帝国夜話シリーズ

ぺんぎん

「共食」

いかめしい表情を彫りの深い顔にのせ、老教官は慣れた様子でテーブルに着席した。

素早く部下に新しい兵士たちの並び方を指示する。今日は、特別な日であった。

年に4回ある俸給の日、新宮殿(イェニ・サライ)では食事が供される。

長い長いテーブルを取り囲むように男たちがずらりと居並び、それが天幕の張られた庭いっぱいに何十と続く景色は何度見ても迫力のあるものだった。

大皿に盛り付けられた色とりどりの野菜や、香草で蒸し焼きにした鶏肉、濃い目に入れられた茶、これでもかと山盛りにされた皿いっぱいの米飯に、

思わず腹の虫が鳴った、のは隣の若い男だった。


「あら、待ちきれない?もう少しよ、陛下到着の連絡があったから、すぐお見えになるわ」

給仕をしていた女にそう言われ、恥ずかしそうに目を伏せる若者を見て、やれやれと首を振った。

「陛下がお見えになるまで腹の虫は待ってはくれなかったようだな」

やめてくださいよ中佐!と反論する男を無視して、クレイルは前を向いた。


ラザンが誇る皇帝直属の親衛隊、それがクレイル・ホートの属する皇帝親衛歩兵隊である。

帝国をあげて教育を施した少年たちの中でも、最も優秀で選ばれた者しか入隊を許されない部隊。

起源はこの帝国の始まりまで遡る。


異教、異郷。この二つを持つ少年たちを、ラザンの皇帝は徴用した。自らの国を守るために、

隣国から譲り受けた少年たちに教育を施し、屈強な戦士を作り上げた。

元は小さな皇帝の私用部隊であったが、次第にその勢力を拡大し、今日に至っては帝国内の警察権を行使できる立場になっていた。

そんな部隊の一員にクレイルはどういうわけか数十年前徴用され、いまも目の前の食事にありつこうとしている。

年に4回ある俸給の日には、皇帝直々の命令で親衛隊は集められ直接に褒美を賜る。その際には豪勢な食事が振舞われるのが一般的であった。

クレイルのすぐ右隣に座る親子ほど年の離れた男もまた、立ち上る香ばしい匂いに垂涎の体で目を輝かせていた。しかしながら、皇帝が現れるまでは料理に手をつけることは許されない。

皇帝親衛歩兵隊、いわば皇帝にもっとも近しい部隊は、その構成員の出自ゆえに格別の待遇を与えられている。

その最たるものが、この皇帝との共食であった。


「総員、静まれ!皇帝陛下の御成りである!」


野太い声が空気を貫いた。瞬時に腰からぴんと糸が張ったように背筋が伸びる。

現ラザン皇帝、ヴァールハイト帝の登場に、宮殿の庭はぴしゃりと水を打ったように波紋状に静まっていった。

隣の若者は、初めて感じる空気に息を呑み、全身で庭を支配する冷たい空気を感じているようだった。


「あれが、ヴァールハイト帝……」


皇帝は、クレイルの一つ年下の男であった。

初めて目にするものなら、それはもう震えるような恐怖を覚えるだろう。

くぼんだ眼窩に爛々と野性じみた輝きを灯し、それでいて何にも興味などないと突き放したような表情。

豪奢な毛織の長衣を纏い、出で立ちは荘厳そのものであるのに、冷たい、どこまでも温かみのない姿が目に焼き付く。

老齢が彼の迫力を重苦しいものにしていた。老いた皇帝は、ゆったりと一段高いところに備え付けられた腰掛けに落ち着く。

何度見ても慣れぬ自らの主に、集った兵士たちは屈強な体を折り曲げて最高敬礼を取った。


異常な光景だった。同じ色の軍服をきた男たちが、一斉に一人に向かって頭を下げる。

波打つように次々に兵士たちは敬礼を取る。次々に向けられる礼が大きな一波となり、その波が皇帝の下まで押し寄せたとき、初めて彼は満足そうに頷いた。

幾度も繰り返される光景に、クレイルはいつもと変わらないものを感じてそれに習おうとした。

今日は彼の退官の日であった。



それが正しいのだと分かってはいるが、どうしてもクレイルには違和感があった。幼い頃から叩き込まれた皇帝への忠誠も献身も、地位と生活を保証された身で

抗うことなどなかったが、それでも、幼い少年たちの顔が故郷への郷愁に揺れるのを、無慈悲に素通りできるわけではなかった。

クレイル中佐―――――その言葉を得るために行った非道。

クレイル中佐―――――その地位を得るために失った慈悲。

現役の士を引退し、今は教官として少年たちを教える身になっていた。

ひとつ。皇帝に絶対忠誠を誓うこと。

ひとつ。己の職務を全うすること。

ひとつ。皇帝に歯向かうものを、許してはならないこと。


少年たちに教え込む親衛隊の規律を、気の遠くなるほど幾度も反復して、クレイルは年をとった。

年を取るたびに新しい兵士は増え、戦場でその数を減らし、また翌年新しく兵士が誕生する。

きりりと引き締められた表情は、紅顔の少年たちを初々しく見せた。己もそのひとりであった。

仲間たちもたくさんいた。

ほとんどが戦場に散っていった。


「クレイル中佐?」


隣の若者が焦ったように裾を引く。今年から新たに兵士となった若者。未来ある、希望に満ちた顔が焦っている。

広い広い庭の中で、クレイル中佐は地面に突き刺さった矢のように直立していた。

若者は慌ててクレイルに呼びかけ、どうか敬礼を取ってください、と懇願する。静まり返った庭の中で、直立不動して動かないクレイルはひどく目立った。

人の頭は全て皇帝の位置より深く下げられ、クレイルは真っ直ぐに皇帝を見据えることができる。

強く体を引かれても、クレイルは依然として前を睨めつけていた。


皇帝。我が君。

あなたは、どうして。


「無礼を承知で申し上げます、皇帝陛下。親愛なる我らの主であらせられるあなたは、どうして、」


異常を察した周りの男達に強く体を押さえ込まれ、クレイルの老体は軋んだ。すり減らした骨がたわむ。あなたのために捧げた体が悲鳴を上げる。

それでもクレイルはたった一つ、聞かなければならないことがあった。


長年皇帝親衛歩兵隊の教官として培った、低く、腹の底に響くような音声がその場にいた全員の耳に入る。

老いた厳しい眼差しの教官の、たったひとつの疑問は経た月日をめぐる矢となって皇帝の耳に届いた。


「どうしてあなたは、私たちと共食されぬのですか。」


共食、つまり共に食事をとること。はるか異国の地では、はるばるやってきた客人のために宴会を開く。そこで食を共にし、語らい、経験の共有をして

歓迎する。外部からやってきたものはその土地の者と共食することで受け入れられ、その一員と認められるのだ。

それはどこの文化でも一緒で、ラザン帝国においても人と親しくなる方法は決まって酒を酌み交わし共に食する事だった。

皇帝親衛歩兵隊の食事は、皇帝から供されるもの、として振舞われる。つまりもてなされているはクレイルたち兵士の方であって、皇帝はその提供者となっている。

それなのに、皇帝は。


「私たちを受け入れてはおられぬのですか。私たちは、身も心もあなたに捧げたラザンの兵士だというのに、あなたは、それを認めては下さらないのですね」


老教官の声はよく響いた。穏やかに軍律や戦法、兵士としての心構えを説いてきたクレイルの語りは、その教えを受けたものならよく耳に馴染んだ。

緩やかな問いは、ずしりと皇帝の心底に届いたようだった。白いものが交じる眉の下、鋭い眼光は野生のように輝く。

自らの側近以外傍に寄せ付けぬ徹底ぶりは、近年目を見張るほどの潔癖となって、兵士に不安をもたらしていた。

皇帝は、あの事件をきっかけに虚ろになった。


我らのことを受け入れられぬようにさえ。

それでも兵士たちは、皇帝に忠誠を尽くし、忠義を尽くし、死力を尽くして戦う。

少なくとも、ここは地獄よりましであったのだから。


「―――――――お前たちに」

低く、嗄れた声。わずかな呪いを含んだ、どんよりとした瞳。

「上に立つ者の心労が、分かれば良いのだがな」

到底わからないだろう。皇帝は、侮蔑の色を隠すことはなかった。

「はい、陛下。その通りにございます」

最高敬礼を取ってクレイルはその場にひれ伏した。その心情は私にはわからない。

一介の老教官の言葉など、神に等しい皇帝に届くはずもないのだ。

敬礼を解いたあと、クレイルは立ち上がり、くるりと背を向けた。

皇帝に自ら背を向けることは、不敬罪にあたる。

覚悟したクレイルの目は閉じられ、今ここで殺されても構わないというように堂々と歩き出した。

ひとつ手を動かすだけでクレイルを葬ることのできる皇帝は、その様をじっと興味深く見守っていた。

あのような人生もあったのだろうか。

皇帝は、クレイルが会場を出て行くその瞬間まで目を離さず、焼き付けるように見つめていた。

そして一歩、会場から出た瞬間、

「殺せ」

と命を下した。

自分の手の元に戻ってこない駒はいらない。理解のできぬ駒は必要ない。


今日も皇帝は兵士たちと共食をしない。

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帝国夜話シリーズ ぺんぎん @hoshimitsukasa

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