6.短距離走

その日は、朝から雲一つなかった。

内村 昭介(うちむら しょうすけ)は空を見上げた。こんなにピーカンなのも珍しい。まるで祝ってくれているみたいだ。オレの中学最後のレースには、ちょうどいい日だ。風の具合もいい。ひょっとしたら、今日こそは日本記録だって出せるかもしれない。

昭介は微笑み、視線を100メートル先のゴールへ移した。

あそこまで一直線に突っ走る。これまで何百回とやってきた。今日も同じだ。オレはあそこまで全力で走る。ただ、それだけを考えればいい。どうせ誰もオレにはついて来ることは出来ないのだから。

「内村 昭介さんですね?」

「ん?」

昭介は声のした方を見た。

……誰だ、こいつ。見ない顔だし、幼い。二年生か、ひょっとすると一年生か。

「何? って言うか、誰だっけ?」

昭介は少年に言った。すると少年は

「オレは、平 圭吾(たいら けいご)って言います。今日はよろしくお願いします」

そう言って昭介を睨みつけた。

そして昭介は、記憶の片隅にあった名前を思い出した。

平 圭吾……そういえば、隣を走るヤツがそういう名前をしていた。どっかの無名の中学からポッと出てきたやつで、たしか地方大会で12秒前半を出したやつだ。

「隣で走るから、挨拶しとこうと思って」

礼儀正しいヤツだ。しかし、それ以上に目つきがいい。そう言えばオレも一年生の頃、こうやって三年の選手を睨んだことがあったな。

昭介は笑った。

オレは何を考えているんだ。「オレも昔はこうだった」なんて。中学三年生なのに、オッサンみたいだ。

「ふふっ。ああ、よろしく」

「オレ、負けませんから」

圭吾はそう言って頭を深く下げた。昭介は再び笑った。全国大会ともなると、競い合う選手はいつも同じメンバーになる。ある意味でのマンネリが起きるのだ。新顔と出会うのは珍しい。しかも、こんな気合の入ったヤツと出会えるとは。

「ああ、頑張れよ」

そう言って昭介は圭吾の肩をポンポンと叩いた。


選手たちが横一列に並んだ。

昭介は再び100メートル先を見据える。

……不思議だ。根拠のない自信が胸の奥から湧いて来る。今日はイケそうな気がする。中学の日本記録を塗り替えることができるはずだ。いや、今まで最高の走りをすれば、自ずと結果もついてくるはず。……いや、雑念は捨てろ。とにかく、走れ。今までそうしてきたように!

昭介の集中力が頂点に達した瞬間、スタートの合図。

走り出した。ゴールへ、矢のように。

昭介は前しか見ない。グングンと近づいてくるゴールを見れば、残りの距離は分かる。

30m、40m、50m、もっとだ、もっと速く走れる。加速できる。

60m、70m、80m、ここだ、ここで更に加速すれば――え?

昭介の視界、その端の端に影が映った。そしてソイツは瞬く間に、昭介の視界の中央まで移動した。

85m、90m、こいつ、さっきの?

そして影の背を見た瞬間、昭介の膝から力が抜けた。そのまま崩れ落ちるように。

100m、昭介のタイムは10:55。それは彼の最速記録であり、日本記録だった。しかし、彼は勝てなかった。勝利を掴んだのは、平 圭吾、タイムは10:53。日本記録だった。

ゴールと同時に、大会のスタッフや、マスコミが圭吾を取り囲む。突如として現れた新星に、大人たちは熱狂していた。

そんな喧噪の外、破れた選手たちは重い沈黙の中にいた。彼らは見たのだ。絶対的な才能の違いを。一年生、初出場で日本記録を打ち立てた。ある者は中学の三年間、ある者は生まれた時からの十年以上を陸上に次ぎこんできた。それをアッサリと、アイツは抜き去って行ったのだ。

しかし、たった一人だけ、闘志の混ざった微笑みを浮かべている少年がいた。

昭介だ。彼は大人たちに囲まれた圭吾をじっと見つめ、呟いた。

「平 圭吾……名前、覚えたからな」

聞こえるはずもない。そもそも圭吾は昭介を見てもいなかったが、関係なかった。

すげぇヤツが出てきた。お前みたいなヤツと競い合えるなら、オレはもっと速くなる。

 昭介は心に真っ赤な火が点くのを感じた。

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