない。おまけにミントを携帯しているのに、さらに歯を磨くなんて、よっぽど気をつけているんですね。オレだったら――」

突破口……! 限りなく確信に近い言葉のツルハシを、わずかな光明に振り下ろす。

貫け、ヤツの心の壁を……!

「オレだったら、誰かとキスする時くらいですよ。こんなに気を遣うの」

――言った。反応は、どうだ?

「キ……キスなんて、そんな……」

光多の頬が染まっている。

開いた、突破口が……! ここを逃してはいけない!

正樹は即座に決断した。「今ここで切り札を使う!」それはツルハシではなく、岩盤をブチ抜くためのダイマナイト……!

「オレ、実は覚えているんです。月形さん、オレと同じ中学校にいませんでした?」

「えっ……」

光多が両手で口を押さえた。その顔は、もはや厳しいビジネスパーソンではなく、恋をする少年のそれだった。

思った通りだ! 正樹の中で煩悩がドンちゃん騒ぎを始める。そもそも彼が『これはこういうことだ』と思った原因はここにあった。「かつての同級生」という繋がり、それがあった上での呼び出しだったらこそ、『これはそういうことだ』と考えたのだ。

ガッツポーズをしたいところを、グッと堪え、顔を赤らめる光多の言葉を待った。やがて――。

「覚えていたんですか、僕のこと」

「忘れるわけないじゃないですか。あんたみたいな顔がいい人」

「……そういう言い方するの、やめてくれませんか?」

光多の注意の言葉。しかし先ほどまでの棘はない。

「でも、実際モテたでしょう。一個下ですけど、いつも女の子が周りにいたし。むしろオレのことを覚えてるのが不思議ですよ。オレなんて――」

「忘れるわけないじゃないですか」

その言葉に正樹は確信した。

岩盤はブチ抜けた。ゴールは目前。しかし、だからこそ慎重にならなければならない。仕上げの一言を忘れたら、全てが台無しになってしまう。最期はこちらが尋ね、向こうが答えないといけないのだ。当初の目標、すなわち『仕事のミスをチャラにしたお礼に、そういうことをしろと脅されるヤツ!』にならない。最後の言葉は、瞬時に固まった。

「こんな所にオレを呼び出すってことは、何かワケありなんでしょう。助けてもらったことは感謝してますし、相談事なら乗りますよ。何だって言ってください」

「それは――」

光多は言葉を切り、うつむいた。

しかし、すぐに顔を上げて、正樹の目を見て言った。

「僕は君のミスをモミ消した。その借りを返してもらおうと思います」

「はい」

「一つ、僕も告白しましょう。僕は中学生の頃から、君が好きでした。君を好き勝手にしたかった」

……来る、来る! 来るぞ!!

「何と言われても構わない。命令します、ベッドに寝てください」

正樹、勝利……!

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