前篇 ー理論ー
乃ノは自室で正座をしていた。沈痛な面持ちで、自分の膝小僧に視線を据えている。
髪は茶色のミディアムショート。俯き、垂れた前髪の隙間から見える顔は、少ししか見えていなくても整っていることが分かった。
「ねぇ、
乃ノは硬質な声で、机を挟んだ向こう側にいる少年の名を呼んだ。
「ん?」
呼ばれた少年は何の気なく返事をした。体は乃ノに対して横を向いていて、片腕を後ろに突いて支えている。足も気だるげに伸ばしてリラックスしていた。
乃ノは顔を上げる。大きい瞳に強い意志を宿して竜也を見た。
「私、いじめを止めさせたい」
乃ノの真剣な様子に、竜也は目だけを乃ノに向けた。乃ノの瞳を見て、右手に持っていたお茶の入ったグラスを置く。
少年の名は青柳竜也。これと言って特徴のない、普通の学生だった。乃ノの隣の家に住んでいる幼馴染で、容姿、成績共に普通。クラス内でも地味っ子として馴染んでいた。
二人は昔から互いの家を行き来していた。高校二年になる今、流石に頻繁に行き来することはないけれど、試験前や学校で何かあった時などは、今回のようにどちらかの家へ集まることがあった。それ故に、お互いの人間関係にも、乃ノの部屋にいることにも慣れきっていて、年頃の男女の間にある、甘酸っぱいそわそわとした空気感はなかった。
乃ノの真剣さに反比例するように、竜也は気負うことなく、姿勢も正さぬまま聞く。
「その話をするために俺を家に呼んだのか?」
竜也の言葉に、乃ノは目を真っ直ぐ合わせて頷いた。
竜也は視線を天井に向けて、なんとなく記憶を手繰るように話す。
「乃ノって吉田と仲良かったっけ?」
「別に、接点は無いよ」
「ならなんでいじめを止めさせたいんだよ」
何の衒いもなく言う竜也に、乃ノは顔を上げて攻撃的な眼差しを向けた。
「いじめを止めさせるのに理由がいるの? 悪い事だからだよ!」
乃ノと竜也の目が再び合う。乃ノの感情的な瞳に対して、竜也の瞳は相変わらず平然としていた。
乃ノの気持ちに向き合って、竜也は意識だけ、すっかり乃ノに向ける。
「情操教育をちゃんと受けた優等生らしい発言だが、悪い事だからやめさせなければいけないっていうのは違うぞ?」
竜也の言葉に、乃ノは疑問半分、面倒臭さ半分で眉間に皺を寄せる。
「どういうことよ」
「逆に聞こう。人殺しは悪いことか?」
竜也はあっさりと口にし辛い言葉をだした。いきなりの重く雑な質問に、乃ノは一瞬たじろぐ。でも、答え自体に迷うことはない。すぐに答えた。
「悪い事よ。決まっているでしょう?」
「地球の裏側では貧困によって死ぬ人間がごまんといる。俺たちは募金でそれらの人を幾分助けられるが助けない。これは?」
竜也は乃ノの答えが分かっていたかのように、間髪入れずに質問した。乃ノはその質問の解答に窮する。
「……悪く……ないと思う」
考えてではなく、感覚で答えた。募金をする人はほとんどいない。これを悪だとすれば、ほとんどの人間は悪になってしまう。
竜也は今一度乃ノの顔を見て質問する。
「人が死ぬという結果は変わらない。なぜそこに差異を付ける?」
「それは…………悪意があるかどうか、とかじゃないの……?」
自信が無くて、疑問形になってしまう。だが、人殺しが悪でないわけがない。社会常識がそうなのだから、きっと誰かは竜也に正しい答えを返せるはずだ。乃ノが答えられないことで人殺しをしていいという結論にさせる訳にはいかない。
「ドライブしていました。うっかり子供を引き殺しました。悪気はなかったんです。これは?」
「…………」
竜也の言葉に、乃ノは自分の知識での反論は諦めた。竜也は論破されてなお、頑なに認めない意志を見せる乃ノに自論を話す。
「悪っていうのは絶対的な概念じゃない。悪い事っていう不確かな理由でやってはならないなんて言えないんだよ」
「私、よく分からない。でもそんなので、いじめを止めさせない理由にしたくない」
「ならもっと踏み込んで話そう。今の質問は常識の否定だけで俺の考える世界観については触れてないからな」
そう言うと、竜也は体を起こして胡坐をかき、乃ノに向かい合って座った。劣勢な乃ノは意地を張り続けるが、竜也に向かい合われて、僅かな緊張を顔に浮かべた。
「さっきお前にした質問と解答。人殺しは悪で人を救わないことは悪ではない。これは大体の人間が肯定することだと思う。ならその二つの違いは何か――
死という結果が変わらない。となれば、善悪を決める理由があるのはその過程ってことになる。二つの例から考えられる過程の違いはなんだと思う?」
「……分からない」
「俺の答えは自分に危害が加わる可能性があるかどうかだ」
竜也が簡潔に語る毒々しい言葉に、乃ノは目を剥いて閉口した。
「人は社会を形成して生きる。それは生存本能が選んだ戦略だ。人と繋がることが人の強さ。ならそれを阻害するものは邪魔だろ? つまり、善悪というのは自分を生かす社会にとっての都合で決まるってことだ」
論理が乃ノの手の届かない所に入る。ここで何かしら否定しないといけないと思いながら、その言葉が出ない。突っ込みあぐねる乃ノの様子を尻目に、竜也は続ける。
「社会の区切りも色々ある。世界、日本、地方、県、市、学校、クラス、友達、家族、自分。その他無限大に。色々な区切り方があって同時にその区切った社会の個人的な重要性によって行動も色々変わってくる」
竜也が優しく諭すような瞳で乃ノを見る。
「全ての人が同じ考えで同じ区切り方をする訳ないだろ? もしこの区切り方で『友達』を重要視するなら、いじめが起こることだって割と自然なことじゃないか?」
優しい瞳で、竜也はいじめを容認した。その姿に、乃ノは微量の気持ち悪さと寒気を覚えた。
「あなた、本気で言ってるの?」
論理的なところではなく、その精神性を否定する。培ってきた倫理観が警鐘を鳴らし、口を突いて出た言葉だった。
「本気だよ。俺からしたらお前の方こそずいぶん偉そうに見えるぞ?」
「……どうしてよ」
「生きている年数が同じなのにも関わらず、人の生き方を間違っていると否定するんだろ? よりメジャーな社会に則って」
「っ!」
乃ノは思わず息を呑んだ。竜也の口調に責めの色はない。純粋に強力な言質が胸を突く。
「善や悪なんて本質的には存在しない。ただ、皆がよりよく生きようとあがいているだけだ。むしろその手段の一つに善悪の規定はある。いじめに関してもそうだ。いじめによって上下関係が作れるなら、自己の生活が円滑に進む。承認欲求だって満たせる。より大きな社会において悪と思われる自覚があれば、逆に仲間の結束感だって高まるだろう。実際に国に奉仕し、恩恵を受け取る立場になれば、自己の社会のウェイトも国に寄って行くだろうが、今はまだ子供。社会の重要度は圧倒的に校内で形成される方に向かうさ。だからいじめを止める理由にはならないと言っている。いじめを止めようと動くことは、それもまたいじめる心と等しく、自己都合だ」
竜也の淡々とした口調と内容に、乃ノにやるせなさと怒りがこみ上げた。
「いじめを止めるのもいじめをすることも、等価だって言うの?」
「そうだ」
悲壮感のある乃ノの問いにも、竜也はキッパリと肯定した。
「人間が生まれて何十万年だ。『いじめ』という言葉で括られるほど普及した観念なら人間の生存のために備わる機能の発露であると考えるのが妥当だし、社会を形成する上での問題なら、サルの時代から何千万年と過ぎる時の中で失われるはずだろ?」
乃ノは言葉を詰まらせた。竜也の言っていることは分かる。でも、感覚的に分からない。理由はなくとも頭が受け入れていなかった。
「何かへの否定は行為として正しいが主張としては間違っている。主張として正しいものがあるとすれば『全てが正しい』だ。それが答えだよ」
竜也の答えに、乃ノは顔を伏せて震えた。自分を規定する地盤の崩壊に混乱する。竜也は乃ノの状態を見取って、別方向からの理解を促すことにする。
「もしそれでも正しさを持っていじめを止めさせたいというのなら、方法が無いわけでもない」
「……何?」
反応を示した乃ノに、竜也は僅かに安堵した様子で答える。
「イエスの提唱する生き方をなぞればいい」
「……キリスト教?」
「そうだ」
竜也は肯定して続ける。
「彼の唱える生き方は最強だ。動物っていうのは生きるために欲がある。欲を満たせば生きて行ける。だが彼の提唱する生き方は、生きるために欲ではなく愛で生きろというんだ」
乃ノが再び顔を顰める。竜也は気付かないふりをして続けた。
「いじめはなぜ起きるかといえば社会が欲によって推進していくものになっているからだ。よりよく生きようと皆が欲を出すから、弱肉強食の世界になる。対して、イエスが最も重要な掟として語ったものに次のような言葉がある。
『隣人を自分のように愛しなさい』だ。
どう思う。もし自分が自分を愛するように、無償の愛を皆に注げるのなら、世界は完璧な生存を成せると思わないか?
そこに争いはない。上下関係もない。優劣もない。親子関係のような、安心と承認だけの世界だ。
だけど、気付いたか? その世界は一般的な優しい世界。楽しい世界とは隔絶している。なぜならば、動物は欲を満たして喜びを得るものなのに、この生き方は『最も盤石な生き方は愛によってなるのだから動物的な喜びなど感じなくていい。捨ててしまえ』と言っているからだ。
生きるために欲があり、喜びを感じられるが、突き詰めて考えてみると実は欲に従って生きるよりそれを取り払って愛で生きた方が完成度は高くなるって話だ。
これに従うとどうなるかというとまず従来の親子関係は消失する。血縁関係の優遇を切る。同時に最初の問答でした募金で生きながらえる人たちを我が子同然に扱う。優劣もないな。となれば当然勝負事の意味もなくなる。勝っても負けても嬉しくも悲しくもない。学力による評価もない。ただできるかどうかだ。評価される理由は人の役に立ち、他人の欲を満たすからだ。欲の意味がないなら才能なんていらない。企業同士の競争もないからサービス残業とかもないな。生きやすくはあるが、欲を捨てるならプライベートの充実なんてないけどな。とまあこんな感じだ」
竜也は一度区切り、一呼吸おいて再び話し始める。
「欲で生きる前提ならいじめは起きても仕方がない。ただ欲を捨て愛で生きるのなら、生を満たす過程がごっそり置き換わる訳だからいじめは無い。輪郭もはっきりしてきただろ。現在の世界の仕組みがいじめを作り、同時に生きる喜びも作っている」
竜也の言葉が一段落し、乃ノは逃げ道を見つけて反論する。
「キリスト教の話は分かったけれど、その世界は作れない。一人が変わったって意味ないでしょ。今それを実践したら、奪われるだけ奪われて終わっちゃう」
その完成された世界は、世界中の皆が生き方を変えなければ作ることはできない。自分が他者に愛を注いでも、相手が同じ気持ちで返してくれなければいいように扱われるだけだ。盤石な生き方とはならない。
「そうだな」
竜也は以外にも乃ノの意見を肯定した。その言葉に、乃ノは免罪符を得たように安心感を得る。
「だがそうじゃない」
竜也の言葉は続いた。
「どういうことよ」
肯定しながら否定する。支離滅裂で、乃ノは
「確かにこの時代にその生き方を選べば生きていくのは難しい。だがその生き方は、同時に別の生を励起する。そしてそれが、キリスト教の神髄だと俺は考える」
竜也はそう前置きし、愉しげに答える。
「“天の国”だ」
全く意味は分からないけれど、乃ノは固有名詞が出て来たことに少し安心した。竜也は続ける。
「欲に従って生きた人間は死ぬとどうなると思う? 欲は生を守るものであるため、自身の死をもって全ての意味が無くなる。この世に残した全ての意味が消失する。
欲は個人に働くもの。それを受け取る生きた体なくして価値は当然保たれない。しかし欲を捨て、愛で人と繋がり生きればどうなるか、その人の生は死をもっても終わらない。人々と共に生きることでその者の生は終末まで世界と共にあり続ける。まさに永遠の命を得ることができる。それが、天の国だ。
まあ、これは自己を超越しているから、欲の観点からは価値を図ることができない、論理的世界だがな」
竜也はそこでキリスト教から考える生き方を締めた。口を噤む乃ノに、竜也はもう一度現代社会の生き方に振り返って説く。
「欲を持って生きている限り、そいつらは今を全力で生きているだけだ。文句を言うのは結構だが、間違っていると責めることは本質からは外れているからな」
乃ノはまた少しの間黙っていた。竜也の話は聞いていた。考えてもいた。結果、竜也の話の内容は突飛な印象を受けるけれど、今の乃ノには反論する知識が無い。だから、もう考えるのを止める。思っていることをする。それは竜也の話を真に受けてもやっていいことだ。乃ノは顔を上げて、竜也の目を真っ直ぐに見た。
「分かった。それでいい。私は私の為に、いじめを止めさせたい。それで、力は貸してくれるの?」
乃ノの様子に、竜也は気を良くした様子で笑った。
「ああ。いいよ。できるかは知らんが」
「どうしたらいいと思う?」
乃ノは最初からここから話をしたかったのに、変な遠回りをさせられて疲れてしまった。
「そうだな。まずいじめの魅力について考えるか」
竜也はまた、外で使ったら危ない言葉を使う。しかし言い方が悪いだけで、原因の調査は必要なことだろう。乃ノは否定の言葉を呑みこんで耳を傾けた。
「さっきも適当に答えたけれど、『人より上に立っているという自己肯定感』『皆で悪い事をしているという結束感』『人を自由に使える利便性ってところか?』正攻法で行くならそれらの感情を包括する、もしくは別ベクトルで満足感を与える。あとはいじめなんてやってられない程追い込むとかだろうな……他に何か思いつくか?」
竜也の問いに、乃ノは躊躇いがちに答えた。
「……まだ何も」
自分からいじめをやめさせたいと言っておいて、何も貢献できていないことに歯がゆさを感じた。
「そうか。まあ取りあえずメモして纏めよう」
竜也は乃ノの返答に気を悪くすることなく、代わりに手を出して紙とペンを催促した。乃ノは立ち上がって勉強机の上からルーズリーフとペンを取って渡す。
「あとはいじめられる原因も整理するべきだな」
竜也は紙を受け取ってそう言うと、さっき言ったことを書き記した。
「俺が思う吉田がいじめられる理由はコミュニケーションの拙さだな。集団で話している時に一人だけ場違いに大きいリアクションとって皆から引かれてたことがある」
「それは分かる。変に意識して話そうとしているのか人と感性がずれているのか分からないけれど、常に温度が違うっていうか……。それでいて吉田さんはそのことに気付いていない様子で話すから、いじめられたんだろうなって。……でも、もし頑張ってコミュニケーションを取ろうとしていたんだとしたら……余計かわいそうだよ」
乃ノは痛ましげに下唇を噛んだ。竜也はその様子を一瞥だけして、話を進める。
「後は容姿がそこそこいいな」
「……へえ」
乃ノが一転、深みのある冷たい声を出した。
「思わないか?」
「いや、思うよ……竜也さ。今回私に協力してくれてるのって、あわよくば吉田さんをって思ってたりする?」
「なんでだよ。思ってねえよ」
ウザ絡みする乃ノに竜也は面倒臭そうに答えた。
「第一、この場合媚びうるなら吉田じゃなくて、協力してやるお前なんじゃねーの」
「……ど、どういう意味よ」
「俺はクラスで普通の地味っ子やってんだ。でもお前のせいで時々浮くんだよ。自覚しろ」
竜也の言葉に、乃ノは顔を赤らめ押し黙った。
「まあでも、愛花は顔も悪くないし、胸もあるし。俺も今日の光景には今夜お世話になるかもしれん…………、ぉぉぉおおお、待て、落ち着け。嘘だ!」
本気の殺意に竜也は慌てて全霊の謝罪をした。
修羅場を治めてから、二人は黙って考え始める。
乃ノは解決策もいじめの理由もなかなか思いつかなくて、一つ、前の竜也の発言で気になったところがあったため聞いてみる。
「ねえ、正攻法って言ったけど他にも方法はあるの?」
今までの話だといじめの起こっている原因を
「あるよ」
「どんな方法?」
「宗教を作る」
再三の竜也の危険な発言に、乃ノは背中をざわつかせた。
「いいよ。そう言うのは。怖いことしないで」
「何も怖いことはない。というか今俺はそっちで考えてる。お前はそっちで考えさせてもダメそうだから言わなかったが」
「人の常識を変えるなんて勝手にしちゃダメだよ!」
乃ノは真剣な顔で言った。竜也は論理で応える。
「最初に言っただろ。この世に絶対的に正しいルールなんてない。言うならば『すべてが正しい』だ。何をやってもダメってことはない。宗教に関してもローカルとメジャーってだけだ。
第一正しさを語るなら、キリスト教というものがありながら欲で築く社会を形成して教育している時点で世界は積極的に間違っているんだ。間違いにいくら間違いを足したって間違いだろ」
竜也の理屈は分かるけれど、どうしようもない言葉の不快感に乃ノは強く反発する。
「正しい正しくないじゃない。自分が他人に操られてるって思ったら、気持ちが悪い!」
「伝わっていないようだから言おう。お前はもう既に操られているぞ?」
竜也の言葉に、乃ノは我知らず前のめりになっていた体を引いた。
「どういうこと? 私に何かしたの?」
これまでの発言で竜也ならやりかねないと、乃ノは気味悪そうに言った。付き合いも長い。あるいは、ずっと前からの可能性もあった。
「俺じゃない。現代社会にだ」
竜也は落ち着かせるような口調で言った。乃ノは胡乱な目を向ける。
「お前の常識、行動規範は全て現代社会の教育を受けて培われたものだ。俺も含め全員、他人に規定されて生きている。宗教もそう。
元日には神社に行って見えもしないのに神様がいると信じて拝むだろ? 宗教の観念が無ければ、『お前何やってんの?』って普通は思う。でも、お前はそれに一切の疑問を持たない。気持ち悪さを感じない。それは社会常識として刷り込まれているからだ。当事者になれば、不和なんてない」
竜也は続ける。
「人間はよく『自分は自分だ』と誤解する。しかしそうじゃない。自分は生活環境の創造物なんだ。なんせ、『自分を自分だ』と語る言語が、既に他者から刷り込まれたものなんだからな」
乃ノは言葉を詰まらせた。竜也にこの手の話をされたら、論争なんてできない。でも、だからこそ期待もできる。乃ノは逡巡したのち、口を開いた。
「……分かった。でも内容次第よ。皆が社会に順応できなくなるようなことは、嫌だからね」
不安に思いながらも受け入れる乃ノに、竜也は緊張を解かせるように笑顔を向けた。
「そこらへんは安心していいぞ。宗教について本質を語るために言ったが、特に大がかりなことをする気はない。言うなれば、学校で腹がすいたら昼飯を食うのではなく昼休みになったら昼食を食う。みたいな、そういう社会生活のために個を縛り、足並みを揃えさせるルール作りをクラス内でも行おうって考えだ」
「なら、良いけど。……別に神様とかを作って拝むって訳ではないのよね?」
「それはまあ、しないかな。現代人に神なんて言葉は刺さり辛いだろうし。でも神に類する何かは作るかもしれない。……おいおい睨むな」
睨みを利かせる乃ノに竜也は一つ咳払いをして続けた。
「キリスト教でも神を語るが、俺はその発言は言葉通り受け取るべきかは微妙だと思っている。
この世界がどうできたか。という生成論への解答は未だにない。だから世界が生まれた原因があるはずで、それが神だという主張はまあいい。だがおそらく皆が思い、記述にもあるような人に似た姿という点は信じるべきでないと思う。
確かに人が物づくりを行えるように、その姿を投影して世界を創った神も人に近い見た目をしているのだろうという想像は的外れではないと思う。だが現代人も良くやるように、権威あるものを人型にしたり身近な存在として設定を書き加えて娯楽に落とし込んだりするような、そういう人の性質が神を人型にした可能性の方が高いと俺は思う。
というか、後者から発生して知識ある前者も肯定したという所が長く語り継がれる理由ではないかとも思うな。
まあいい。それで、なぜイエスが神を声高に叫んだかといえば、人を従わせるためだと俺は考える。
人は皆懸命に生きているだけ。正しさなどないのであれば、どうして人が作ったルールで人を裁くことができるだろうか。ということだ。
全てが正しいのであれば、人が人を裁く理由が無い。単純に勝ったものが正義となってしまう。だから、イエスは神を利用した。人より高いものが基準となるならば人を裁くことができるから。
そして人々に信じられるためには論理的でなければならないが、イエスは唯一、正しいと言える教えを布教できた。だから信仰にも値した。
論理性はどうあれ他の宗教もそういう一面があると思う。
賢者は公平な世界の為に理を突き詰めて神に着せ、国はそれを掲げて統制を図ったってな。
だから俺たちがいじめを止めさせようと考える場合にも、人を従わせる以上、対等な立場である地味っ子の俺の発案としてルールを定めるのは弱い。だから教員なり学校なり、なにかしら社会的に上位の存在を使う必要はあるだろうなと思っている訳だ」
竜也の言葉に、乃ノも渋々ながら納得する。
「だったら、いいわ」
「そうか。うん。……一つ出来たかもしれん。プラン」
「……ほんと? 聞かせて」
「まあ待て。整理するから」
期待と不安の入り混じる乃ノを制し、竜也はルーズリーフにペンを走らせ始めた。数分立って、竜也は満足気に顔を上げる。
「よし。悪くないと思う。ちょっと見てくれ」
竜也はそう言って、ルーズリーフを乃ノに向けて置いた。乃ノはそれに少し緊張した面持ちで目を落とす。何か不味そうなことが書いてあれば止めなければならない。竜也は書いた内容に指を差して解説を始めた。
「まずコンセプトは『新しい社会の構築によりいじめる気を無くさせる』だ。
具体的には一対一でのコミュニケーションを強制することで二人の社会を構築する。
いじめっていうのは一対一だと起こらないだろ? 常にコミュニティと個人。もしくはコミュニティ同士で行われるものだ。それは自分のコミュニティに益成すことだから行われる。それなら、いじめる側の個人といじめられる側の個人、二人のコミュニティを作らせればどうなるか。いじめる理由がなくなってくる」
自分の考えに自信をもってすらすら言う竜也に、乃ノは懐疑的な視線を送った。
「本当に、そんなんでいじめが無くなるの?」
今までの話を前提とすれば矛盾はないけれど、今までの話は机上の空論として乃ノの中に入っていた。実践に足る論理なのかは疑わしく思う。
「知らん」
竜也は乃ノの言葉に歯切れよく即答する。
「知らんって」
乃ノが頼りなさ気な瞳で漏らした。竜也は続ける。
「だがやってみる価値はある。どうせやらなきゃ変わらないんだ。懐疑的な目であれもダメこれもダメって言って手をこまねいていたのでは結局何もできないまま終わるぞ。それに、この方法はかなり自信がある。これを聞いてダメだと思うなら他の奴へ相談に行け」
今度は誰にでも響く真っ当な正論で、乃ノは悔しく思い、同時に反省した。
「……分かった。続けて」
「うん。いじめる奴といじめられる奴を一緒にしてコミュニティの形成ができるのかって疑問に思うだろうが、人っていうのは嫌いな奴でも同じ時間を共有していると好きになってくるんだ。あと、いじめる相手のことを深く知っていくことになれば共感が生まれて同族意識が高まる。
例えば昔の映画でもあったがある警察官が妻を殺した。これだけの情報で見れば悪人だが妻を殺した理由が我が子を事故で失った妻が夫に殺してくれと頼みこんだという経緯があった。それを聞くと、その妻を殺した警察官にも最初とは異なる印象を抱くだろ? 自分と同じ人間らしい感情を備えていたんだと思うと拒絶感が少なくなる。
まあこの場合、最初に明かした悪は自分にとって都合の悪いものって考えに当てはめて、ごく限定的な条件でもってその人は人殺しをするに至ったんだと知ったからというのもあるはずだが。まあ、それを差し引いても、人なんてそれぞれ違うと思っていても同じ生き物だから共通項は多いし、共通項から勝手に仲が良くなったりする」
「分かるような、分からないような。……そして、具体的には何をするの?」
「自己紹介だ」
得意げに語る竜也に、乃ノは訝しげな瞳を向けた。
「今更?」
「今だからだよ。自己紹介って言っても入学後にやるような簡単なものじゃない。ほら、この前小論文書かせられただろ? 進学や就職に向けた授業が行われている。自己紹介は進学や就職の面接の対策って体で行えるんだ」
「ああ。なるほど」
「具体的にはホームルームあたりで時間を作って『自己PR力や自己分析を行うための活動』と称して一対一の面接形式の自己紹介を行う。この時自分をより深く知るためという名目でいつもの友達だけではなく接点のない人とも組めるようにルールで決められた相手と行うようにする。こうして行う意義を明確に提示しとけば皆が乗っかりやすいしあえて反抗すれば浮いてしまうような状況も作れるかもしれない」
「確かに……いいアイディアかも」
乃ノは現実性を帯びてきた話に高揚感を覚えた。竜也が詳細についての項目に指を動かし語り出す。
「実行するにあたってはちゃんと吉田といじめている奴の間で社会を築かせることができるような細かいルール設定を決めなければならない。そこで今、俺が考えているのが次に書いたやつだ。
まず一つ目。期間。これが一番のポイントになるが社会を築かせるレベルでやるから一週間ぐらいがいいと思う。
一週間と設定すればどんなに嫌な相手とでもボイコットして話さないっていうのはやり辛くなる。特に周囲の人間は普通にやるだろうから集団の中で浮いている自覚が芽生えてやらない選択にストレスをかけさせることができる。
二つ目はやる時間。これは朝のホームルームがいいと思う。
毎日やるから朝か夕方のホームルームが自然な時間の作り方になるが夕方だと部活動や帰宅の時間に関わるから苛立っておざなりにしたがる生徒が湧くと考えられる。あくまで他の社会生活を侵犯しないっていうのが結構重要だ。
そして、朝にやる場合のメリットもある。それはその日一日の友人同士結びつきが最も弱い時間に行えるってことだ。友達を含めた自分のコミュニティがいじめの意思を作っているからそれが薄いタイミングで一対一の関係を作っていくことは地味に効果的なはずだ。
次、三つ目。一週間の最後、総評として相手の良い所を三つ、悪い所を一つ書かせる。
関係構築がうまくいっていれば相手のいいところを考えることにも抵抗感は無くなるし、以後いじめの雰囲気が現れても最後自分が見つけた相手のいいところが足かせになって再発にも至りにくくなる。
悪い所を少なくしたのは限られた時間の中で考える時にまず相手のいいところから探させようという理由といじめていい理由をあまり作らせないため。
悪い所をそれでも一つ入れるのはお題目を果たすためにはトライアンドエラーが普通だし相手の悪い所を言えた方が気持ちも良いし相手の人間に対する造形を強く認識できる。
次、四つ目。話題は先生が決める。これによって話題が無いというような中だるみを避けて皆のモチベーションを維持させる。
加えて、これは後で検討しなければならないが、いじめをする方、される方、双方に共通項を見出せそうな話題をあてがうことで同族意識を意図的に深めることができる。
そして最後、五つ目。一番最初のマッチング相手は皆が受け入れやすいように生徒に任せる。これで容量を掴んでもらって行事に意味を見出し、自発的にやってもらえるようになれば理想だ。そして、吉田の一組目の相手はお前がやる」
「え? どうして?」
唐突に役割を振られた乃ノは驚いた様子で問い返した。
「吉田は現状クラスでいじめられっ子ポジションだ。吉田と組む相手は仲がよさそうにしたら自分もとばっちりを食うんじゃないかと心配して消極的に接する可能性が高い。おそらく、自由意思に任せたら吉田と組むのはクラスで友達のいない一輝あたりになるだろうからな。欠員がでれば先生になるかもしれんが、先生と一緒にやっている姿をクラスの皆に見せるのも良くない。加えて吉田自身にも成功体験をさせて自信を持ってもらうことが望ましい。自信を無くしている彼女にあくまで就活に際する学校行事の一環として向き合ってもらえればその後、いじめっ子との対面も成功する確率が上がる。そして、その調整をできるのがこの計画の真意を知る俺かお前、そして、この行事での吉田への扱いを良くするためにはいじめっこ集団にも一目置かれているお前がちゃんと接している姿をクラスの皆に見せることが望ましい」
竜也の話を聞いて、乃ノもその指名に納得できた。しかし、そうすると一つ、問題が出てくる。
「うん。確かに……でも、自由に組んでって言われたら、多分、私はいつもの友達と組む流れになるよ?」
やりやすいように自由に組んでいいと言われているなかで、乃ノが接点のない愛花の元へ組みたいと近づいたら不自然になる。クラスの皆にも、不信感を与えかねなかった。
「そこには俺も考えがある」
竜也は得意げな顔で言った。
「え? どんな?」
「俺とお前は仲がいいだろ?」
「う、うん。……自分で言うの?」
「だからまず、お前が自分の元にやってきた友達に『私、竜也と組みたい!』って言って振る」
「は、はぁ!? 嫌よ!」
乃ノは顔を赤くして叫んだ。
「まあ、最後まで聞け。そして、お前が俺の元に来る。だが俺は『ああ、ごめん。友達と組むから』と言ってお前を振る。……あ、痛い! やめろぉ!」
殴り掛かる乃ノを何とか抑えて、竜也は続きを話す。
「そ、そしてお前は余った吉田、一輝、もしくはもう一人の中から吉田を相手に選ぶ。どうだ、完璧だろ」
「聞きたくなかった! 出来はいいけど聞きたくなかった!」
「いじめを止めさせたいっていうのはお前が言いだしたことだぞ! 身を削るくらいやってもらおうか!」
「ぐぬぬっ」
乃ノは悔しげな瞳で竜也を睨んだ。瞳を閉じ、呼吸を変えて、目を開く。
「分かったわ。ただし、絶対成功させるわよ……!」
「お、おう」
竜也は乃ノの気迫に息を呑んで答えた。
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