14.老人と猫
「ニャン太郎、来い」
向井 幸男(むかい ゆきお)は庭にいる飼い猫の名前を呼んだ。不本意ながら。
ニャン太郎なんて、いつまで経っても慣れない。間抜けな響きだ。
幸男はそう思っていたが、名前を変えるわけにもいかない。アイツがたいそう気に入っていた名前だし、もう五年も飼っている。今さら改名しても仕方がない。それに、アイツにはこうも言われた。
「ニャン太郎を頼むわ。いい歳やから、優しくしてやってくれ」
確かにニャン太郎は老猫だ。庭に迷い込んできた時には、既に10歳くらいの大人だった。首輪をしていて、人に慣れていた。アイツと保護して、写真を取ってポスターを作り、飼い主を探した。しかし結局は見つからず、2人で引き取ることになったのだ。
そして5年が経った。明らかに動きは鈍くなったし、一日の大半を庭の日の当たる場所でじっとして過ごしている。動くのは餌の時間だけ。ゼリー状のキャットフードをお皿に持って、「ニャン太郎」と名前を呼んだ時だけだ。
この日もそうだ。幸男が餌の準備をして名前を呼ぶと、老猫はゆっくりと彼の方へと歩み寄り、「どっこいしょ」と言った感じで縁側に飛び乗った。そして皿の中の餌を食べ始める。通じるはずもないが、幸男は言った。
「……しばらくバタバタさせて、エサをやれん時があったなぁ。すまんかった」
ニャン太郎はゆっくりと餌を食べる。味わっているのではなく、そういうふうにしか食べられないのだろう。
少し前なら、もっと早く食べろと思っただろう。でも今はそんなふうには思えない。きっと時間があるからだろう。変わってしまったのだから。
幸男は部屋の方を見る。古い写真を飾った、真新しい仏壇。アイツと「新婚旅行」と称して出かけた時のものだ。最期の頃、アイツは言った。
「遺影なんて新規臭い。仏壇には、あの写真を飾ってくれんか」
20代の頃。2人で示し合わせて実家を飛び出して、金もなくて、何でもいいから稼ごうと必死になった。
30代の頃。やっと収入が安定して、旅行に出る余裕もできた。あの写真の頃だ。
40代の頃。この家を買った。職場に近く、交通の便は悪くない。2人で暮らすにはちょうどいい広さだった。
50代の頃。ニャン太郎が迷い込んできた。2人と1匹の生活が始まった。
そして60代の頃。1人と1匹の生活が始まった。
幸男はポケットから煙草を取り出し、ビニールを剥いだ。少しだけ震える手で一本を取り出し、火を点ける。
「煙草の匂いは苦手だ。煙草を吸っとるやつにはキスもできん」
アイツがそう言ったから、20代の頃に煙草をやめた。しかしずっと前から、アイツが逝ったらまた吸おうと思っていた。
仏壇のマッチを擦って、火をつける。深く吸う。チリチリと音がする。
数十年ぶりの一服は、数十年前と変わらず美味い。
しかし、次の瞬間に咳き込み、軽い眩暈を覚えた。
昔と同じ調子で吸ったのが良くなかったのか。煙草を吸うのには、こんなに体力がいるものだったか。
大きく深呼吸をする。そして――大丈夫、ボチボチ行こうと自分に言い聞かせた。
煙草を灰皿に置く。一気に吸い終える必要はない。火を消して、一休みするとしよう。どうせ時間は、まだあるはずなのだから。
すると、餌を食べ終えたニャン太郎が、膝の上に飛び乗ってくる。大きく欠伸をしたので、毛並みに沿って撫でてやる。
ふとアイツの髪の感触を思い出す。
最後は三カ月前か。病院で、真っ白の髪を撫でた。
「ありがとなぁ。撫でてもらうと、オレ、安心してなぁ」
そしてアイツは眠りにつき、目覚めることはなかった。
膝の上のニャン太郎は動かない。丸まって、穏やかな寝息を立て始める。灰皿から煙草を取り、二口目を吸う。軽めに、吹かす程度に。咳き込むことはなかった。
この調子だと、終わるにはまだしばらくかかりそうだ。
「なぁ、幸男さん。長生きしろよ」
入院してどれくらい経った頃だったか。アイツはそう言った。
ああ、分かってるよ。まだしばらくはいる。ニャン太郎もいるしな。
膝の上の老猫をそっと撫でる。すっかり眠ってしまっているが、その顔は微笑んでいるように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます