アラン

「これからは私ではなく、限定的ではありますがアランがジゼル様のお世話を致します。私では、その、入浴のお世話は致しかねますので。旦那様の前やそれ以外の時は私がお世話の立場を預からせていただきますが、着替えや入浴などはアランに任せることになります」

フランから告げられたのは、新人のアランの役目が僕の世話役ということだった。フランは僕のことをジゼルと呼んでいるが、実際はセシルとしての僕として接してくれていた。他のメイドや使用人は完全に僕のことをジゼルとして扱い、僕を消している。唯一自分を思い出させてくれるフランの計らいは、僕にとっても助かることだった。さすがに男の僕の入浴をフランに手伝わせるわけにはいかないから、アランが任せられたのだ。

「アラン、入って」

フランが呼びかけると、控えめに扉がゆっくりと開き、先ほどの緊張した様子でアランが入ってきた。

目のやり場に困るらしく、きょろきょろと落ち着かない様子で僕のことを直視しようとしなかった。

「何をしているんですか。こちらは、あなたのお仕えするセシル様・・・ジゼル様よ。くれぐれも無礼のないように。では、ジゼル様、私はこれで失礼致します」

そそくさと出て行ってしまったフラン。いきなり男だか女だかわからない主人と二人きりにされたアランがかわいそうになって、思わず吹き出してしまった。

「はは、そう緊張しないで。さっきはごめんね、僕はジゼル。本当はセシルっていうけど」

セシル。そう呼ぶ人はもういなくなってしまったけど、久しぶりに口に出すと自分の名前はそういう名前だったような気がした。

「ええと、なんとお呼びすれば」

「ジゼル。僕は本当はいるけど、いない。そうなっているから、間違ってもクロード様の前でセシルって呼ばないでね。アラン、僕のことは女と思って」

アランは神妙な面持ちで頷いた。フランや他の使用人たちから何も聞かされていないのだろう。仕方なく、僕が説明することにした。

「僕の姉さんがジゼル。クロード様の妻だった。一年半前に亡くなったけどね。僕は姉さんとして、クロード様のそばにいる。館の人たちも僕のことは姉さんとして扱う。アラン、君もそうしてくれて構わない。むしろ、そうしてくれた方が助かる。君が不思議がっていること、理解してもらえた?」

飲み込めない異物を無理やり飲み込むような感覚に等しい。これを理解するのは最初からその場にいた人間にしか簡単にはできないだろう。アランはこちらを見つめて、黙っていた。僕はなんとなくこのアランに興味をもった。傍から見れば僕の行動はどう写っているのだろう。館の人間はもう麻痺してしまっている。主人の心の平静を保つために僕のなりすましは必要なことだったから。

「それで、あなたは苦しくないんですか。自分が存在することが嘘みたいに、思うことはないのですか」

純粋に不思議に思ったことを聞いただけ。背中を打たれたような衝撃だった。もしかしたら、僕は彼からすると痛々しい人に見えているのかもしれない。同情を向けられている。そう思うと、ふいに言い返したくなった。

「苦しくなんてないよ。僕はクロード様に愛されたかったから、今の状況を受け入れていられる。自分が自分じゃなくても好きな人に愛されるなら、幸せなことだよ」

アランは黙って考え込んでいる様子だった。

「セシル様。私はあなたのこの状態を、悲しいと思ってしまいます。幸せを感じているセシル様からすればおかしなことに感じられるかもしれません。だけど私は、あなたが本当に幸せだと思うことができない」

アランは眉を下げて、心の底からそう思っているというように僕に投げかけた。

「同じような人を知っています。その最後を知っています。まだあなたは戻れる、自分を失っていないから。できるだけ私がセシル様のことを記憶します。だから、これから、あなたのことを教えてください。」整った顔がくしゃりと笑った。

だからこれからよろしくお願いします、と初日から僕に向かってこんなことを言うアランはどんな人間なんだと思った。同じような人。アランの知っている誰かの代わりになろうとした人。その最後がどうなったのか、アランは言わないままだった。だけど、僕のことを知ろうとしてくれた人が現れたことは、純粋に嬉しかった。


それから、アランは僕の着替えと入浴を主に担当することになり、毎日顔を合わせるようになった。

バスタブの中で熱い湯を頭からかけてもらいながら、他愛のない会話をする少しの時間だけ、自分を思い出す。ジゼルを演じるセシルとして、彼から僕はどう見えているんだろうか。少しも軽蔑したり気味悪がったりしなかった彼なら、きちんとした答えをくれるかも知れない。苦しくないか、と聞かれてから、僕の本心を意識するようになった。アランは、二人でいるときは僕のことをセシルと呼んだ。別に誰に聞かれるわけでもないが、なぜそっちの名前で僕のことを呼ぶのか聞いてみると、

「自分の名前を呼んでくれる人がいないことほど悲しいことはありませんから。誰かに呼ばれないと、自分の存在を忘れてしまいそうになります。少なくとも私は、そう思います」と答えた。ジゼルだ、ジゼルだと思い込んで生活していた僕の名前を呼ぶ人が現れたことで、毎日わずかの時間だけセシルとして生きていることに気がついた。アランと話しているときは、セシルとして好きなものも、読みたい本も、やりたいことも考えていた。忘れかけていた自我が、少しずつ目を覚ましているように思えた。

季節は初夏へと差し掛かっていた。


毎日をジゼルとして過ごすうちに、話す言葉は少なくなり、黙ってクロードのそばにいることが増えた。相変わらず「ジゼル。こっちへおいで」と手招く彼の言葉は優しくて、ゆったりと彼にもたれかかり目を閉じて、その手が頭を撫でる瞬間がなによりも幸せな時間になっていた。今はもう、僕が何者であるかなんてどうでもよくなって、ただクロードの求めるままに過ごすこと。愛玩人形のように愛でられるだけの存在でいること。生きるのに必要な事実はそれだけだった。僕は十分だった。満ち足りていた。


そう思っていたんだ。

それを覆したのは、アランだった。

「いつまでジゼル様でいらっしゃるんですか」

いつものように頭から熱い湯をかけてもらって、湯船に浸かっているときだった。タオルをたたみながら、アランは真剣な顔をして尋ねた。彼の前ではセシルでいられる。そんな安心を与えてくれるアランの問いかけは、いつもセシルの頭で考えなければいけなかった。

「クロード様が納得するまでだよ」

足を伸ばしながら暖かいお湯を肩にかける。伸びた髪が邪魔だな、と思った。

「それでは、セシル様が死ぬまで旦那様が納得なさらなかったら?」

「僕にもいつ終わるかなんてわからない。終わりたいのかもわからない。でも誰も不幸じゃないし、みんなが幸せならそれでいいよ」

アランは僕に対して使用人としての態度ではなく、例えば、年の離れた弟を心配する兄のように、ときどき叱るように諭すことがあった。

「誰も不幸じゃない、と」

独り言のようにつぶやいて、アランはてきぱきと僕の着替えを用意する。どうしたんだろうと思いながら、深くは考えずにそのままにしてしまった。


「セシル様、気分転換に町へ下りてみませんか!」

これでもかというくらい雲一つない快晴の日、朝から大きな声を出してフランが部屋に入ってきた。丁度朝食を終えたばかりで、アランに淹れてもらった紅茶を飲んでいるところだった。

「旦那様が今日領地の視察で海近くの町に行かれるので、ご一緒なさってはいかがですか。ちょうど市場が開かれている時期なので、お楽しみいただけると思いますよ」

フランはとてもはしゃいでいる。この館にいる限りは大して変化もなく平和だから、活気にあふれた町の市場に行けるのは使用人の楽しみのひとつだ。僕も市場に行ってみたくなって、ふたつ返事で承諾した。

アランとフランが僕についてくることになって、クロード様に許可をもらいに行こうと部屋を出る。

「今回は許可していただけるといいですね、セシル様」

ちょっと困った顔をして、フランが見送ってくれた。


扉を開けると、燦々と太陽の差し込む執務室で、クロード様は書類に向かって難しい顔をしていた。音を立てずにそばに近寄ると、気配に気づいたのか顔をあげた。

「ああ、ジゼル。どうしたんだ。もしかして、今日の視察についてきたいと言うんじゃないだろう?」

なにか子供でも相手するかのように、笑いかける。

「私は夕方には帰ってくるよ。それまで私の帰りを待っていてくれ、ジゼル」

優しく頭を撫でられて、言い聞かせるように言われる。たぶん、以前姉さんが死んだ時には行方不明か、さらわれたか、全く死ぬこととは関係ない事で姉さんがいなくなったと思い込んでいる。だから、僕がジゼルとして生活し始めた時から僕が外に出ることにいい顔をしなくなった。クロード様が町へ出かけるたびに頼んでみていたけど、今回もダメそうだった。

「今回は市場が開いているから、フランとアランが行きたいと申しておりました。クロード様、一緒に連れて行

てください、たまには一緒に出かけたいです」

館に閉じこもって長くなってくると、一日一日の感覚が麻痺してしまう。自分が何者だったかなんてあやふやになってしまう。僕はジゼルになりかけている。アランとの会話がなければ、セシルに戻る時間なんてあっただろうか。館には、セシルは存在しない。アランとの会話にしか現れない。

外に出れば、自分を少しだけ取り戻せる気がする。クロード様のためには完全にジゼルになってしまったほうがいいんだろう。でも、自分を忘れてしまうのは怖い。底のない沼に引き込まれるように、一度消えてしまえば二度と戻れない気がして。

「そうか、市場が開かれていたな。フランはここのところ働き詰めだったし、アランは来てからはまだ視察に連れて行ったことはない・・・。フランとアランは連れて行こう。だけどジゼル、君はだめだ。私のためにここにいてくれ」

悲しそうに眉根を下げて、頭を撫でる。暖かくて大きな手のひらが頬を包んだ。がっかりした僕をなだめるように。

「市場で何か買ってこよう。海の近くだから珍しいものがあるし、君の好きな果物の種類も豊富だろうから。悲しい顔をしないで」

あからさまに落ち込んだのが見て取れたのか、慌てた様子でぎゅっと抱きしめられた。外には出たかったけど、それも仕方がないこと、と思って素直に諦めた。一日、本でも読んでいよう。アランとフランが行ってしまったら、一人になってしまうなあ、と思った。

「わがまま言ってごめんなさい。ここで待っています。気をつけて行ってきてください」

クロード様はほっと息をついて、それから僕を離した。もう出立の準備を始めないと、と言って最後に頭を撫でると、部屋を出て行ってしまった。僕は執務室に取り残されて、ひとつ、ため息をついた。

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