9.純情ヤンキー、唇を奪われる
冨士原 拓海(ふじはら たくみ)は不良だから、迫られるのには慣れていた。額と額がブツかるような距離で、視線を一切逸らさずに睨み合う。慣れたものだ(もっとも、拓海は高2だが身長は185もある。ここ最近は、なかなか視線が合う相手とは出会えていたなかったが)。
ただし、その相手が頰を赤らめて目を潤ませ、おまけに自分より20センチは低い位置から、こちらを見上げているとなると、話は違ってくる。
拓海にとって、図書室はちょうどいい昼寝部屋だった。授業が面倒になると、とりあえず図書室に行く。授業がある時間帯、図書室は無人だ。本当は司書がいるべきなのだが、彼の学校はクラスの図書委員が代役を務めるシステムだった。入口のドアには鍵がかかっていたが、一つだけバカになっている窓があり、彼はそこから図書室に入って日々爆睡していた。
だが、この日は違った。
午前11時。図書室は無人だった。そろそろテッペンへと辿り着きそうな太陽の光が、さんさんと室内を照らす。拓海がバカになっている窓を開けると、埃が舞った。穏やかな春風と共に、彼は図書室へ忍び込む。いつものように窓を閉め、いつものように本棚をすり抜け、いつもの机がある自習室へ向かう。まさにその最中、拓海は体当たりを受けた。
正体不明の衝撃、拓海は「なんだァ、コラ…!」と声を上げるがーー。
「んぐっ!?」
拓海の口を何かが塞ぐ。経験があったから、すぐに気がついた。その何かが人の唇だと。
「なっ、なっ……」
拓海は唇を拭いながら、自分を襲った相手を見た。
オレは今、奪われた。唇を、しかもよりによって、男に。目の前にいる、こいつに。
「何しやがんだテメェ!」
拓海はキレた。
とにかく何でもいいから、こいつをブッ飛ばすーーんっ!?
今度は両腕を押さえつけられ、唇を重ねられた。
何だ、何なんだ。何で今、オレはこんな目にあってるんだ? って言うかこいつは……うぐぅん!?
相手の舌が入ってきた。貪るように、拓海の口内をかき混ぜる。
「やめっ、このやっ……ぷぁっ!!」
拓海は力任せに顔を逸らした。
何しやがんだ、こんなの、こんなの犯罪だぞ。人に無理やりキスするなんて、何考えてやがんだ。ぜってぇブッ殺すーーは?
拓海は襲ってきた相手を見た。そのままブン殴るつもりで。しかし、そいつが泣いていることに、心の底から申し訳なさそうにしているのに気がついた。
拓海は条件反射で生きている。正しいと思うことをして、悪いと思うことはしない。彼は弱いものイジメが嫌いで、真面目に何かしようとしているヤツを決して嗤わない。彼にとって正しいことじゃないからだ。
そいつの目を見たとき、自分を押さえつけている細い腕を振りほどく気が失せた。そいつの目が真剣だったから。
「ごめんなさい……。でも、我慢できなかったんです」
そいつは、痩せたガキだった。この学校の制服を着ているから年齢は同じくらいのはずだが、拓海に比べればずっと幼い。乳児のようにサラサラの前髪に、しゃれっ気ゼロの黒縁メガネ。中学生だと言われても信じてしまいそうだが……拓海は彼の襟を見た。白いカラーが覗く学ラン。その襟には、校章がきっちりとついている。
「校章が緑ってことは、一年生か?」
「はい、そうです」
男の子の頰を涙が伝う。泣き出したのだ。
「ぐすっ、僕……図書係です。図書係の谷崎 良太郎(たにざき りゅうたろう)って言います。あのっ、あなたが好きです」
細い腕に力が入る。拓海の腕力なら跳ね除けるのは簡単だ。しかし、良太郎の迫力がそれを許さない。互いの視線が交わる。このままでは追い討ちのキスが来る。だから、とりあえずーー。
「いやいや、落ち着け! 待て! ステイ! ストップ! 落ち着いて、最初から話そう? な? な?」
拓海の必死の声は、眼前の少年に届いた。
「はっ、は、はい……! ごめんなさい! 僕、夢中になって、失礼しました!」
失礼すぎだろと思ったが、口には出さない。言えば何が起きるか分からないからだ。
細い腕から力が抜けていく。拘束が解かれる。良太郎はヘナヘナと、その場にへたり込んだ。
拓海は掴まれていた腕をさすりながら、ほっと一息。よかった。とりあえずは、これで一安心――。
「ぼ、僕、本当に、取り返しのつかないことを……ごめんなさい! 警察に行きます!」
「なんで警察!?」
「だって、僕は、あなたを襲ってしまった! こんなの許されないことです! 僕、自首します!」
「だから落ち着け! いいから! 警察なんて行かなくていいから! オレ、気にしないから!」
「ぐすっ、そういう問題じゃないんです! 僕は大好きな人を傷つけて……傷つけてしまった! うぅ……僕は、僕は……」
「そういう問題だから! オレは平気だから! 警察はダメだって!」
良太郎がスマートフォンを取り出し、ダイヤル画面を出す。拓海の血の気が引いた。
マジか、マジで警察を呼ぶ気か? 警察が来て、『君が唇を奪われた被害者の冨士原 拓海だね? 当時の状況を詳しく話してくれるかな』なんて聞かれるのか? そんなの絶対に勘弁だ。でも、どうすればいい? 良太郎は通報する寸前だ。って言うか、ああ! もう11まで押してる!
次の瞬間、拓海はとりあえず右フックを良太郎の腹にブチ込み、通報を阻止することに成功した。
夕暮れに染まる帰り道、拓海はかつてないモヤモヤに襲われていた。その原因は、もちろん良太郎との間に起きたことだ。
必殺の右フックによって、良太郎は五分ほど床をのたうち回った。通報は阻止できたが、それは緊急措置であって、問題の解決にはならない。
良太郎が落ち着く頃、拓海は改めて聞き直した。聞きたいことは山ほどあった。何故いきなりキスをしてきたのか? って言うか、誰だ? 好きってどういうことだ? ……etc。それらをまとめて、拓海は聞いた。
「何考えてんだ、てめぇ?」
拓海のシンプルな問いかけに、良太郎は涙で顔をクシャクシャにしながら答えた。
「……ごめんなさい。色々考えていたら、よく分かんなくなっちゃって。それでそのっ……キスしちゃいました」
「しちゃいました、じゃねーよ。お前これ、自分でも言ってたけど、フツーに犯罪レベルのことだぞ」
「ひぐっ……ごめんなさい。本当は告白するだけのつもりだったんです。でも、もし断られたらって思うと……ううん、きっと断られるって思いました。だったらせめてキスくらいって……ぐすっ」
「泣くなっての。ったくよ〜調子狂うな。どっちが悪いか分かんなくなるじゃん」
「悪いのは、僕です。勝手に先輩を好きになって……こんな真似して、どう考えても僕が悪いです」
「まぁ、そりゃそうなんだけどさ。だからって、警察まで呼ぶ必要はねーよ。そこまで悪いことじゃねーし。つーかオレもブン殴ったのは悪いと思ってるし……」
話せば話すほど、どこに会話が着地するか分からなくなってくる。こういう話し合いなら、殴り合いの方が百倍楽だ。
「つーかさ、オレら初対面じゃん。なんでオレに惚れたわけ? オレ、たしかに顔には自信あるけど、お前とは会った記憶もねーぞ。学年も違うし」
「……富士原先輩、放課後に図書室でよく寝てますよね。僕、図書係ですから、よく見てたんです。それで、その……寝顔を見てると、可愛いなぁって思って……」
「かわっ……!」
そんなことを言われたのは、幼稚園のとき以来だった。
「何を言ってんだテメーは! 高2の男子だぞ! オレ!」
「でも、可愛いんです! 先輩は可愛いです! 気がついたら好きになってて、そしたら今日、先輩が図書室に忍び込むのが見えて、二人きりになれるって思ったら、もう止まらなくて……先輩、可愛いから!」
「だから、それはやめろって……だーっ! もう! やめだ! やめ! この話はこれで終了~! いいな?」
「……はい」
強引に会話を打ち切り、拓海は良太郎と別れた。そして放課後を迎えたわけだが……。彼の頭は今日起きたことを整理できずにいた。
何が可愛いだよ。オレ、男だぞ。つーか可愛いのはどっちかと言うと、あいつの方で……いやいや、あいつも男だ。この場合の可愛いって言うのは、オレとアイツを比べらたらって話であって……いやいや、違う。そこは別にいいんだ。それよりアイツがオレのことを好きだって言ったのがヤバいんだ。あの場は無理やり収めた。それにアイツは根が真面目そうだし、もう今日みたいなことは起きないだろう。でも……しまった、返事をしていない。「そういうのは困る。オレは別にお前が好きじゃない。男と付き合うつもりもない」ハッキリそう言わなきゃ、アイツは思い詰めてしまうだろう。告白ってのはハッキリ、サッパリさせなきゃダメだ。男同士の恋愛でも、きっとそうだろう。明日、またアイツに会って、ちゃんと白黒つけとかないといけない。うん、そうだ。そうしよう。もしかすると、またキスされるかもしれないけど、まぁ、それはそれで――ん?
「悪くない? ……えっ?」
拓海は自分の頭が弾き出した答えに驚きの声を上げた。思考は急停止後、すぐに再起動してフル稼働を始める。
待て待て、「それはそれで悪くないってどういうことだ?」いや、たしかにアイツのキス、そうとう上手かったよ。今まで付き合ったどの彼女よりも激しくて、それでいて丁寧で、あのまま舌を入れられてたら……いやいやダメだろ! 何だ? 何だこれ? これは、この気持ちは!?
再び拓海は考えるのを止めた。そして深呼吸をして、自分に言い聞かせる。
落ち着け、オレ。何もかも慣れていないからだ。あんなふうに迫られることにも、泣かれることにも、男に告白されることにも、慣れていない。だから、こんなふうに胸がドキドキするんだ。慣れればきっと平気になる。あいつにもう一度……いや、何度か会って、フツーに話せばフツーに慣れるはず。もし慣れなかったら、そのとき多分この気持ちは、きっとアレだ、アレ――あれ、これって……?
驚きの声と共に、またも拓海は考えるのを止めた。答えが見えてしまったからだ。自分でも信じられない答えが。
「これって……恋?」
夕暮れに染まる雲を吹き流すように、鮮烈な春風が吹いた。
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