19.蚊帳の内

先輩風を吹かせたかった。橋田 安志(はしだ やすし)の正直な気持ちである。何かしらの問題を抱えているであろう甥っ子に、いわゆる男気を見せて、人生の先輩風を吹かしてみたかったのだ。前々から一度は吹かしてみたかったし。

安志が暮らす村の夜は、山から吹く風のおかげで妙に涼しい。夏でもクーラーは要らない。窓を全開にしておけば、気持ちの良い夜風の通り道ができる。ただし、風に乗って蚊も入ってくる為、蚊帳は必ず使わなければならない。

その夜。東京で暮らす甥っ子が何の断りもなく福岡の安志の家にやってきた。安志の両親は「どしたとね。何でこげな急に」と戸惑ったが、安志は違った。甥っ子の、橋田 恭太(はしだきょうた)の疲れ切った表情、旅をするにはあまりに少ない荷物、何より夏休みでも何でもない日に高校2年生が学生服でやってきたこと。彼は恭太が家出をしてきて、しかもそれが突発的で衝動的なものだと理解した。だから戸惑う母と父を制止して、「よかよか。まずは風呂ば入って、ゆっくりし。東京から福岡やから、新幹線でも5時間くらいかかったやろけん、疲れたやろ」と言った。その時、彼は自分の背中でゴウゴウと先輩風が吹いているの感じた。「ただごとじゃなか。はよう恭太くんの親に電話せんと」そう言って焦る両親を「まぁまぁ、理由やら何やら俺から聞いてみるけん。何か事情がありそうやし、まず話ば聞いてみよう。連絡するのは、その後でもよかろうもん」と、これまた先輩風をゴウゴウ感じながら説得した。

安志の先輩風は恭太と蚊帳の中で並んで布団に入った後も吹き荒れた。さらに「安にい、急に来たのに、ごめん。よくしてくれてありがとう」そんなふうに恐縮する恭太の態度が、彼の先輩風を台風クラスに成長させた。だから彼は勢いづいて尋ねたのだ。「で、東京でどげんしたん?  お前みたいな真面目なんが家を出るなんて、よっぽど何かあったんやろ」しかし、恭太の答えが彼の先輩風を止めることになる。

「親に、ゲイだってバレた」

恭太の告白。そして夜の静かさが聞こえた。

「……え?」

安志は言葉を失った。もちろんゲイと呼ばれる人たちがいるのは知っていたが、身近に現れたのは初めてだったからだ。

「彼氏がいるのが親にバレて、それで……そんなふうに育てたつもりはない、彼氏とも別れろって言われてさ。キレて、殴っちゃったんだ。父さんを」

安志はまだ発するべき言葉を見つけられずにいた。彼はもっと軽い悩みを、せいぜい「親と大学に行くか行かないかでモメた」くらいの話を想像していたからだ。こんな一生に関わるレベルの悩みを抱えていたとは。発するべき言葉は分からない。考えもまとまらない。しかし、恭太は感情が堰を切ったのか、やや震えた声で続けた。

「彼氏がいるのかって聞かれて、いるって答えたら、父さんに気持ち悪いって言われたよ。母さんなんて、急に泣き出してさ。話をするどころじゃなかった。それで、親を悲しませる気か、そんなのさっさと治せって言われて、それで……治せってなんだよ、って思った。で、それくらいからかな? 俺、自分が何を言われてるかよく分かんなくなって。でも悔しくて、頭に来た。ちょっと泣いて、父さんが、とにかく相手と別れろって、そしたらオレ……」

恭太が鼻をすする音がした。そして「ごめん、ちょっと待って」そう言ったあと、再び夜の静寂が訪れた。まだ虫や蛙が鳴く季節ではない。

「なぁ、安にい。オレさ、親が言うこともまぁまぁ分かるんだよ。泣かれるのも嫌なんだよ。でも、治せって言われるとムカつくし、絶対に今の彼氏とも別れたくないんだよ。でもさ……」

絞りだすような声だった。

「やっぱ気持ち悪いかな。こういうの」

安志は、まだ返す言葉が分からない。初めてブツけられた感情だった。何より彼の心の中に芽生えていた感情に、戸惑っていた。

決して口に出さないが、漠然とした抵抗があった。何故そんなふうに思うのか、自分でも分からない。差別とか偏見とか、そういうのは大嫌いだった。子供の頃から一緒に遊んでいた甥っ子だ。毎年、夏と冬に会って、月一はスマホで取り留めのない会話をして、ゲラゲラ笑い合う仲だ。なのに、たったこの数分で、恭太を見る目が一変した。

答えが分からない。何て言えばいいのか。安志が一言も喋らないまま、時間だけが過ぎてゆく。やがて、恭太が言った。

「……だよね」

深い井戸の底から汲み上げたような言葉。太くて荒い、握るだけで手のひらに痛みが走るような縄に吊るされた桶。その桶に満たされた、重く冷たい水。恭太の一言には、そういう感じがあった。

もう手遅れだ。あまりにも沈黙が長すぎた。どんな言葉を言っても、嘘だってわかるだろう。「だよね」そのたった3文字を打ち消すことは出来ないだろう。

だが、言わねばならないと思った。嘘だと言われても、建前でも、手遅れでも、安志は言わなきゃいけないと思った。オレはそういう道に進みたいのだから。何か言わなければ、何もしなかったことになってしまう。

だから言った。

「そんなこと、ねぇよ」

自分でも分かった。何て軽い言葉だろう。きっとオレの中にある本音が透けてみえる。薄氷のような言葉だ。

それでも安志は思った。

今は紡がねばならない。それがどれだけ軽い言葉でも。これ以上、こいつが泣いているのを見ていられない。オレには理解できないけれど、放っておけるわけがない。

「えっと……とりあえず、だ」

思うがまま安志は言った。

「俺は、恭太は間違ってないと思う。怒って当然よ。オレは、その……ゲイやないけど、つまり好きな人と別れろって話やろ? そんなん頭に来て当然やん」

そうだ、そこだけは間違いない。ゲイだろうが何だろうが、せっかく出来た恋人と別れろなんて酷すぎる。もし自分が言われたら、きっと物凄く怒るだろう。オレ、彼女いたことないけど。あ、でも――。

「まぁ、殴るのは良くない、と思うけど」

怒るのはいいが、手を上げちゃダメだ。いや、これは余計か。余計なことを言ったか? でも、自分がそうなったら、どうなるか分からないけど。そう言えば、今までの人生でそこまで怒ったことがないな。いや、でも――。

「殴る気持ちは分かるよ。オレだって、もしも将来の夢をバカにされて、辞めろって言われたら、親でも殴るかもしれんけん」

「安にい、将来の夢とかあるの?」

安志は、ふと冷静になった。恭太の言い方が、そんな人だっけと言わんばかりだったからだ。

「そんな言い方せんでよかろうもん。俺だって今年で高3だ。将来くらい考えるぞ」

「何?」

恭太の問いに、安志は力強く答えた。

「東京に出てラッパーになる」

夜の沈黙が訪れた。

あれ? どうしたのだろう?

安志は恭太の方を見た。月明かりで、涙の痕がハッキリ見えた。しかし、それよりも呆然とした、驚きと呆れが混ざった顔に目が行った。

「安にい、それ本気で言ってんの?」

「え? マジだよ」

オレはそんなに変なことを言ったのか? いや、たしかにラッパーになるって言うのは、なかなか難しいことだ。一線級のラッパーだって「これで食えてるヤツ何人いる?」と言う業界だし。厳しいのは重々承知だが、それでもやりたいんだ。初めて夢中になれたことだから。高校3年間、必死でバイトして、引っ越し代も確保しているし。

「安にい。その話、親には?」

「話した。殴られたし、今もモメてる」

「えっと……安にい、それってつまり、アレ? フリースタイル・〇ンジョンとか、ああいう感じの人になるってこと?」

「いや、あんまフリースタイルには興味がない。バトルも悪くないけど、俺はどっちかと言うと音源を重視したラッパーが好きだし」

恭太もそうなのか。やはりラッパー=フリースタイル・バトルという風潮は根深いらしい。これは傑作映画『8mile』や某番組の功罪だろう。確かにバトルは見ていて楽しいし、盛り上がるが、ラッパーが作る曲も重視して欲しいとも思う。

「安にい、ごめん。オレ、初めてこの話を聞いたんだけど、ってことは……安にい、ラップできるの?」

また難しい質問が来たなと安志は思った。

オレはまだ全然スキルが足りない。そもそも客を前にパフォーマンスをしたことがない。毎日1人カラオケに行っては、他人の曲に自作の歌詞を乗せてラップしているだけだ。声も特徴的ではないし、自分だけのフロウも確立していない。ただしリリックだけはずっと書いている。中学生の頃から書き溜めたノートは、既に30冊を超えた。「ラップが出来るか?」これは微妙なところっだが……。

「できるちゃ、できるな」

「え、ちょっとやってみて」

おいおい、なんて無茶ブリだ。さっきフリースタイルは違うと言っただろうに。と言うか、ラッパー志望にいきなりラップしろって、イラストレイターに「ちょっとタダで絵を描いてよ」と言うようなもんだぞ。無茶を言うなよと思ったが……しかし、恭太のジッとこちらを見つめている。やらざるを得ない空気だし、上等だ。初めての客は甥っ子。これはこれで何かカッコいいような気もするし。

「よし、やってやるよ。ゴホン、ゴホン……あーあー、Ya、Ya、Yo」

完全なるアカペラ。頭の中でビートを流し、そしてブチかます。

「急な無茶ブリ/そんなん無理/なんて言わない/こいつは腕の見せ所/聞いてここで俺の心/根拠はねぇが自信があんだ/マイク一つで成り上がる/天高く一息で駆け上がる/笑いやがるヤツら逆に嘲笑う/俺は新たなマイクロフォン・マスター/こいつで世界を変えに来ました! Yeah!」

渾身のラップの後、何度目かの夜の静寂が訪れた。

手応えなし。でも大丈夫、分かってるんだ。まだまだ未熟だってこと。フロウは有名ラッパーの真似で、と言うか歌詞の一部がそのまんま誰かの盗用な気もする。韻もしっかり踏めていない。流行りのスタイルでもない。勢いで誤魔化している部分がたくさんある。口に出した自分が、誰よりも分かる。だから――。

「えっと……上手い、と思う。なれるんじゃないかな、ラッパー」

恭太の言葉は軽かった。建前で、嘘だとすぐに分かった。けれど、恭太はきっとこっちが本気なのは察してくれたのだろう。気休めの言葉でも、軽い言葉でも、そう言ってくれることが嬉しくて、端的に言うとテンションが上がった。

「なぁ、恭太。お前はまだ高校2年生やん。両親がおらんと、生活ができん。でも、だからって彼氏さんと別れんのはおかしい。俺は、何が出来るか分からんけど、出来る限りお前の味方するわ」

これも間違いない。本気の言葉だ。

「……ありがとう」

呟く恭太に、続けて言った。

「だから家に戻って、もう一回親と話せ。親父殴って家出したんやし、たぶん向こうもお前が本気やって思い知ったはずや。それで話して、それでも通じんかったら、そんとき話そう」

「話すって、何を?」

そのとき、先輩風が吹いた。生まれて初めてラップを披露した高揚感が、安志に再び風を吹かせたのだ。

「たとえば……彼氏さんと家を出るとか。で、オレの家に住む。ワンルームの狭い部屋やけど、まぁ3人なら何とかなるやろ」

「……いいの?」

「いいよ。で、オレん家を拠点にして、恭太と彼氏さんが2人で住める家を探してもらう。仕事も一緒に。これもありっちゃありやない?」

「そうだけど……さすがにそこまでされると、悪いよ。つーか家を出ても、追いかけてこられたら……」

「そん時はそん時よ。一番大事なんは、恭太と彼氏さんが一緒におることやろ?」

これも本気だった。男が男を好きになる感覚は分かないが、ともかく恋人を引き離すのはダメだろう。

「何なら、オレ、東京で就職して、働きながらラップする気やし。ラップで稼いだ金で、2人を養ってやるわ」

これも本気だった。むしろいずれはラッパーだけに絞るつもりだ。

「えっと……分かった。期待してる。きっと上手くいくと思う。ラップも」

恭太の言葉は軽かった。言葉の裏から、ラップは無いんじゃないかなって本音が透けて見えた。しかし、今は応援してくれいる、その建前を受け取ろう。

「ありがと。お前らも、きっと上手くいくよ」

こっちも少しだけ建前が入っている。恭太と彼氏さんの2人の未来には、様々な苦難が待っているはずだ。翌朝にも何かが立ち塞がるだろう。正直なことを言えば、100%「きっと上手くいくよ」とは思っていない。

でも、これは必要な嘘だ。明日を生き抜くために、絶対に必要な嘘なんだ。だって、さっき恭太が「なれるんじゃないかな、ラッパー」「きっと上手くいくと思う」と言ったとき、その言葉は何よりも優しく、力になったのだから。

だから、安志は願った。自分のついた嘘が、恭太がついた嘘のように、彼の力になるように。ほんの少しでいいから、人生の先輩らしくカッコつけられているようにと。

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