3.死合い

夜の草原に、白い空手着を纏った男が立っている。月の光が静かに大地を照らす。男は静寂の中、ただ時を待っていた。

 

 男の名は黒影 重蔵。歳は47。身長は185センチ、体重は85キロ。しかし、その肉体は均整が取れていない。両肩は異様に盛り上がり、耳は潰れていた。それは強烈な打撃を持ち、練り上げた寝技を持つ証であった。


 最初に触れた格闘技は空手。幼い頃から真剣に打ち込んでいたが、ある夜にケンカ騒ぎを起こして道場から追い出された。才能はあり、将来は世界的な指導者になるとも言われていたが、輝かしい未来をドブに捨てたが、後悔はなかった。何故なら、そのケンカに負けたからだ。悔しくて、悔しくて、後悔どころではなかった。以来、重蔵は様々な格闘技を学んだ。柔道・ボクシング・キック・総合……自分を負かした男を超えるために。


 重蔵は待つ間、考える。あの男に、何をどう仕掛けてやるか。いかに日頃から鍛えているとは言え、47歳である。持久戦は不利だ。寝技で粘るのも難しいだろう。しかし必要なら応じる覚悟もある。あの夜、あの男には寝技で締め落とされた。しかし、今なら――。


 待ち人は、まだ来ない。すでに待ち合わせの時刻から15分が過ぎていた。重蔵は慌てない。心を乱さず、戦略を練る。


 あの男の守りは絶対だ。使うのは中国拳法。とりわけ擒拿(きんな)術を得意としている。骨や筋肉を掴み、捻じ曲げ、破壊する。接触と同時に相手を破壊する技術。考えられる最悪の流れは、撃った打撃を捌かれ、掴まれ、その部位を破壊されること。


 重蔵は打撃に自信があったが、あの男を相手にするなら話は別だと考えた。こうなると俄然立ち上がってくるのが、あの夜から練り上げた寝技である。


 今の重蔵は、寝技の技術に自信を持っていた。あの男に打撃を捌かれることは、そのまま部位を破壊されることに繋がる。危険性を考えれば、むしろ寝技に引き込む方がいいのではないか。相手もこの年齢で、まさか寝技での持久戦を仕掛けられるとは思うまい。

 「……よし」

 重蔵が小さく呟く。

 すると、それを待っていたかのように、あの男が現れた。

 「準備は出来た?」

 「左 憲之輔(ひだり けんのすけ)、愚問だぞ。命をかける覚悟? そんなものは、とっくの昔にしている」

 現れた男……左 憲之輔は、異様な外見をしていた。身長は172、体重は70キロ。歳は重蔵と同じ47。荒れ放題の髪に、猫背気味の体。ヨレヨレのワイシャツに黒のチノパン。およそ格闘者とは思えない、仮に格闘者ならば誰もが侮る容姿である。

 しかし、憲之輔の声には、その容姿に不釣り合いな絶対の余裕があった。

 「だったら、さっさとやろう。俺はいつでも準備できてるから」

 憲之輔の緩やかな言葉に、重蔵は「おう」と気合いを込めて応える。

 そして二人の男が、月下で構えた。

 両者の距離は3メートル。2歩か3歩で互いの間合いに入る距離だ。

 重蔵は憲之輔を見る。

 やはり、強く、美しい。猫背であるが、体の中心には鉄棒が通っているように絶対の均整がある。軽やかで、緊張がまるでない。それでいて、間合いに入る全てを破壊する迫力と緊張がある。自分には決して出来ない構えだ。

 「いや、いかん」

 重蔵は見惚れる心を引き締めた。これは死合い、一瞬でも隙を作れば、殺され――。

 ボコォ……!

 分厚い腹筋を貫く音がした。

 憲之輔が跳び、打撃を放ったのだ。その突きは重蔵の腹部を捉え、彼を2メートル後方へ吹き飛ばした。

 憲之輔が放ったのは崩拳。左足で大地を蹴って跳び、右足を踏み込む。その勢いで対象を撃ち抜く。中国拳法の中段突きだ。

 「勝負あり」

 憲之輔が言った。

 重蔵は認めるしかなかった。立てない。腹部に受けた衝撃は、呼吸すら困難なほど強烈であった。

 重蔵は微笑み、

 「負けだ。俺の」

 と言った。

 すると、憲之輔が満面の笑顔を浮かべる。

 「じゃあ来年も1年、家事は重ちゃんが担当ね。よろしく」

 「うるせぇ、分かったよ。やるよ、やる」

 そう言うと、重之助は口から血をペッと吐き出した。崩拳で吹き飛ばれたとき、口の中を切ったのだ。

 「ありがとね~!」

 「うるせぇな。決着もついたし、さっさと帰るぞ。晩飯を作ってやる」

 「何?」

 「……サンマがあるから、アレを焼く。で、レタスとトマトとキュウリのサラダ。味噌汁はキャベツでやる」

 「サンマ! だったら、ご飯も炊いてね!」

 「炊くに決まってるだろ」

 「いや~、さすが重ちゃんだわ。そこまで気が回らないよ。ご飯を炊くまではいかない。考えつかないって、フツー」

 話しながら重蔵は思った。

 サンマに白米は当然だろ。本当に驚くほど生活能力がゼロだ。憲之輔は有名な格闘家の家に生まれ、戦うこと以外は何も教わっていない。人を倒す術は死ぬほど知っているが、ご飯の炊き方すら知らない。放っておいたら確実に野垂れ死にしてしまう。断じて、そうさせるわけにはいかない。


 重蔵が初めて再戦を挑んだとき、の家はゴミ屋敷で、カップラーメンしかなかった。そのことを指摘すると、

 「いいじゃん。俺んちなんだから。何しようが何を食べようが勝手だろ」

 と返された。このままでは俺との決闘より先に、不摂生で死んでしまう。自分を初めて負かした男が生活習慣病で死ぬなんて、絶対に許せない。今すぐ生活態度を改めろと言ったら、今度は――

 「やだよ。面倒だし……あ、そうだ! じゃあさ、俺に負けたら一年間、俺の面倒みてよ」 滅茶苦茶な要求である。あれを受けたのが一番の間違いであり、それが本当の始まりだった。以来20年、重蔵は一度も勝てず、この人格破綻者の面倒を見続けている。


 また1年、こいつを負かす為に鍛えなければならない。そろそろ歳も歳だ。お互いに残されている時間は少ないだろう。死ぬまでの間に、こいつを必ず倒してみせる。しかし、とりあえずは――。

 「そう言えば、冷蔵庫にウィンナーが残ってたな。今日のメニューは肉が足りんから、そいつも焼いてやる」

 「本当!? さすが重ちゃん!」

 冷蔵庫の中の消費期限切れが近い食材を片付けなければ。重蔵はそう思った。

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