7.熱砂の国の王子様

この国への出張が決まったとき、美裕 一也(みひろ かずや)は3つのことを上司に厳しく言われた。


1つ、気候、具体的には気温と太陽と砂嵐に気をつけろ。どれも見誤ると命に関わるぞ。

2つ、砂漠には絶対に1人で出るな。確実に迷って、干からびて死ぬことになる。

3つ、取り引き相手の王子を怒らせるな。あの国では王子が全て。殺されても文句は言えない。


1と2は問題なかった。一也は几帳面で真面目な性格だ。天気予報はマメに確認し、仕事以外にはホテルから出もしなかった。そのうえ生まれて初めての海外旅行だ。気を抜くも何も、入国から1秒たりとも気が抜けなかった。宿泊先のホテルで1人になっても。

用意された部屋は、修学旅行の生徒が1クラス分は入って、思う存分に枕投げが出来そうな広さだった。一也の近所の銭湯より広い大理石の浴槽。そして、色とりどりの花びらが撒き散らされたキングサイズのベッド。いつも使っている日本のビジネスホテルとは全くの別物。いつもならホテルは出張の楽しみだ。ジャケットを脱ぎ捨て、ワイシャツとズボンのままベッドに大の字になる。そしてコンビニで買った缶チューハイを一本やる。しかし、今はそんなことしようとは思わない。大理石のテーブルの上、無造作に突っ込まれたシャンパンに手は伸びないし、豹柄(本物の皮だった)のソファに座っても、まるでスクランブル交差点のド真ん中で座り込みしているような、不思議な罪悪感を覚えた。

「これが金持ちの国で、石油王と仕事するってことか。凄い、凄いのは間違いないけど、東◯インが恋しい……」

日本のサラリーマン、それもブラック気味の会社で働く身には、このホテルはあまりにもデカすぎた。

「何でこんなことになったんだろう。そもそも、うちみたいな小さな会社が何で石油王と仕事をしているんだろうか?」

一也は印刷機の販売メーカーに勤務している。彼の普段の仕事は、全国の町工場を回って新型の機器を売り込むこと。沖縄・九州から北海道まで飛び回っていた。いつか海外に行くことにはなるとも思っていたが、まさか急にこんなーー。

「って、ダメダメ。明日も王子様と会わなきゃいけないんだ。早く寝なくちゃ」

そう言って一也はベットの上に大の字になった。しかし、窓の外を眺めれば文字通り100万……否、三桁億ドルは掛かりそうな夜景が広がる。

……落ち着かない。

一也はリラックスするため、いつもビジネスホテルでやっているように天井のシミを数えようとした。しかし、そこにも何やら荘厳な宗教画が描かれており全く気が休まらない。

そして目を閉じると、昼間の商談で会った王子の姿が浮かぶ。それほど彼が生まれて初めて見た「王子」は鮮烈だった。

一也は思う。

……綺麗だったな。あんなのが、本当に自分と同じ人間なのだろうか? 褐色の肌に、掘りの深い顔。それに、とても綺麗なブルーの瞳だった。身長は190センチくらいあったし、よく鍛えられていて……165センチ、65キロの僕が隣に並ぶと、まるで枯れ木みたいで、自分が惨めに思えるほどガタイがよかった。けれどゴツいとか、マッチョという雰囲気でもない。あれは何て言うか……高貴、そう、高貴だ。高貴という言葉が相応しい。おまけに日本語もペラペラで、聞けば他にも英語、北京語、広東語、韓国語、タイ語、も出来ると言ってたな……。

「あれが本当の、王子様……か」

思わず声が出てしまう。あれほど美しい人間を見たのは初めてだったから。

呆れたような溜息を洩らし、再び一也は寝ようと努めた。

目をつぶり、何も考えないように――ダメだ、あの王子様のことばかり考えてしまう。あんな人間がこの世にいるなんて、本当に信じられない……。

初めての王子様に、一也は我ながら驚くほど興奮していた。しかし、それは落ち着かないホテルの内装よりも幾分かはマシだったらしく、目をつぶってから10分後、一也は眠りについた。



深い眠りの暗闇の中、一也はある異変に気がついた。

……甘い匂いがする。とてもイイ匂いだけど、香水かな? いや……ん? 何かが動いている? 何かが僕の上にいる? お腹の上に乗っている感じ……ああ、飼い猫のにゃん吉か。……いやいや、違う。ここは砂漠の国、にゃん吉のはずがない。でも、ホテルには一人で……。

そっと一也は目を開く。すると――。

「気がついたのだな。異国の人」

目の前に美しい人がいた。白い厚手のバスローブを羽織り、その前面から逞しく、しなやかな筋肉が覗いている。彼はブルーの瞳を輝かせ、一也を見下ろしていた。

一也は匂いの正体に気がつき、ほっと安どのため息をついた。

ああ、イイ匂いがすると思ったら、この人の匂いか。髪も体が濡れているし、ボディソープかシャンプーの匂いだろう。って言うか、昼間の王子様じゃないかどうして僕の部屋に? って言うか、なんで僕の部屋に、半裸(に限りなく近い恰好)で、僕の上に……。

……ん? ちょっと待てよ?

一也の意識が警告のドラを「ジャーン! ジャーン!」と鳴らし始める。

え、待って。これって、もしかして……?

芽生えた疑惑を確信させるように、一也に跨った王子は言った。

「キレイだ、遠い異国の人よ。お前は美しい。私に抱かれるだけの価値がある」

王子は商談の時と同様、流ちょうな日本語を発した。

「逃がさない。お前は今、この瞬間から……」

ブルーの瞳が怪しく輝いた。

「私のもの……。いいな?」

……よくない!

王子の最後の言葉と同時に、一也は彼の左手首と左肘の後ろを掴んだ。次に両足で王子の左足をキャッチ、ホールドする。このポジションを作るまでに1秒、王子は異変にすら気がつかない。そして体勢を維持したまま、一也はブリッジしながら全身を左へ回転させる。すると王子は左半身を軸に1回転した。2秒で攻守は逆転し、一也が上、王子は下となった。一也が行った動作は基本的なマウント(馬乗り)逆転法だ。

「なっ、がっ……!」

王子のマウントを返された驚きと、鈍い悲鳴が響く。彼が悲鳴を発したのは、一也が既に次の技に移っていたからだ。

王子が羽織り、そして、はだけさせていた厚手のバスローブが必殺の決め手。一也が極めたのはクロス・チョークだった。両袖を十字に組んだ手で掴み、そのまま両手の甲で首を締める。

一也は古流柔術の使い手だった。戦国時代より受け継がれる、素手で人体を破壊する技術だ。幼少よりの過酷な教育によって、一也は反射的に最適な技を取捨選択し、繰り出し、極める領域の達人の域に達していた。しかし、就活の特技の欄に「殺人術」とは書けないので、それを知る者は1人もいなかったが。

一也は王子様を締め上げる。

10秒、20秒、30秒……40秒の寸前、王子が落ちていることに気がついた。

「はっ! やばっ!」

一也は我に返った。何がなんだか分からない。しかし、何はさておき人殺しは良くない。まして相手は一国の王子様だ。ここで殺してしまったら……会社をクビどころか、国際問題だ。いや、と言うかそもそも僕が生きて帰れない。活を入れなければ。

一也は見ていた。商談の時、王子の横にマシンガンを持った警備兵がいたのを。あんなのを相手にするのは勘弁だ。

「死ぬなぁ! 戻ってこい王子さまっ!!」

一也は王子の鳩尾を心臓マッサージの要領で押し続ける。これでダメなら……。

「…………」

王子は眠ったままだ。心臓は動いているが、声をかけても目覚める気配はしない。

クロス・チョークは脳への血流を止め、相手を失神・死に至らしめる技だ。王子は死ななかったが、脳死状態になってしまった可能性もある。

「ああ、終わった……ってしまった……。これで僕は……歩く国際問題だ……」

一也は力なく呟き、フラフラと立ち上がった。窓の外は相変わらず美しい。数百億ドルの夜景は、何もなかったように宝石箱をブチ撒けたように輝き続けている。

……これからどうしよう? まず王子の不在を怪しんだ警備隊とかが部屋に雪崩れ込んでくるだろう。マシンガンを持っていた。いきなり撃たれるかもしれない。さすがの古流柔術もマシンガンには勝てない。……いや、接近戦に持ち込めばワンチャンあるかもしれない。それで1丁でいいから銃を奪って――。

「み……見事だ、異国の……人よ……」

「はっ!?」

一也は声の方を振り向く。すると王子が、極められた首をさすりながら、弱々しく、しかし確かに立ち上がっていた。

「王子様! よかっ……いや! ごめんなさい! 僕は、その、殺す気はなかったんです!」

一也は必死で頭を下げる。しかし、王子は穏やかな微笑みと共に言った。

「いや、いいのだ。異国の人よ。一時の欲に駆られ、お前を抱こうとした私が悪いのだ。これは当然の天罰……否、むしろ生きていられることに感謝しなければ」

王子はそう言いながら、テーブルの上のシャンパンを開けた。そして細長いグラスに注ぐと、まるで気つけ薬のように一気飲みする。

「プハッ……しかし、見事な動きだった。今のは日本の柔道の技か?」

「いいえ、僕が習っているのは柔道じゃなくて、古流の、えっと……王子は、嘉納治五郎(かのう じごろう。講道館柔道の創始者)ってご存知でしょうか?」

一也は完全なパニック状態だったが、王子は、先ほどまで死の淵にいたとは思えない程、落ち着いていた。

「複雑な背景があるらしい。では、質問を変えよう。君は強いか?」

「強い、ですか?」

「そうだ。たとえば同年代の他の者と比べたとき、君は自分が強いと思うか?」

あまりの突飛な質問に、一也はつい本音を言ってしまった。

「それは……強いと思います」

「……だろうな。私もレスリングをやっているのだが、君にマウントを返され、極められるまで、何もできなかった。少々悔しいが、君の実力は本物だろう」

そう言うと王子は、シャンパンを注いだグラスを一也に渡した。

「私は……君を見て、自分のものにしたいと思った。強引な手を使ってでも。自分でも不思議だった。こういう気持ちになることは、初めてだったから」

「は、はぁ? 恐縮です」

軽く会釈をしながら、一也はシャンパンに口をつけた。

「最初は、単純にお前が可愛らしいからだと思った。その黒髪も、黒い瞳も、小柄な体も、まるで子猫のように愛らしい。だが、本当の理由がわかったよ。私は君の強さに惹かれたんだ。そしてこれは……間違いなく運命の出会いだと思う」

一也はシャンパンから口を離した。

運命の出会い、その大げさな言葉から物凄く嫌な予感がした。禍々しく、何かとんでもなく厄介なことが起きそうな予感がした。

そして1秒後、その予感は的中する。

「君に、あるトーナメントに出てほしい。実は一か月後、この国である格闘技の大会が開かれる。王位継承権をかけ、私を含む16人の王子が各々選び出した最強の選手を競わせる。すでに私の選手は選んでいたが、その者より明らかに君の方が強い。だから、出てくれるね?」

「トーナメント」「王位継承権」「16人の王子」「最強の選手」……なんですか、それは? 『ハ〇ター×ハン〇ー』ですか?

ポンポンと出てきた言葉に、一也は更に混乱した。

何がなんだから分からんが、無茶苦茶である。

「ちょっと待ってください! そんな勝手な――」

「では、王子暗殺未遂ということで、日本政府に抗議をしてもいい」

「うっ……!」

痛い所を突かれた。王子を落としたのは事実だ。しかし――。

あれは正当防衛だ。襲われそうになったから、反射的にやってしまったやつだ。不可抗力だし、そもそも王子は生きている。罪に問われるはずが――はっ、そうだった。僕に戦う術を教えてくれた父も言っていた。生死は表裏一体。殺法すなわち活法なり。つまり、上司に言われた3だ。


3つ、取り引き相手の王子を怒らせるな。あの国では王子が全て。殺されても文句は言えない。


「殺されても文句は言えない」ということは、「生かされても文句は言えない」ということになる。自分は、もう王子様に捕まってしまった。この国にいる限り、どう生きるかは、全てこの王子の胸先三寸なんだ。

「……そんな暗い顔をするな。お前には似合わないぞ」

王子は真っすぐな目で励ましの言葉を投げかけてくる。

「いやいや、あんたのせいで暗い顔してるんですけど……」そう言い返したかったが、王子の美しい瞳がそれを許さない。と言うか、一也は何を言っても無駄なことだと悟っていた。

王子様とサラリーマンでは、どう考えても王子様が上だ。どう足掻いても……ん? そうだ、っそうだった! 僕はサラリーマンなんだ!

一也が思いついた逆転の策は真っ当な理屈だった。

「あ、王子様。すみません、せっかくの申し出なのですが、僕は会社員でして。一応、そういうのは会社に連絡を入れておいてもらえますか?」

簡単だ。会社に連絡すればいいのだ。いくらうちの会社がブラックでも、こんな誘拐同然のことを見逃すはずがない。そもそも邦人が勝手に王位継承権(?)のトーナメントに関わるなんて、それはそれで国際問題だろう。全てを公けにすれば、日本の世論が動き――

「そのことなら心配するな。この部屋に来るとき、お前の会社の社長には、日本の首相を通じて話をしておいた。お前を私のものにしたいと」

「日本の首相?」

「うむ。電話でな。快くOKしてくれたぞ」

スーツを着た大人たちパワーオイルマネー……」

一也は心の底から震えた。砂漠の王子様、石油王が持つ真の力に。絶望と驚愕、そして逃げ道が無いことを悟り、カタカタと震える一也。その肩を抱き、王子が言った。

「……恐れるな。私の戦士として、共に戦おう。私たちが勝ったなら、お前には自由と報酬、最強の称号と妃の座を約束しよう」

……最後のはさておき、どうやら戦うしか道はないようだ。

全てを悟り、全てに覚悟を決め、一也は叫んだ。

「あ~もうっ、分かりました! やりますよ! やればいいんでしょう!」

かくして砂漠の国で、一人の戦士が新たに誕生した。

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