肩を落として部屋に戻ると、アランはいなくなっていて、フランがお茶の用意をしていた。

「セシル様、先ほど執事長がお見えになって、その・・・。視察には私たちだけ連れて行くと。申し訳ありません、セシル様もご一緒にと頼んでみたのですが、旦那様がお許しになられなかったとおっしゃって」

申し訳なさそうに言うと、フランは視線を下げた。

「なぜかアランがどこかへ行ってしまったので、何かご希望のものがあればお聞き致します。本を扱う商人もいるでしょうから、本を沢山買ってきます。どうか、落ち込まないでください」

フランの肩に手を置く。僕のために提案してくれたことだけど、自分たちだけが行く事になってやっぱり気まずいと思っているフラン。僕のことを考えてくれるだけで十分だ。

「仕方ないことだよ。こう望んだのは自分だからね。本、お願いできるかな」

言うと、フランは、はい、と答えて、またお茶の用意に戻った。


しばらくするとアランが戻ってきて、代わりにフランが執事長に呼ばれていった。クロード様が出立の準備をしていると言っていたから、もうアランも用意し始めなければいけないだろう。そう思って、もうお茶は飲んだし、あとは館にいるほかの人にやってもらうよ、と言った。アランは顔を上げて、微笑んだ。

「私は行きません。先ほど、旦那様にお断り申し上げてきました。ジゼル様が館に一人で残られるのは心寂しいでしょうから、とお伝えすると、快諾してくださいました。ですから今日は私が一日お世話させていただきます。」

くす、と笑みを漏らす。無邪気に笑った顔がどこか懐かしいような気がした。なんだったか思い出せなくて、頭を悩ませながらアランを見ていると、またにっこり笑った。おかしくなって、僕も笑い出すと、まあいいか、という気になってくる。いつまでこれが続くのかはわからないけど、今はセシルとして笑っていてもいいような気がした。

部屋の外ではばたばたと誰かが駆けていく音がする。慌ただしい準備が終わって、いよいよ出発となると館の人は総出で見送る。主人の出発だから当然と言ったらそれまでだけど、以前見送られる側だったときは気恥ずかしくて慣れないことだったのは覚えている。そのときはまだ姉さんが生きていて、クロード様と狩りに出かけた時だった。もうずいぶん前のことに感じるけど、ここ最近の記憶も何をしていたかも曖昧で、ただ季節が過ぎていくのを黙って眺めているようだ。せまい行動範囲の中ではこれといった変わりもない。フランやアランと交わす言葉ももっぱら天気のことや庭に遊びに来る動物のことだけ。ときどき剣の感触が懐かしくなって触れてみることがある。クロード様に見つかれば危険だと取り上げられてしまうだろうから部屋のベッドの下にしまいこんだままだけど。

「もう出られるようです。外に出ましょう」

扉を開けてアランが言った。うん、と立ち上がって、玄関に向かって歩き出す。

先を立って歩くとき、いつもアランは後ろに下がってついてくる。後ろに付いてくる影を確認しながらちょっといそいで玄関まで歩くと、厩から馬が引かれて出てきているところだった。今日は天気がいいから、クロード様は馬に乗って行くらしい。後から馬車が引かれてきて、そこにはフランと数名の従者が乗り込んだ。馬に乗りかけて、クロード様は僕たちをみて目を眇めた。

「私が帰るまで大人しく待っているんだよ。日が暮れる頃には帰るから。アラン、彼女のことを頼む。」

「はい、承りました」

短く言葉を交わすと、クロード様はさっと馬に乗った。

「じゃあ、行ってくるよ」そう言って、馬首をかえし、山のふもとへ下る道へとゆっくり進みだした。僕たちは、一行が森の中へ差し掛かって見えなくなるまで見ていた。完全に姿が見えなくなると、戻りましょうか、とアランが言った。


一日一人になって、まあ毎日暇だけど、図書室にはまだ読めていない本もある。今日は、落ち着いて本でも読んでいよう。そう思って図書室に向かうと、行き道で猫が廊下を歩いているのに出くわした。

「あれ?猫なんて飼ってたっけ」

近づくと、人懐っこそうな丸い瞳が見つめた。綺麗に手入れされているのか、毛並みは日光を浴びてキラキラと輝いている。なでてみると、可愛らしく鳴いた。純白の毛並みと澄んだ青い瞳。その猫は、また一声鳴くと、するっと僕の手を抜けて歩き出す。どこにいくんだろう、と猫の後ろをゆっくり付いていく。尻尾を揺らしながら、館の中を我が物顔で優雅に歩く猫。楽しくなって口元が緩んだ。散歩しているような気分になって、このまま館中見て回ってもいいかも、と思った。まだみ尽くせていない館の部屋や、真後ろに広がる広大な森、使用人たちに与えられた西館、馬の他にも広い庭で買われている鶏や羊、歴代当主の遺品や集められた宝を保管している宝物庫。怪しげな本が積まれた部屋も見たことがある。猫の気の向くまま、そういう場所で時間を潰すのも悪くない。しばらくいくと、白猫は足を止めた。そしてその扉を見上げて鳴くと、僕の足元にすりよってきた。開けて、と言われているような気がして、扉を開ける。白猫はさっさと中に入ってしまった。僕も中に入ると、そこは質素な部屋だった。ここは西館だから、おそらく使っていない使用人の部屋だろう。だけど使われていないのに、埃も汚れもあまりなくて誰かが綺麗に掃除しているようだった。白いベッドの上に白猫はちょこんと座り、毛づくろいを始めた。僕が猫の隣に座っても、猫は別に気にした様子もなくそのままくつろいでいる。窓から差し込む日差しがぽかぽかと背中に当たって、だんだんと眠くなってきた。横になると、猫が体を摺り寄せてくる。その体が暖かくて、僕は襲ってくる眠気に耐え切らず、目を閉じた。


それは姉さんだった。僕を胸に抱き、優しく天使のように微笑む穏やかな瞳。二人は全くそっくりで、同じ群青の髪、同じはちみつ色の瞳、同じような顔だった。やがて姉さんは眠っている僕に向かって話しかける。小さな僕の背中に手を置いた。

「起きて、セシル。今日は教会へ行く日でしょう。さあ、目を覚まして」


夢は切り替わり、ダリの街を映し出す。街の教会の礼拝堂で、姉さんは一心に祈りを捧げている。ふと、こちらを見て姉さんは頭に手を置く。そうして、僕を撫でる。

「セシルも神様にお祈りするのよ。私はちゃんとセシルが元気でいますようにっていつも願ってるわ。こんな山の中にある街の教会からでも神様は聞いてくださるわ。でもね、私は昔住んでいた街の教会が大好きだったの。もちろんこの教会も素晴らしいけれど、海の近くに立つ教会は波の音が聞こえるの。お祈りしている間じゅう、ずっと。白い壁と青い海がこれ以上なく綺麗なの。寄せたり引いたりする波の音は絶え間なく聞こえるわ。そうすると、私の心から何かがすうっと引き波に持って行かれちゃうみたいにして、不安なことがなくなる気がしたのよ。神様はきっと波と一緒に悩みや迷いを持って行ってくれるわ。一生懸命お祈りすればね」

僕は黙って聞いていた。姉さんは続けた。

「だからセシルもちゃんと神様にお祈りできるわね?きっと神様はいらっしゃるから、きちんと祈ればどんなことだってお許しになるわ。たとえば、昨日セシルがこっそり夜中にクッキーをひとかけら食べちゃったこともね」

「!」知っていたの、と声にならない驚きが顔に出る。

「いけない子ね。でも、もう黙って食べたりしないでしょう、なら神様にごめんなさいって言うのよ。私、神様が許してくださるのなら、許してあげる。私だって食べたかったんだから、ね。」

はい、と答えて目をつむり、胸元に手をやる。

神様、勝手にクッキー食べてごめんなさい。

「いいわよ、許しましょう。もうしないでね、食べるときは二人で食べるの」

姉さんはからからと愉快そうに笑った。僕も笑った。なんてことのない、平和な日常だった。



「セシル様、セシル様」

揺り起こされる感覚で目が覚めた。

ぼんやりと霞む視界がだんだん明瞭になって、僕を覗き込むアランの端正な顔が目の前にあった。

わ、と身を引くと、すみませんと悪びれた様子もなく体を起こしたアランは、僕の傍らに眠る猫を見て、

「この猫・・・」と言った。丸まって寝ている猫は寝心地が良さそうに、目をつむっている。

「館のなかにいたんだ。面白そうだからついて行って、散歩がてら歩いていたら眠ってしまって」

アランはおもむろに猫を抱き上げると、腕の中にすっぽり囲い込み、それから僕に向かって微笑みかけた。

「この猫、裏庭によく遊びに来る猫です。可愛らしくてつい餌をあげてしまって、それから懐いたんです」

アランはにこにこしながら猫を撫でた。部屋には既に西日が差し込み、簡素なベッドも取り付けられた照明も何もかも暖かな色に染められていた。アランは猫を下ろすと、僕のほうを見た。

「お話があります。今日残ったのはそのためでした。よろしければ、聞いていただけますか?」

穏やかに笑うアランの顔を見れば、断る理由もなかった。


白猫を自室に連れてくると、アランは部屋の扉を閉めた。そうして、ガチャリと錠をかけると僕を椅子に座らせた。終始穏やかな様子で僕を連れ戻していたアランだったが、僕が椅子に座り、正面を向くと、す、と真剣な顔で僕を見つめた。

「・・・・・・それでは、私事になるのですがお伝えしなければいけないと思いましたので。まず、これは私のごく個人的な体験であってセシル様の行為を否定するわけではない、と最初に申し上げておきます。少々長くなりますが、お伝えしたいことは二つございます、一つ目はごく個人的な話。二つ目は旦那様のお話です。

ではまず、一つ目から。


私は北の地方の生まれです。父親は辺鄙な土地の地主だったのですが、一人の美しい女性を妻にもらい受けました。落ちぶれてしまった貴族の出身でしたが、いつでも笑みを絶やさない気品のある人だったそうです。ミーシャという名のその人は、父との間にひとり子をもうけました。父は大変喜び、一層彼女を大切に大切に、箱の中に閉じ込めておくような勢いで愛していました。まもなく子供を産み落として、その人は重い病にかかりあっけなく死んでしまいました。父は彼女を深く、深く愛していましたから、いっときは仕事もままならず、食事も喉を通りませんでした。その悲しみはかなりのもので、しばらくは本当に屍が歩いているようだったそうです。私の母は父の屋敷に仕える使用人だったので、献身的に父を支えました。というのも、妻をもらい受ける前から父のことを密かに慕っていたからです。屋敷にいるほかの使用人から見れば、少しミーシャと似ていたそうです。髪の色が同じだったとか。それで、母はミーシャになれば父が喜ぶと考えて、彼女のふるまいを真似しだしたのです。お分かりになるでしょうが、所詮は使用人程度の気品などないも同然です、まして故人を装うような振る舞いなど許されたことではなかったのです。母はその点で愚かだったのでしょう。父が母に興味を示してしまったのが悲劇でした。母は父に本気で愛されていると思いました。父もミーシャの面影の見える母をそばに置くことで安らぎを得ようとしました。母はミーシャの遺児を可愛がり、育て、父を支えました。自分がミーシャに見えるように、服の好みも、言葉遣いも、使用人のものではなく彼女のように振る舞いました。そうすればそうするほど、弱りきった父の精神がみるみる回復するのですから。母は父を愛していました。それこそ父がミーシャに向けたように、悲惨で卑屈なほどに愛していました。母はミーシャになりたかったんです。僕など目に入らぬ程に愛していたんです。ほとんど病的なまでに母はミーシャになっていました。僕など生んだことを忘れたいかのように。僕は母の私生児です。行きずりの旅人との子供だったと聞きました。僕はその時8つか9つでした。屋敷の仕事の手伝いをしていましたからほかの使用人たちが面倒を見てくれていました。父は、しばらくも経たないうちに母と結婚しました。父と呼んでいますが、実際のところ血はつながっていません、ですが他に父と呼べる人もいなかったのです。母は幸せそうでした。父もミーシャのまがい物を手にして満足したようでした。しかしそれは一時の感情に過ぎなかったのでしょう。母は有頂天になって、舞い上がり、今まで以上に父に尽くしました。

ある日の夜でした。その日は遅くまで仕事が残っていました。僕はいつもより多い仕事の量に辟易しながら黙っ

てこなしていました。ちょうど父と母の部屋の真下の部屋だったので、そのとき階上から響いたどすん、という物音にすぐ気がつきました。僕は手を止めて部屋を出て階段を上りました。部屋の前まで来ると扉は開け放たれていました。恐る恐る中を覗き込むと、うずくまって泣いている母がいました。そしてその向こうに、割れた花瓶が散らばっていました。部屋の明かりは消えていて、闇の中で窓の向こうから差し込む月光を頼りに僕は母に近づこうとました。カツンと足元で何かを蹴った気がして見てみると、それは大層綺麗なペンダントでした。僕はそれを拾い上げてつぶさに検分しました。きっとこれは高価なものだ。だって純銀でできている。父か母の持ち物でしょう。母に訪ねてみようとそばへ行くと、母は一点を見つめながら言います。

「だって、私は悪くないわ、私は・・・・・・」

覗き込むと、ほの暗い光が目に宿っていました。僕は母の目線の先を追いました。

その先に広がっていたのは血の海でした。正確には、最初は黒い液体が溜まっているようにしか見えなかったのですが、それが父の体から流れ出ている所を見ると、ああ、血だ、と思ったのです。絨毯の上に生々しく広がっている血液は流れ出たばかりのようでじわじわと床へ染みを作っている最中でした。割れた花瓶のいくつかには同じように血がついていました。そのうちひときわ大きくて鋭い破片が母の手元に転がっていました。そのとき僕は全てを悟りました。母がしたのだと。僕は母にひしとしがみつきました。うつろに虚空を見つめる母は生気を抜かれたように動きません。母さん、母さん、と呼びかけても返事もありません。僕はどうすることもできずにただ母から離れないようにしました。

「私は」

と母が言いました。僕は黙って母の言葉に耳を傾けました。

「私は悪くないの。この人が、旦那様が、悪いのよ、私がこんなにも想っているのに。まだミーシャのペンダントなんか大事に持っていたの。私には何も下さらなかったのに。私が旦那様とミーシャの子供を育てているのに、ミーシャよりずっと尽くしているのに、あんな女が来る前から旦那様のことを愛していたのに!なのに、どうしてあなたはまだミーシャのことを想うの、どうして月を眺めながら私じゃない名前をつぶやいたりするの。ねえどうして、教えて、どこがいけないのよ、私が、私の方がずっと愛しているのに・・・・・・」

母は僕など目に入らないようでした。父を見つめて無表情に語っているだけでした。僕は、そっとそばから離れました。僕には未だに人が人を愛する理由がわかりません。そこに理由があるのかさえ不確かでふあんていなものだと思っています。

母はおもむろに手元に転がっていた花瓶の破片を手にしました。そうしてうっとりと窓から見える月を見つめました。

「綺麗。」

ひとこと、そう言って。母は自分の首元に破片を勢いよく切りつけました。父の血の量を見ればわかるように、鋭い断面を持った破片は容易く母の首を裂きました。よほど深く刺したのでしょうか、月光の中に首から吹き出た血潮が上がりました。体はばたりと父のそばに倒れ込みました。僕は少し離れてそれを黙って見ていました。

これは、誰にも話したことはありませんが、僕はそのとき、心の底からその光景を目に焼き付けようとしていたのです。母はミーシャに劣らず美しい人でした。一心に月を見つめながら、愛しい男のそばで死んでいくさまはまるで絵画のようでした。僕は今でもありありとこれを思い出せます。思い出すたびに恍惚とした感情が浮かんでくるような気がしさえするのです。本当に、僕はあの時のことを忘れることはありません。セシル様、どうかこんな僕の話を最後までお聞き願えますか。これには続きがあるのです。


しばらく呆然とその場から動けなくなったのち、僕は人を呼びに下へ降りていきました。それからはただもう慌ただしく、父が殺された、母が犯人で、それはおそらく痴情のもつれというやつでした。僕の話を聞いた大人は色々な話を結びつけ、ひとつのストーリーを作り上げました。父とミーシャが結婚する前から父を愛していた母は二人の結婚でいくらか落ち込み、傷心を癒すために街へ出たことがあったそうです。そこでであった行きずりの旅人は父に似ていたらしく、いえ、その人が本当の父親ですが。僕が生まれてからも母は父への想いを抑えながら二人に仕えて、やがてミーシャが子供を産んで亡くなり、偶然雰囲気の似ていた母に父が興味を示した。結婚したのち、亡きミーシャのペンダントを眺めながら彼女の名前をつぶやいた父を見かけた母は激昂し、そのまま部屋にあった花瓶で殺したのだろう、と。愛というものはときに人を殺める動機にもなってしまうもの。屋敷の使用人たちは僕が一人で生きていけるように教育してくれ、僕はそのまま遠方の父の親戚のもとに雇われました。そこで数年を経た後、今はここでセシル様にお仕えしている次第です」


そこで息をつくとアランは親しみなのか、敵意なのか。どちらにも取れないような不気味な笑みを浮かべていた。

僕の背中がすうっと冷え込んだような感覚に襲われる。今のアランの話は、僕とは似ても似つかないような話ではない。僕は考えるのをやめた。アランの感覚が恐ろしくなった。僕はアランの母親のように、異常な程自分が相手を愛していることを押し付けたりしない。僕はただあの人のそばにいられるだけでいいのだ。姉の代わりだと分かっている。けれどそれで求められるのなら十分じゃないか。僕にはこれ以上望み得ない。これが限界点であるし、その先は考えたくない。あの人の目に僕が姉さんに見えているのなら、あの人のためにそうやって過ごすだけ。終わりなんて、知らない。それになんだって僕にこんな話をするのか。自分の身の上話が、たとえ僕と似通っていたとしても、それを主人に言う道理はないだろう。アランの一種優しすぎる程のセシルとしての扱いを鑑みれば、誰かに成り代わりたいと願う人に危機感を覚えるのかもしれないけれど。それは僕の勝手だ。


「だからなんだって言うんだ?僕はこれをやめない。クロードの目に僕がジゼルとして映る限り、僕が羨んだ姉さんの時間を少し分けてもらうだけだ。あとはなんだっていいんだ」


かすかに苛立ちを覚える。しかしアランは気にした風もなく、また口を開く。

「あとはなんだっていい、ですか。それでは、二つ目のお話をしましょう。これは今朝のことです。実は、本当はこれをお伝えしに来たんです。前々から思っていたんです、おかしいと。この館にジゼル様はいない。セシル様はきちんと存在している。それを確かめるために旦那様のもとへお話に伺いました。旦那様は出立のご用意を早くに終えられて出発までの間くつろいでおられました。


『――――――失礼致します。旦那様、入ってもよろしいでしょうか』

ノックをして聞くとすぐに許可の返事が返ってきた。

『アランじゃないか。どうした?』

旦那様はゆったりとした様子で尋ねた。

『セシル様のことでご相談に。要件は手短に申し上げますが、二つございます』

アランは頭を下げて手間を取らせることを詫びた。快く旦那様はそれを許し、それで?と言った。

『まず、本日の視察ですが私は館に残りたいと思っております。セシル様の親しい使用人がどちらも出て行ってしまうのはお寂しいでしょうから、と思い、フランさんと話し合いました。私が残ることを了承してくださったので、旦那様に許可を頂きに来た次第です』

それについて旦那様は鷹揚に頷き、許可しよう、と言った。

『それで、もう一つは?』

旦那様がそう尋ねられた。少し手に汗をかいていた。

『質問があるのです。僭越ながら、旦那様―――――ジゼル様がセシル様だということに、当の昔からお気づきでしょう』

旦那様は黙っていた。動かないでじっとこちらを見つめている。

『何故そのままにしておかれるのですか。セシル様はご自分の存在を忘れてしまうほど心をすり減らしてあなたのそばにいようとしている。けれど同時に自分を失うのが怖いともおっしゃっていました。あなたが気付いているのならジゼル様に成り代わる意味がない。どうして、そのままそばに留めておくのですか?それも、その行為に加担するような真似までなさって』

しばらく黙りこくり、僕の顔を見つめる旦那様は何か考えているようだった。僕は追って聞くこともせず、彼の答えを待っていた。

『私は・・・・・・。ジゼルを愛していた。同時に、彼女の弟であるセシルも愛しいと思っていた。彼女が亡くなった時、すべてが失われた気がして、しばらくは仕事も手につかなかった。だけど、ジゼルの服を着たセシル――――にひどく惹かれた。そのときは勝手に体が動いたよ。セシル、と呼びかけて』

話と違う。そう思ったのは、セシル様は最初に旦那様に会った時にジゼルと呼びかけられたと言っていたのだ。それがセシルと呼ばれたとなると、話は違う方向に向く。

『ジゼル様のお名前を呼ばれたのでは?』

旦那様は首を振る。

『いや、セシルと呼んだ。後から気づいてみれば彼は姉を失ってからどこかにジゼルを探しているようだった。そして気付いたのだろう。彼が一番ジゼルに近しいということに。彼女の服を着たセシルはよく似ていたからね。鏡の中の彼は、よほどジゼルに似ていた。私がセシルをジゼルと間違うのも無理ないほどに。そうだからか、私がセシルをジゼルと思い込んでいると思ったようだった。彼がジゼルでありたいと望むのなら、私はそう扱ってやるのが彼の為だと思った。どこにもいかずに、この館の中で暮らしてくれる人形でありさえすれば、私は彼を愛してやれる。だから私は、セシルをジゼルと思って接している』

そうか。だから館の使用人たちは口を揃えたように彼のことをジゼルと呼ぶのだ。旦那様の指図で彼をジゼルのように扱えと言われれば、従う他ないだろう。すべての合点がいって、僕は納得したように息を吐いた。

『しかし、分かっているだろう、これをセシルに伝えるな。自分がジゼルだと思い込んで心のバランスを取っているんだろう。せめて回復するまでは、このままでいさせてやりたい』

旦那様は目を眇めた。それは確かな意志を持った目だった。僕は神妙に頷き、胸の中の高揚感を顔に出さないようにしながら退出した。恭しく頭を下げて、旦那様を見ると、苦い顔をしていた。それを見た僕の口の端が上がったのを感じた。


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