第10話 招かれざる客

 居間からベランダに続く窓を開けると、目を疑う様な光景があった。

 夜特有の暗闇の中、雨が止んでいた。

 実際には私のベランダの辺りだけ雨が止んでいる、様に見える。

 原因はベランダの柵に腰を掛けた彼女だろう。

 異様な光景ではあるが、彼女を中心に覆う様に円形を作った空気が雨に壁を作っているかの様なのだ。

 どうやら少し前から待っていたのか、私と目が合うと満足気に口元を緩ませた。


「こんばんは」


「………………」


 驚き過ぎて言葉も出ない。

 どうやってここまで来たのだうか。

 私はただ呆然と目を見開いていた。


「夜分遅くに驚かせてすまない。

 僕は雪見時雨ゆきみしぐれ

 これでも一応、高等部に通っている先輩なのでな。

 雪見先輩と呼んでくれ。

 貴女は上代唯かみしろゆいさんと見受けるが、相違ないかな?」


 遠くで微かに響く雨音。

 どうやら部屋の中までは入る気が無いらしく、ベランダの柵に腰を落ち着けさせる。

 抑揚の無い落ち着いた雰囲気の声が耳を撫でる。

 まるで止まっていた時を無理矢理動かす様だ。


「何者ですか」


 声音が低くなる。

 二度目の事態に口の中が渇く。

 一度目とは違い、今回は正体不明と言って良い相手が目の前に居る。


「僕は、あるお嬢様に仕える者だ。

 実は今日お嬢様が一人のに攫われたんだ。

 けれど、どうやら学園で男とお嬢様を見掛けたのは僕と上代さん達だけの様でね。

 男の名前は言わなくても、上代さんならもう分かるだろう?」


 目撃者さん。


 私を射るような眼差しで見つめる。

 きっと、藤 海斗ふじ かいとの事を言っているのだろう。

 含みを持たせ、遠回しではあるがつまりは……


「僕はお嬢様を助けたいんだ。

 だから僕に、手を貸してくれないか?」


 雪見時雨と名乗る彼女が何者かはおおよそわかった。

 だがいつ、調べ上げたのかが分からない。

 不安要素からの、ほぼ一方的な取り引き。

 それも決して無関係では無いから断りにくい。


「今の私は、暇ではありません」


「あぁ、僕の他に来客が居るんだね。

 となると、僕も男を生かしておく保証は出来ないけれど良いかな」


「その脅しは必要ありません。

 元々彼に用事もあります。

 条件はありますが、手伝いましょう」


 内心で舌打ちする。

 私には結局、選択肢はほぼ存在しなかったからだ。

 寧ろ彼女が私の元へ来た事で若干の選択の余地が生まれた辺り、親切な方なのだろう。


「準備をして来ます。

 そこでもう暫くお待ち下さい」


 私は彼女にそう一声を掛け、居間に戻る。

 シルビアに夕食の準備や奏澄の面倒を頼んだ。

 そして、廊下に出る。

 風呂場や脱衣場の真向かいにクローゼットがあるからだ。

 私はそこから私服に着替え、近くに掛けられている雨具を取り出す。

 途中くしゃみも出たし、手の平がじくじくと痛み、着替えに手間取ったがシルビアの手伝いもあり、差程時間は掛からずに準備を終えた。

 一応、スマホと部屋の収納ボックスに入れていた幾つかの薬瓶を鞄に入れる。

 雨合羽を羽織りベランダに出ると、彼女はベランダの柵に立っていた。


「お待たせしました。

 行きましょう」


「お手をどうぞ。

 目的地については向いながら話そう」


「分かりました」


 彼女がまるでお辞儀する様に左手を胸元に、右手を私に差し出す。

 彼女の手を掴むと、私の全身を重い空気が満たした。

 まるで水中や無重力空間にいる様な、そういう感覚だ。

 彼女に腕を引かれる。

 同時に私の身体が予備動作無しに、簡単に浮かぶ。


 たんっ


 軽やかな音が聞こえた。

 まるで私の体重など無いかの様に彼女は笑って、ベランダから飛び立っていた。




 4階建てのアパートの、ベランダから。




 私の住む部屋は4階にあった。

 だから彼女の行動は当然心臓に悪い物であった。

 私の口から悲鳴が出なかったのは、驚くと硬直するタイプだったからである。

 もっと言えば、悲鳴を上げる余裕なんて無いのだ。

 彼女はそんな私を知ってか知らずか、手を繋いだままふわり、と近くの家やアパート等の屋根に降り立ち、そのまま無重力空間を歩く様に進む。

 彼女がどうやって私の部屋のベランダに来たのかが、よく分かった気がする。



「最近のニュースでは通り魔殺人事件って騒がれているけど、被害者の全身から血が抜かれているらしい。

 噂では吸血鬼事件って言われてるよ。

男はその付近で頻繁に目撃されているね。

 繁華街は格好の場所なんだろう」


「………………。

 ではこれから、そこに行くのですか」


「そうなるね」



 屋根伝いに繁華街に向かっている事もあり、住宅街は直ぐに抜けられそうだった。

 もしかしたら、直線距離はそんなに遠くないのかもしれない。

 それでも気になる。

 彼女は仕えているお嬢様を救いたいと言っていた。

 ならば本当は急いでいるのではないのだろうか、と。



「あの、急がなくて良いのですか?」


「んー、上代さんがさっきあまり驚かなかった時にも一応考えたんだけど、着いた時に具合悪くされるのは困るからこのまま行こう。

 それに、お嬢様には僕以外の従者も居て

 ね。

 今頃お嬢様と男を探していると思うんだ。

 僕らが到着するのは、彼らが頑張って場所を特定してからでも、遅くは無いと思うんだ。

 被害者が出るのはその時だろうから」


 外灯や信号機を蹴り進みながら彼女は私に笑いかける。

 月の淡い明かりと角度の問題なのだろうけれど、彼女の表情が不気味に見えてしまう。



「何故、そこまで話してくれるんですか」


「上代さんに手を貸してもらう以上、せめて信頼くらいは築こうと思ってね」


 そんな事を話している内に、私と彼女は駅の近くまで来ていた。


「さて、この辺りの路地裏で降りようか。

 上代さん、ここからは歩こう」


 彼女がそう言った頃には私は雨が降っている事を忘れていた。

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