第13話 お疲れ様
————六、七年ほど前のある夜、クルス先生は唐突に王城へ僕を連れて行った。驚きの連続だった。帝王が自ら出迎えるという非常事態。先生が帝王の旧友だったこと。先生が世界最強の「四導」の一人だったこと。十魔公の大半が揃い踏みだったこと。そして……僕を十魔公の後継者として育成すること。
それは孤児院からの卒業を意味していた。クルス先生に恩を返すためには丁度いいと、表面上では割り切れた……つもりだった。当時幼かった僕には家族同然の孤児院から離れるなど想像すらしたくなかったし、事実として僕は帝王の御前だというのに、無様に怒鳴り声を上げて癇癪を起こした。先生に裏切られたように思ったからかもしれない。
よかったねアヴァドン、と。彫刻のように変わらないクルス先生の顔が、恐ろしく、そして腹立たしく思ったのはそれが初めてだった。僕は覚えたての魔術を使って逃げに逃げた。幻影による変装魔術に目眩しの閃光魔術や矮小な爆発を起こす黒魔術「ミスチーフボム」といった、子供でも容易く扱える簡単な魔術を会う人会う人に使って、城中を引っ掻き回した。勿論魔装なんて持っていなかったから
とにかく、クルス先生や帝王への反骨心だけで無謀な逃亡劇を演じた僕が最後に逃げ込んだのは、とある一室だった。
「……ここなら見つからないかな。……逃げてどうなるわけでもないけど」
ぼやきつつ、扉を押し開く。目に入ったのは、輝かしく見事な調度品や、美しい幻風景を閉じ込めた絵画に華やかな文様の柔らかい絨毯、上質な白樺で作られた机と一組の椅子。目を奪われるような気品が溢れたその部屋で。
彼女に出会った。
彼女は僕を見ると、泣き腫らしたような目を見開いて驚いた様子を見せた。当然だ、唐突に十魔公が部屋に押し入って来れば誰だって驚く。足の届いていない白樺の椅子に腰掛けた彼女の口から、悲鳴が漏れそうになる————
慌てて事情を説明する。しばらく弁明を続けていると、毒気を抜かれたのだろうか。ぽつぽつと始まった彼女との会話は存外に楽しいものとなった。初めて会った人間に対して、妙に親しみを覚えるような不思議な感覚を感じつつ、僕は夢中でおしゃべりをした。話題には事欠かない。例えば孤児院での出来事とか、
「……? どうなさったの……?」
「…………実はね————————」
なんとなく僕は理由を話した。誰かにこの不満を聞いて欲しかった。
彼女はそれを静聴すると、「わたしもね」と微妙に舌の足りていない発音で話し出した。
自分よりも幼い少女の口から溢れ出て来る「悲惨」と「不安」は、僕の苦悩が小さく見えてしまうような話だった。
母親は彼女を産んですぐに亡くなり、教師役の人物には殺されかけた挙句————悪魔に取り憑かれ、父親の愛を失った。しかも悪魔は日を追うごとにゆっくりと彼女の人格や思想を塗り潰し、侵していくという。
いつ誰を傷つけるか分からない。いつか皆との幸せな思い出を忘れてしまう。————それが恐ろしくて堪らない。
「……おかあさまは、『しらかば』の木がすきだったから、しらかばのお椅子にすわってたの。おかあさまがゼッタイまもってくれるもの……………こわいよぅ……わすれたくない……いやだよ……」
涙の落ちる音がした。切なくて悲しい、澄んだ痛々しい音。それを聞きたくなくて、僕は椅子を蹴飛ばして立ち上がる。
二言三言の口約束。間違いを止める。子供の安い正義感から出てきた、格好だけの誓い。
それでよかった。それで彼女が笑ってくれるなら、どれだけ無様でも構わない。
「ちかうよ。僕はきっと、君を止める。君が間違ったら、必ず僕が叱ってあげるよ。ほんとさ!」
「……ほんと? わたくしがわるいこになっちゃったら、あなたがしかってくださるの?」
「もちろん。この白樺にちかおう。君の母親が愛した、白樺に。君がまちがえた時は……僕が君をとめるさ」
それだけを力強く言い放つと、僕は来た道を引き返し、走り出した。駆け抜け、走り抜け、僕は王座の間の扉を、吹き飛ばす勢いで押し開いた。
予想に反して人影の数は二つだけだった。後で知ったことだが、帝王は先生と悪魔についての秘密会議を行なっていて、人払いをしていたそうだ。
「おかえりアヴァドン。足音がここまで聞こえてきたよ? 廊下を走るななんて、利口な君に言う羽目になるとは、思ってなかったんだけど」
「……先生、王様。先ほどは失礼をはたらいてしまい、すみませんでした」
「…………やけに素直だね? しかもその変装はどういうつもりかな? 何処で僕の
「それは如何でもよかろう。少年、貴様の師の言葉が足りぬばかりに、辛い思いをしたであろう。余が許す、今すぐに決めよとは言わん。但し、考えておくのだ……必ずや答を聞かせてもらう」
厳格な表情から放たれる言葉は裏腹に、甘さを感じさせた。子供の僕を気遣ってだろう。
「……王様。貴方は、家族を愛していますか?」
「…………なんだと? どういう意味だ少年。藪から棒に何を問う」
「————答えてください。貴方はただ、いたずらに彼女を泣かせたのですか……!」
「……そうか。————俺の愛娘に会ったのか」
「……あ……」
「必要があったからそうした、でも、そうか。……泣いてたのか、セレスは。……慰めてくれたのか? 少年」
僕はゆっくりと首肯した。途端、帝王の厳格な圧が見る見るうちに紐解けていく。それはまるで、仮面を外したような豹変だった。
「そっか。……ありがとな」
玉座から立ち上がり歩み寄ると、帝王は僕の頭に優しく掌を被せ、黒魔術「フォース・ダイング」を
子供でも分かる————これで。
これで愛がなきゃウソだ。
「ぼ、僕は、あの子と約束したんです。あの子が誰かを傷つけそうになったら必ず止めるって。だから————僕は、十魔公になります」
僕が彼女に抱いたこの感情は、恋ではない。
彼女が生きていることを幸せに思える。それが愛だと、僕は信じたいのだ。
愛。それこそが、僕が「断罪」になった理由。
赫く輝く軌跡が数瞬の間隙に光り、王女が力無く崩れ落ちる。
「……
魔装を地に叩きつけるように刺し、跪く。
力を失い人形のようになった王女の身体を力強く抱き抱えて、アヴァドンは囁く。
その身体は、とても軽い。
「…………僕は約束を果たせただろうか」
「さあ。……それだけ安らかな顔してるんだし、少なくとも
背後から歩み寄ったのはクルスだ。魔装をふわふわと浮遊させる彼の言う通り、セレスティアの首には何故か傷一つ付いていない。
クルスの背後で、魔力の供給を絶たれ崩れていく結界が事態の終焉を物語っているようだった。
「切った魔術を一度限り模倣する固有魔術、か。執着の力をメィドールから切り取ったのは……このためだったのかい?」
教会へ一時撤退したあの時。メィドールにかけられたオブセットの執着の「異能」を調べていたクルスはそれが固有魔術であることを発見した。アヴァドンはその異能を解除・模倣した剣で、セレスティアを斬りつけたのだった。オブセットの力でセレスティアを「生」に括り付けることで、「首を刎ねられて死ぬ」と言う結末を物の見事に回避したのだった。
「……本来ならば
「まあ、ね。……多分さ、王女サマ気づいてるよね」
「……まあ、そうですね。多分どころか確定でしょう、魔帝の正体が閣下であることは————」
「違ぁうそっちは元々バレバレだったじゃん。ちょっと親しいヤツが見たらすぐ分かるよアレ……じゃなくて。約束の相手が君だってこと」
「…………まさか。七年近くに渡って事実上軟禁状態だったんですよ? 確かめる術がない」
「言い換えれば七年近く君と同棲してたようなもんってことじゃん。護衛の君とさ。それだけ長く一緒にいたらありえない話じゃない。君が王女サマの理解者でありたかったように、愛に飢えた王女サマだって君のことを理解しようとしたに違いない。…………多分」
「……臆測が過ぎますが……もしそうなら。…………あの誓い、覚えていてくれたのかな」
「わざわざ白樺に誓ったんだ、きっと覚えてるはずだよ」
心なしか、セレスティアの表情がより幼く見えた気がするクルス。愛のある抱擁に安心した、陽だまりのような顔つきに見えたのであった。
きっとそれは間違いではない。それを裏付けるかのように————
「………すぅ…………すぅ…………」
「……むっ……? …………うむ、んん……」
安らかな寝息が戻ったセレスティアの華奢な腕が、ぎゅっとアヴァドンの鍛えられた胴を締める。アヴァドンも一瞬戸惑うように唸ったものの、ぎこちなく抱擁を強めたのだった。
————が、クルスはワザとらしい咳払いを軽く繰り出してアヴァドンの背後を指差した。
「アヴァドン。恋人を抱き締めていたいのは分かるんだけどね? 事態の収拾をつけなくちゃいけない。魔帝の……アイザックの様子を見てきてよ。その間に僕は王女サマに異常がないか調べておくからさ」
「……恋人だなどと、恐れ多いです。……了解。リグル=アーチャーも回収してきます」
ゆっくりとセレスティアを引き剥がし、横抱きにしてクルスへ預けると、どこか名残惜しそうにアヴァドンは歩み去った。
クルスはそれを確認すると、セレスティアに左手を翳して、淡々と呟いた。誰にも聞かれないような、小さな囁きだった。
「起きてるでしょ?————————オブセット」
『……………………あ……あぁ……』
セレスティアの肩口から、見るも見窄らしく変貌した枯木の翼が弱々しく、矮小に生えていた。見るからに満身創痍、瀕死の暗緑色は、尋常ならざる執着を以て此の世にしがみ付いているように見えた。
「執着の力を感じて戻ったんだろ? そもそもお前の力で無理矢理生かしたんだから、王女サマは一回死んだも同然だ。そんな状態で直ぐに寝息たてられるわけがない。相当な負担がかかってるはずだ。お前、肉体が死にそうだったから一芝居打ったな? 呼吸するためにさ」
『…………く、そ』
漏れ出る言葉には全く威勢が無い。ただただ微弱な、吐息に辛うじて音が乗った程度の掠れ声だった。
『ころせぇ………………』
「……殺しはしないさ。生徒たちと約束しちゃったもの。これでも一応『先生』とか呼ばれる立場なわけだから……約束は守らなきゃいけない。けれど————お前は邪魔だね」
魂貪。
それは一瞬の出来事だった。知覚できたのは、オブセット本人だけかもしれない。
捕食者然としたクルスの雰囲気をオブセットが感じた時には、彼女の視界から在りと凡ゆる全てが消え失せていた。失神などという程度のものではない。急激に薄れていく意識の中ではっきりと感じるのは、生暖かい喉をゆっくりと滑り、呑み込まれていくような悍ましさと不快感。そしてそれ以上の————恐怖。
『………いやだ………………』
魂から人格が……存在が引き剥がされていくのが分かる。己の存在が喰われているのが、理解できた。
奇しくもそれはオブセットの当初の目的と似ていた。魂を奪うこと————それは人格を喰い千切られている今のオブセットからすれば、同等の凶行だろう。なにせ人格を魂から消されれば肉体に宿るセレスティアの精神が成り代わるのだから。
つまり。オブセットは死に、セレスティアが蘇るのだ。
『いや、いや……いやよ、いやだ…………いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!』
骨肉から生皮を剥ぐかのような苦痛を感じながら、執着の悪魔オブセットは王女セレスティアの魂から抹消された。
「す———————っ…………」
微かに開いた唇から神父が吸い込むのは、果たしてただの空気なのだろうか。
誰にも知られず、違和感の一つさえなく。この奇妙な捕食行動は終了した。
「先生——————!」
「ちょ、ちょっと、リリィ待ってよ……いたた」
セレスティアの身体に白魔術「エンジェルズ・ハンド」で治療を施しながら、クルスは背後から近づいてくる少女たちに手を振って応えた。
気さくで、無害そうに。先程の異様さがまるで見られないその変わりようは、不気味に映るだろう。
だが、誰も先程のことを知らない。気づいていない。だからこそ、そこに居るのはいつものクルスだった。
「やぁ。リリィ、メィドール。散々な目にあったね今日は…………こんな日は暖かい紅茶とふわふわサクサクのワッフルで癒されるべきだよ、ほんと」
「先生はどう頑張ってもそればっかりなのですね……でも無事でよかったのです!」
「……先生、ケガとか、してませんか……?」
「大丈夫大丈夫ピンピンしてるよ。ほら、この顔を見てごらん? 元気そうでしょ」
「いつも通りの無表情なのです!」
「あはは。————ん? メィドール? どうかしたのかい?」
「…………あっ、えっと、すみません先生……もう一度、仰って、もらえますか?」
「あっ、そうなのです! メィは右の鼓膜が破けちゃってるのでした!?」
「なんだって? 十分重傷じゃないか……すぐに治療専門の先生方のところへ行くんだ。待機してたのが多分近くにいるはずだからね。リリィ、付いて行ってあげて」
存外にまともな判断で二人を促したクルスに、砕けた口調の男が話しかけた。
「お前も付いてってやれよクルス。セレスは俺とアヴァドンに任せてよ。……他の生徒もケアしとくべきだ。大なり小なり、疲弊してるだろうからな…………後始末もしておくから、一旦袖に退がってくれ」
「おや……仮面、ついに壊れちゃったんだね。やっぱり嗄れ声よりそっちの方がいいって」
「だよな〜俺もこのイケヴォの方がイイと思うんだよね! とか言ってる場合じゃねぇわ……やることやらねえとな」
「そうだね。お互いに」
「ああ。…………今回は本当に世話になった。ありがとうな、クルス」
「……
アヴァドンを従えた魔帝の仮面は半壊し、口元が露わになっていた。会釈したアヴァドンと礼を言う魔帝に背を向けると、クルスはメィドールの肩に手を置いて魔術を唱えた。
「《我等を繋ぐ世界の楔よ》《弛み放てや我等が五体を》」
「————ふえっ?! 」
ふわりとメィドールの身体が緩やかに倒れていく。
そのまますっぽりと両腕の中にメィドールを収めたクルスは、いつもの菓子山の代わりに魔装を浮かべて歩き出した。
「せ……先生? その、はっ、恥ずかしい、ですよ」
暗紅蓮に煌めく疲れ目を見開いて驚くメィドールの顔は林檎のように赤い。形だけの抗議をあっさり聞き流して、クルスはメィドールの眼を見つめた。
「負傷してるのは耳だけじゃないでしょ。……本当は歩くのも辛いんじゃないかい? なのに、僕を説得するために無理するんだから……。これ以上歩かせて悪化させるわけにもいかないからね。黒魔術『グラビドフォース』で浮遊させたんだ」
「あっ……えっと、そのっ。ありがとうございます」
「ん……? あぁ、当然だよ。なんだかんだ先生だからね」
なるべく分かりやすいように真摯な対応を試みたつもりのクルスだったが、メィドールが視線を逸らしてしまったのを見て首を傾げる。
顔が赤いようだが怒っているわけではあるまい、となると疲労からくる体調不良か……?
そんなことを考えていたクルスの横合いから口を挟んだのはリリィだった。
「先生先生? メィ、多分聞こえにくかったんだと思うのです! 耳元で言ってあげてほしいのですよ……ちょうど、左耳が近いようですから♪」
「えっ、ちょっとリリィ……! ちゃんと私聴こえて————」
「ふーん……? よく分からないけど聴こえにくかったならもっかい言おうか?」
「いっ、いえ! 大丈夫、です……! …………もう、リリィったら何を考えて…………え、先生?」
クルスが肘を上げる。畢竟、メィドールの顔がクルスの唇に近づく。
——————お疲れ様。
その囁きはほんの一瞬メィドールの鼓膜を揺らした。
ほんの一瞬。然し、メィドールにとってその一瞬はとても、とても愛すべきもので。
しどろもどろになりながら、照れでますます赤くなる顔を両手で覆って声にならない呻きを漏らすメィドールを横抱きに抱え、何一つ状況を理解できないクルスは首を傾げながら歩いていく。その隣を微笑みながらついて行くリリィ、という唐突に訪れた安穏な光景は。
きっと、事件の終末を告げていた。
いくつかの不可解と、新たな事件の芽を残して。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます