13.ベランダのヴァンパイア
その夜、信じられないくらいのイケメンがベランダに立っていた。本来なら叫び声をあげるなり、叱り飛ばすなりするべきなのだが、あまりのイケメンっぷりに、淀場 俊介(よどば しゅんすけ)は声すら上げることが出来なかった。
金髪、青い目、堀の深い顔。明らかに西洋、それもヨーロッパの方の人だ。身長は190はあるだろう。年齢は……20代くらいか。細いが、決して華奢ではない。身長165で、典型的な胴長短足の日本人体型の自分が恥ずかしくなるくらいだ。
だが、そのイケメンには1点だけ―正確には全部が不審なのだが、相対的な問題だ―どうにも気になる点があった。
服装が古いのである。それも10年前だとか、そういうレベルではない。数百年前、まるで18世紀の伯爵と言った絢爛豪華な格好だ。俊介に服のことは分からない。「ウール」だとか「コットン」だとか言われて分からないくらいだが、ベランダに立つ彼が身に着けているものは、とんでもなく高い服を着ているのは間違いないと確信できた。
だが、それだけに奇妙に思った。何故こんな西洋のイケメン伯爵みたいなのが、高田馬場のワンルーム・マンションのベランダに立っているのか? しかも大学生の男一人の家に。テレビのドッキリか? モリタリングか? NAOTOさんが見ているのか?
――などと考えていると、イケメンが言った。
「夜分に失礼する。私はエミール・スタンと言う」
流ちょうな日本語だ。やっぱりドッキリか。
「すまないが、中に入れてくれまいか」
そう言って頭を下げる。――と、俊介は気がついた。
あの歯は何だ? この男の前歯には、異様に発達した犬歯がある。いや、犬歯なんてレベルではない。ほとんど牙と言っていい。
「私の歯が気になるのか?」
エミールが言った。
どきりとする。こちらの視線に気がついたのか。
「いかにも、これは牙だ。肉を裂き、血を啜り、獲物に極上の快楽を与えるものだ」
肉を裂き、血を啜る? その言葉と、その服装。まさか――。
「え、もしかして……あなたって吸血鬼?」
「いかにも」
あっさりとエミールは認める。
「待て待て」
俊介は言葉を遮る。
吸血鬼が何で高田馬場の、しかもオレの家に来るんだ。と言うか吸血鬼て。ドッキリを仕掛けるにしても、もう少し捻ってほしい。見てますか、NAOTOさん?
そこで俊介は試すことにした。彼は高校生の頃、ラノベ作家で一発当てようとしていた頃があった。だから吸血鬼の特性も調べている。wikipediaで読んだ範囲ではあるが。
「本物なら証拠を見せろよ」
「ふむ、そう来るか」
ベランダのエミールが右腕を空に掲げる。
「例えば、こうか?」
青、緑、赤、様々な色の宝石が嵌った指輪。そして金と黒を基調とした袖。それらが暗闇に熔ける。――と、暗闇に数十の目が浮かんだ。
「ひっ」
悲鳴を上げて俊介が一歩下がる。
エミールの右腕が蠢きだす。そして数十匹の蝙蝠となって、空へと飛び立っていった。
右腕を夜の闇に溶かしたまま、エミールが言った。
「信じてもらえたかな?」
「はい」
素直にそう答えるしかなかった。これはドッキリじゃないようだ。ハリセンボンも見ていない。
「分かってもらえて嬉しい。では、入れてもらおうか」
エミールが言った。
「ダメですよ」
俊介が答えた。
「では入る……痛っ!」
窓を開けようとしたエミールが、まるで静電気が走ったかのように手をはねのけた。
俊介はwikipediaで知っていた。吸血鬼のルールである。
『吸血鬼は、許可をもらえないと人の家に入れない』
どうやらこのルールは正しかったようだ。
エミールは指先をフーフーを吹きながら、やや語気を強めて言った。
「イテテ、お前のせいで指を火傷したではないか。なぜ断る? 早く私を部屋に入れろ」
「イヤですよ。あなた吸血鬼でしょう。ってことは招き入れたら、オレが殺されちゃうじゃないですか」
「それは違うぞ、人間よ。確かに私は、お前の血を吸いに来たが……」
そしてエミールは一呼吸、間を開け――
「お前は童貞だろう」
シャーッっと、俊介はカーテンを閉めた。
「待て、無礼な」
カーテンの向こうから声がする。
「無礼はそっちだろ。童貞で何が悪い」
「逆だ。お前が童貞だから私は来たのだ」
「はぁ?」
「私は男を専門に食らってきた。いわゆる男色家だな」
なぜオレは吸血鬼のカミングアウトを聞いているのか? 俊介の疑問を無視して、エミールは続ける。
「特に童貞の血が堪らなく好きなのだが、なかなか理想の童貞と出会えたなかった。そして世界を旅すること数十年、ようやく見つけたのだ」
感極まっているのか、エミールの声は震えていた。
俊介はカーテンを開けてみる。
思った通り、エミールの目には光るものがあった。彼は俊介の目を見ながら、数十年の想いを告げた。
「それがお前だ。私の理想の童貞よ、お前を食らいたい」
「すんませんけど、帰ってくれます?」
俊介は再びカーテンに手をかける。するとエミールは窓に手をついた。その手が赤く染まってゆく。煙が上がり始める。禁忌を犯そうとする罰により、焼かれているのだ。
「ずっと探していたんだ。お前のような童貞を、これは運命だ。お前を抱き、お前の血を啜り、お前を我が同族とする。決して諦めないぞ」
エミールの顔は苦痛に染まっていた。彼の両手は見るも痛々しいほど焼け爛れてゆく。
……ダメだ、こんなの見ていられない。
「分かった! 分かったから、その手を放してください!」
「ぐっ……!」
エミールは手を放す。激痛と疲労、肩で息をしながら、しかし俊介から視線は逸らさない。
俊介の心は揺れ始めた。彼は今までモテたことがない。むしろモテない側の人間だった。と言うより、そもそも友だちがいなかった。イジメを受けるようなことはなかったが、全ての人と一定の距離があった。「いてもいなくてもいい人」それが彼の扱いだった。
それが、目の前の吸血鬼は違う。文字通り燃えるような情熱で、自分を求めてくれている。生まれて初めて味わう感覚であり、俊介の心を揺らすには十分だった。しかし――。
このエミールという人は、悪いヤツじゃない。殺されるのは嫌だ。吸血鬼になるのも嫌だ。しかし、邪険に扱うのも嫌だ。イイ加減に扱うのも嫌だ。きちんと話をしておきたい。
俊介はエミールを見た。互いの視線が交わり合う。
「エミールさん、あなたの気持ちはよく分かりました。でも、僕はその気持ちには答えられません。殺されるのも、抱かれるのも、吸血鬼になるのも、僕は嫌なんです。だから……ごめんなさい」
俊介は頭を下げる。
ぞくっ……!
不意に冷たい汗が背中から噴き出した。そして窓の外を見ると――。
「……断っても無駄だ。私は絶対にお前を諦めない。この体は不老不死。お前が心を変えるまで、私はずっとお前に付きまとう。必ずその首筋に、牙を立ててやるぞ」
エミールが笑う。血に飢えた牙が覗いた。
ようやく俊介は自分が置かれた状況を正しく理解した。
俺はバケモノに狙われている。「この窓を開けて『どうぞ入ってください』」と言わないこと、それだけが己を守る術なのだ。
俊介は拳を固め、エミールに言った。
「何をどう言われても……絶対に、入れませんよ」
「待つさ。いつまで経とうが、ずっとな」
エミールが不敵に笑う。
これは紛れもなく、バケモノとオレの命を賭けた戦いだ。眼前で微笑む吸血鬼に、俊介は身震いした――と、同時に、彼はあることに気がついた。
「……ん? そう言えば、何で窓から来たんだ? 普通にドアから来ればよかったのに」
冷静に考えると変だ。ドアから来ればいい。宅配便のフリでもされれば、きっと何も気にせずエミールを招き入れたはずだ。
「決まっているだろう。この顔を見せた方が話が早いと思ったからだ」
エミールはそう言うと、顔を斜め45度に傾け、肩の辺りに手を置いた。そして流し目をしながら――。
「私は顔がイイ。一目見れば誰でも惚れる」
シャーッ。
俊介は無言でカーテンを閉めた。
どうやらエミールはオレが一番嫌いなタイプの男のようだ。
「待てぇ! せめて何かリアクションをしろぉ!」
外でエミールが叫んだ。カーテンを開け、俊介は怒鳴りつけた。
「うるさいな、近所迷惑になるだろ」
「なら部屋に私を入れろ……あっ、そうだ!」
エミールが悪い笑顔を浮かべる。
「そういうことなら、ここで大声を出して歌うぞ。迷惑だろう~? 嫌なら家に入れろ」
「せこいな! そういうことなら――!」
俊介は冷蔵庫に走った。一方、エミールはアカペラで歌いだした。
「チャラララ、チャチャララ~ララ~♪」
エミールはメロディーを口ずさむ。
俊介も聞き覚えがある曲だった。何だっけ、この曲? ……あ、マイケル・ジャクソンの『Black Or White』だ。名曲だよね。
「アオ!」
きちんとシャウトした。やはり名曲だ。音楽の趣味は合うな。そう思いつつ、俊介は目当てのものを持ってきた。ちょうど晩飯用にいいものを買っていた。そいつを窓をちょこっと開けて、ベランダに出した。途端に『Black Or White』は悲鳴に変わった。
「ぐわぁぁぁぁ! 餃子ではないかぁ!」
俊介はwikipediaで読んだから知っていた。
『吸血鬼はニンニクに弱い』
微量だが、どうやら効果があったようだ。エミールはジェットコースターで酔った人くらいには弱っている。
「くっ……また来るからな!」
そう言うとエミールの全身が暗闇に熔ける。そして無数の蝙蝠がベランダから飛びだって行く。
その姿を見送ると、俊介は残された餃子を食べることにした。あのとき、この餃子をテイクアウトしたとき、店員にはニンニク無しもあると言われた。しかし、やはり餃子はニンニクが入っていないとダメだ。
俊介はニンニクに感謝を捧げながら、じっくりと頬張った
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