祈り

「――――――そこからのことは覚えていません。けれど確かに手に残っている感触・・・・・・あれは。あれは、どう洗っても落ない染みのように何度も何度も、何度も。甦ります。生々しく、鮮やかにこの手に広がっていくのです。気が付けば、部屋の中は血だらけでした。そのとき僕はほとんど剣の稽古も運動もしていませんでした。どこにそんな力があったのか、わかりませんが、彼は。彼は血の海の中に倒れていました。僕の片目も今のように潰れていました。僕の中に猛烈な、激しい怒りのような、抑え難い嵐が吹き荒れていたんです。アランは恍惚とした顔をして僕の行為を見ていたんだと思います。結局彼の母親と同じ結末を辿りました。死ぬことはできませんでしたが。そしてやはり、気が付くとアランも血の海の一部となっていました。気を失って倒れたところを使用人たちに介抱され、そして、今僕はここに。領主を殺した領主の妻の弟というのは彼らの手に余ったのでしょうね。罪を懺悔しても赦されるなんてことはないでしょう。神様、僕は吐き出したかっただけです。彼らに悪いことをしました。僕は許される限り、ここで祈りを捧げたいと思っています。どうぞ、罰されるまでの間、悔い改めるための時間をください」

群青色の髪、はちみつ色の瞳をした青年は項垂れ、それでも胸に手を当てて神を象った像に祈った。かつて姉が聞いていたように、波の音が聞こえる。寄せては返す波。荒々しい怒りとは程遠い穏やかな自然の中に建てられた教会は罪を悔いる者達のためにあるのだろう。


ふと、神父室からひとりの男が出てきた。懺悔のあまりにも残酷な内容に惹かれ、誘蛾灯に誘われたように。聖職者らしく、教会のシンボルマークが付けられたコートを着込んでいた。その後ろからゆっくりとついてくる男は見たこともないほど妖艶で、しなやかで、蠱惑的な瞳をもった男だった。最初に出てきた男は、自分は聖職者だと言った。神父ではないが、神に仕える存在だと。


「君の時間が許す限りここで祈っていくといい。私たちの神はそれを赦してくださるだろう。いかなる罪も、贖う心を持つこと。それが大切だよ。たとえ誰であっても、人でなくても」


青年の片目は潰れていた。反対側の美しいはちみつ色は、男を映した。片目は完全に見えていなかった。しかし、その瞳は原型をとどめ―――むしろそれが彼の本当の瞳だったかもしれない。魔物に侵された、煌々と燃えるような赤い瞳があった。


「君の祈りは、誰の為のものなのか?」


青年は考え込んだ。彼らのため?違う。姉さんのため?いや、違う。じゃあ、誰のために?

かわいそうな青年は、ひとり、悔恨の想いを抱きながら祈りを捧げた。誰の為のものなのかも分からないまま一心に神に救いを求めた。本当は救って欲しかった。姉さんがいうように許して欲しかった。


ちゃんと謝れば、神様だって許してくれるわ。私、神様が許してくださるのなら、許してあげる。


姉の言葉がよぎる。

あれは罪のない少年だったのだ。愛を求めた果てに何があるのか知らない、無垢な少年だっただけなのだ。

男は少年の肩に手を置き、そして出て行った。美しい男も出て行った。


少年の頭に名前が浮かんだ。

 

 セシル。


僕はセシルのために祈っている。

記憶の中のセシルは微笑んでいるような気がした。 


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誰の為の祈り ぺんぎん @hoshimitsukasa

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