17.雑談、スケッチ

川上 陽太(かわかみ ようた)は自分は今日とんでもなく運がいいと思った。高校三年生の春。最後の最後で報われた。

「お~い、ボーっとすんな~。わりと疲れんだぞ、じっとしてるのって」

画用紙、その奥には椅子に腰掛ける同級生の石巻 健吾(いしまき けんご)。身長180、体重80キロ。がっしりとした体は野球部で現役だった頃と変わらない。ただ坊主頭は、数か月後に控えた大学生活のためか、長髪に変わっていたし、太かった眉も整えられていた。

「ああ、ごめん。ちょっとね」

陽太はそう言って再び画用紙に視線を戻す。すでに“あたり”はつけ終わっていた。頭の輪郭、目、口、鼻、耳、前髪の位置。

あとは書き込んで行くだけだ。きっと30分もあれば終わる。

今日は高校最後の美術の授業。課題は「同級生の顔を書いてみよう」。陽太は健吾とペアになり、ジャンケンに負けて描く側として彼と向かいあった。

それで、幸運だと思った。大好きな、だけれど殆ど話したことのない健吾と、高校の最後にこういう形で向かい合えたことが嬉しかった。

「すぐ描き終わるよ。すぐね」

陽太の細い腕が、健吾の顔を書き上げていく。さっきは30分と思ったが、もっと早く上がりそうだ。家で何度か描いたこともあるし、そのせいだろうか。

「お~、凄い。みるみる出来上がっていく。さすが美大に行くやつは違うな」

健吾が言った。

「え?」

その言葉に、陽太は筆を止めた。何故、僕なんかの進学先を知っているのだろう?

「なんで美大に行くって知ってるの?」

まさか僕に興味を持っていてくれいるのか? そんな淡い期待が頭をよぎるが

「聞いたからよ。誰から聞いたかは忘れたけど。お前、わざわざ美大に行くヤツなんて珍しいぞ」

健吾の言葉に、そっか、そうだよなと溜め息を漏らす。

その通りだ。美大に行くのは僕一人だし、目立って当然だ。彼が知っていても不思議ではない。

「お前さ、絵、好きなん?」

健吾が聞いた。

「うん。好きだよ」

「なんで好きなん?」

「何でって……」

理由なんて特になかった。物心ついた頃から絵を描いていたし、好きになるのは男ばかりだった。

陽太が答えに困っていると、健吾はさっさと会話を進めた。

「羨ましいよ。オレ、絵心ないから」

陽太は少しだけ胸が痛んだ。

そうだ、これは単なる雑談なんだ。彼からしたら、僕が絵を好きな理由なんて、そこまで突き詰めて考えるものじゃない。

「絵心なんて言うけど、そういうもじゃないよ。絵は練習すれば上手くなるもん。僕だって昔はヘタクソで、画塾に行ったりして何とかって感じだし」

「えっ、ガジュク? どういう字?」

健吾が身を乗り出す。陽太は、少しだけ嬉しかった。大好きな人との会話が今まさに弾んだから。

「画塾、『画』に『塾』だよ。そのままの意味で、絵を勉強するために行く学習塾って言うか、予備校みたいなもので」

「へー、そんなんあるんだ」

「街の方に小さいけど、一件だけね。高校一年生の頃から、放課後はそこで絵を描いてたんだ。石像とかで、何度も何度もデッサンの練習をしたよ。だから――」

陽太は8割くらい描き上がった絵を健吾に見せた。

「こういうの、けっこう慣れてるんだ」

健吾が驚きの声を上げる。

「うおっ、普通にスゲー!」

「ありがとう。あとは細かい調整だけだから、石巻君は普通に動いていいよ」

そう言うと健吾は立ち上がり、陽太の後ろに回った。そして彼の手元で、仕上げられていく自分自身の絵を改めて見つめる。

「スゲーな。オレには絶対描けないわ。お前さ、やっぱ将来は画家になるの?」

「できれば。絵に関わる仕事をしたいんだ」「お前、偉いなぁ。将来のことしっかり決めてるじゃん。オレの彼女みたい」

陽太の手が止まった。

「オレさ、彼女がいるんだ。他の学校だけど。その子も将来のこと、もう決めてるんだよ。で、資格の勉強とかしてて――」

彼の言葉が、耳に入ってこない。いや、聞きたくない。けれど、これは雑談だ。単なる雑談なんだ。

「そうなんだ、偉いね」

陽太はそう言うと、絵の方を見た。鉛筆を走らせ、一気に完成させる。自分に言い聞かせながら。

この3年間ずっとそうしてきたように、絵に集中するんだ。これからきっと何回も、こういうことを経験するんだろうから。

瞼を閉じては、先ほどまで見ていた健吾の姿を思い浮かべる。三年間、絵の勉強をし続けて身に着けた技術だ。陽太は一度見たものを細部まで正確に記憶できる。単なる雑談に興じる無邪気な笑顔も、興味を持って輝く瞳も、そして自分の中だけに抱いていた、三年間、彼を一目見てから抱き続けてきた想いも。

「終わったよ」

陽太は鉛筆を置き、呟いた。

「おお! すげー! これ、本当にそっくりやん! すげーよ! さすが美大生!」

称賛の言葉は遠くに聞こえた。胸がしめつけられ、涙が出そうだった。だけれど、そんなことをしたら――。

だから陽太は、クシャクシャの笑顔を作って言った。

「ありがとう。この絵、あげるよ」

「マジで? ありがと。大事にするわ」

嬉しい言葉だった。けれど陽太は、その言葉の軽さを悟った。だってこれは、初めて雑談をした相手に描いてもらった、30分もかからず描かれた絵なのだから。

けれど陽太は、健吾に言った。せめてこれだけは伝えておきたかったから。

「うん。僕も大事にするけん」

「僕もって?」

「いや、最後にこういう絵を描けて良かったなって。そういう思い出みたいなの」

「はははっ、美大生はやっぱ言うこともシャレてるなぁ。そうそう、思い出は大事にせんとな」

そのとき終業のベルが鳴った。次の時間は昼休み。生徒全員が購買へ走る時間帯だ。

「おっ、終わりやん。じゃあ、この絵、貰っていくね。ありがとなー」

健吾は絵を丸めて、他の同級生たちと共に美術室を出ていく。彼らは全員で購買に行くのだろう。

弁当派の同級生も立ち上がり、美術室から出ていく。陽太は机に座ったまま、それを見送る。

「ん? 川上くん、どうかしたか?」

心配そうに老齢の美術教師が聞いて来た。

「いいえ、何でもないです」

嘘をついた。

本当は何でもなくなんかない。最初の恋が終わりを告げたのだから。

「ただ……先生、すみません。もう少しだけ、ここにいていいですか?」

声が勝手に震える。胸の奥が痛くなる。自分は今どんな顔をしているのか、陽太自身にも分からなくなる。

「構わんよ。好きなだけいなさい」

そう言って美術教師は教室から出て行った。窓の外からは、生徒たちの陽気な声が聞こえてくる。ようやく学校に慣れてきた一年生。一番学校生活を楽しんでいる二年生。そして卒業を控えた三年生。各々が各々の春を楽しんでいる。

陽太は、先ほどまでの鉛筆を走らせていた感触を思い出す。軽快に、楽しく、流れるように走った、あの感触を。

気がつくと、一滴の水が学生ズボンに零れ落ちた。

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