第7話 戦略的撤退

 

「瞳が……悪魔が引っ込んだ、のか?」


 呆然と呟いたのは親衛隊員。悪魔の憑依から自力で肉体を奪い返すなど、精神力が並外れているなどという次元ではないのだ。


「……その様だ。殿下、ご機嫌うるわ————」

「そんなことはどうでもよいのですアヴァドン! あの方が、あの方がいるのですか!? 」

「……別人の可能性が高い……それどころか偽物であるのはほぼ確定でしょう。————『流星』、魔術講師。ついて来い。殿下はここでお待ちを、その賊めを捕えて参りますので」


 クルスとエルクレウスを縛っていたシール・チェインを背負っていたエクスキューショナーズソードで容易く切断しながら、アヴァドンは無感動な表情を浮かべたまま、取り乱したセレスティアを気にする風でもなく淡々と告げた。


「エルクレウスに白羽の矢が立つのは分かるよ。何故僕なのかな?」

「……帝王の友人が只の一教師のはずがない。戦力として数えるには十分だろう」

「では私がここに残り、王女殿下を警護させていただきます」


 さっさと踵を返し、貴賓席から立ち去るアヴァドン。クルスの追求から逃れる様にその場を後にした赤髪の背中を、どこか寂しそうに見つめる者がいる。

 セレスティアだった。


「……嫌われてしまいましたね。悪魔に誘惑されてその身を差し出した愚か者に対する応対など、これが妥当なのかも知れませんが」

「年の割には落ち着いてるね。本当に十三歳なのかい? ……ねぇ、君は悪魔に何を願ったの?」


 縛られていた腕の調子を確かめながら、クルスは無表情に問いかけた。まっさらな顔にぽつりと佇む曇天色の瞳は逃げは許さないと雄弁に語る。

 縫い留める様な視線に、観念した様にセレスティアがぽつぽつと話し出した。


「私は……『生きていたい』と。そう願っただけです。死に瀕した私が考えていたのは、そんなことばっかりでしたから」

「ふーん…………? それって何年前のこと? 六、七年前くらい?」

「え……はい、そうですが……。よくわかりましたね、流石です」


 にこりと怜悧な細面を年相応の笑顔に変えてみせるセレスティアだったが、先ほどまでの憂いな表情を塗りつぶした微笑みを向けられたクルスは、その偽物の微笑みを数瞬眺めると漆黒の神父服の内ポケットを弄りながら、言った。


「人間ってものは生きるために森羅万象を願ってみせるけど、ただ『生きたい』と願うことってあんまりないんだよ。死を忌み嫌うくせして、不思議なことにね。魔術士はその点、生命を素材として扱う傾向があるだけに一概には扱えないけど……少なくとも、彼らが生きたいと願うのは魔術が好きで堪らないからだろうね」

「魔術が好き、そのために生きたいと願う……」

「そう。まぁその魔術を使う度に命を削ってるワケだから世話はないね。だとしても、君よりは素直だと思う」


 ポケットに隠し持っていたらしい円形の菓子ストレンジムーンを一口齧りとり、クルスはセレスティアに背を向けた。


「君の生きるに能う願いは何か、よく考えてごらんよ。よりにもよって執着の悪魔が憑く程だし相当なものだと思うけどね? 無意識のうちに隠してる、その願いは。……さ、行こうかエルクレウス」

「………………ああ」


 眉をひそめるエルクレウスを伴って、クルスはアヴァドンの後を追った。

 後に残されたセレスティアはクルスの言葉を、噛み砕く様に反芻する。己が隠す願い? 生きたいと願う理由? 噛み砕き、噛み砕き、噛み砕いて————記憶と思いの底にを見つけた。


「私はあの時、……死にそうになって、苦しくて、そして————」

「《昏倒せよ》」


 突如として発生した眠気が牙を剥いた。

 怖気が奔り、反射的に振り向こうとしたセレスティアに睡魔が襲いかかる。目はかすみ、意識も朦朧としているが、その姿は確と捉えることが出来た。


「おや? 術の効きが悪いですねぇ? 隠密特化の肉体ではこんなものですか、脆弱な」

「なに————? く、ぅ…………」

「まったくとんだアクシデントです。然し、案外バレないものですね……半径三十センチまでしか魔力を感知出来ないという情報は本当でしたか。ですが一旦侵入すれば魂を探知されて正体を看破される、やはり厄介ですねぇクルス=ディバーツ。かつては『確殺』などと騒がれていただけのことはあり……一度私を殺した男だと言えば、興味も殺意も尽きませんねぇ」


 変貌。凛々しい声音は異常性に震える狂声に、蒼龍が描かれた純白のコートは漆黒の外套へ、正義感に満ちた顔つきは王族を守護する者のそれではなく狂気の嘲笑を隠そうともしない外道の面貌へと。水面のように揺れて解けた魔術が精錬された高等黒魔術「マモンズ・ハット」だと理解するも、あっけなく落ちる瞼。崩れ落ちる肢体。


「見目麗しい少女を眠りへと誘うのはこれで二度目ですかねぇ。精々、いい夢を見なさい。その身を悪魔と微睡みに任せて」


 セレスティアの僅かな意識は、蝋燭の火を吹き消すようにあっさりと消え去った。

 狂人はその様を張り付けたような笑みで眺めると、実に親しげに語りかけた。


「そろそろ起きたらどうですか。面白くなるのはこれからですよ? オブセット」


 ぐらりとセレスティアの肉体が起き上がる。赫い力が纏わりつき、その両肩から枯木の翼骨が広げられていく。それは鳥の翼と喩えるには禍々しい。メリメリと何かが這い出る音————翼の根元から、やはり暗緑色の荊が幾筋も伸び広がっては翼骨へと絡みつき、巨大なある形を成していく。

 ————屍の翼。


「おやおや、随分と本気ですねぇ翼増やして……身体の操作権奪われたの、そんなに怖かったんですか?」


 剽軽に茶化す黒コートの眼前には人一人分程の枯れた翼が二つ、靡くように打ち震えていた。


『————嫌よ』

「はい?」

『翼を増やして肉体の支配力を強化しなきゃ、今度は確実に。アタシは他の悪魔と違って契約者の肉体に寄生しなければ生きられない』

「私がそういう風に召喚しましたからねぇ? つまり貴女は、彼女に魂そのものとして取り込まれ自我を失うことを恐れていると」

『えぇ。当然でしょう……こんな楽しくて醜い世界、自分の為にこそ生きなくてどうするってのよ? アタシは宿主の願いを叶えるために呼び出された。でも……叶えればアタシは、オブセットアタシという人格は消え去ってしまう。アタシは! この愚かな人間の小娘に命の代わりとして取り込まれるのよ!

 ————————それは嫌。欲するものに向き合おうとしない愚か者に喰い潰されるのだけは嫌なのよ』


 燃え盛る怒気に侮蔑と怯えを混じらせて叫ぶ悪魔。それは生きる歓びを知ってしまった、外れ者の決意。


「そうですか……。————————ならば精々尽力してくださいね。『生』に執着する悪魔よ」


 黒コートの狂人は、それを愉快そうに見つめていた。








 言われるがままアヴァドンに追従していたクルスとエルクレウスだったが、会場入口であまりにも不審な光景を目の当たりにした彼らは、そのまま流れるように————逃走へと移行した。

 彼等に追走するのは、一般人の群れ。老若男女を問わず十数人の人間……者たちが彼等を獣の様に追いかけていく。

 行先は市街地。大会に支障を来さずに戦える場所、そしてこちらに地の利がある場所となればそこである。迷う必要さえない。 

 ————それにしても妙だ。

 エルクレウスは思案する。この入り組んだ市街地の路地を逃場にするのに異存はない、然しそれにしてはアヴァドンの動きには迷いが見られない。バルコニー貴賓席から退室してすぐ歩みの速度を上げていたことも鑑みると、アヴァドンはこの展開を予測していたのではとさえ思えるのだ。


「……この感覚、悪魔が本気を出してきたようだ。……我々の逃走直後からが追いかけてきたということは、相当迅速に肉体を簒奪していたか、或いは」

「協力者がいる。なんならあの悪魔の召喚主かもね……用意周到な外道ほど恐ろしいものはないよ」


 これもまた案ずるに足る。この阿吽の呼吸をしっかり捉えた応答もそうだが、アヴァドンがセレスティアを心配しておらず、クルスがそれを承知の上であること。それでいてクルスとアヴァドンの思考は伝心している。

 おまけに、とエルクレウスは背後をちらと確認する。

 不明瞭な呻き声を上げながら白眼を剥き、本来ならあり得ないスタミナで現役魔術士三人を追う様は、人間というより屍鬼グールに近いだろう。だが肉体が腐敗しているようには見えない以上、屍術ネクロマンスではなくかなり高度な精神干渉インターフィアーで操られていると見るのが妥当だ。


「……よし、ここだ」

「行き止まりだけど、どうしようか」

「……『流星』、足止めを頼む」

「……いいだろう、後で詳細な説明を求めるがな」


 曲がり角を曲がった先で、異常に落ち着いた会話が短く飛び交った。アヴァドンは何やら蒼いチョークを取り出して壁に魔術方陣を描き出す。複雑怪奇な幾何学模様を迅速な手つきで描くアヴァドンの無防備な背を睥睨し、エルクレウスは腰元に下げていた一振りの片手剣ショートソード————波型に歪曲した魔装を、薙ぎ払うように抜き払った。

 その魔装はエルクレウスが「流星」の二つ名を名乗る理由の一つ。

 銀河の魔刃、銘を幻星雲ステラ。太刀筋の軌跡に自身のコピーを発生させる特殊付呪メティス・エンチャントを持つ、世に二つとして存在しない無限の一振りである。

 エルクレウスが魔刃を弄ぶ。目にも留まらぬ指捌きでその刀身を回すと、その刃に斬られた空間が剣を孕む。環形に留まる刃は計八つ。エルクレウスの持つ本体を除く七振りの剣は各々が更に回転、同様に増殖し続けた魔刃は瞬きする間に視界を埋め尽くし————


「柄で勘弁してやる、暫く大人しくしてもらうぞ」


 ————————ズァアアアアアアアアアアアアッ!


 絶え間無い衝突音が土砂降りの雨もかくやという凄まじさで降り注ぐ。両手の指では数え切れない人数の鳩尾に的確かつ苛烈に命中する光景は剣の流星群。分類するならば絶技に値するだろうが、そこにあるのはメィドールのような才の燦きではなく、努力の威光。

 この男も一端の教師だったと再確認させられるクルスだが、その曇天色の眼に不可思議なものが映った。

 群れの一部、極少数の人間が気絶どころか倒れもせずに向かって来る。その服装は、実に見覚えのある、蒼龍が描かれた純白のコートだった。


「親衛隊ッ? 馬鹿な、彼奴らにこうも容易く精神干渉の術が効くものか! あのコートには魔術への対抗刻印が刻んであるはず————否、既に死んでいるのなら機能するはずもなかったか」

「……とことん胸糞悪い手口だね。僕が敵でも同じことをしただろうけど、流石にこれは冒涜が過ぎる。…………これだから嫌いなんだ、屍術士ネクロマンサーって輩は」


 見覚えのある、厳格な顔つき。腐敗の術でもかけられたのか、面影が残る程度にしか顔面が男達。王室親衛隊隊長の肩書きに恥じた、偽悪の衛士達。

 アヴァドンは背を向けたまま、方陣を描きながら。ぶっきらぼうに、労いの言葉を呟いた。


『::**@:・<?!`@@;』

「……すまないが、何を言っているのか理解出来ん」

『QQQQQQQQQQQQQQQQQQQQ』

「……厄断った様だな、そうか。————任務ご苦労、褒賞として安息を与えるものとする」

『XAXAXAXAXAXAXAXAXAXAXAXAXAXa————……ぁ』


 アヴァドンが脇へ退いた。現れたのは転移魔術方陣。

 幾何学模様と魔術言語で構成された同心円方陣。三つの魔術陣が互い違いに回転する。やがて絵の具を溶かすように背景が捻れ、次の瞬間。

 清められた水の砲弾が、冒涜されし有象無象を呑み込んだ。

 激流ではない。水の塊が彼らへ向かってだけのこと。重力操作の術「グラビドフォース」の多重使用と転移魔術陣の合わせ技が、屍の勇士達への手向け、操られた民衆への処置であった。

 この水は錬金術「物質構造操作・変換マテリアル・マニピュレイト」と付呪エンチャントによって魔術破壊の術————フォース・ダイングがエンチャントされた水、浴びたものはいかなる魔術影響下であろうとも問答無用に解放される。


「……安息へと至れ。お前達に処刑人の介錯は必要あるまい」


 倒れ臥す遺骸から一振りずつ、アヴァドンは誇りの証たる剣を回収していく。その動作一つ一つに慈愛が、労りが、決意がこもっている様に、エルクレウスには見えた。

 だが、弔いは後に回さざるを得ない。エルクレウスは視線を外し、魔術方陣が繋いだ景色を睨んだ。

 古めかしい内装、色褪せたステンドグラスに寂れた長椅子の列。窓に張り付く恐ろしげな黒々とした蔦。いかにもオンボロ教会といった風情だが————ここは魔改造された、無信心者の巣窟だと、エルクレウスは知っていた。


「あれー僕の家じゃないかーなんでかなー不思議だなーあっはははー」

「すっとぼけるなよ貴様予想済みだったんだなそうなんだな!?」


 瞬間移動染みた速度で詰め寄り、胸ぐらをひっつかんで詰問するエルクレウスの反応は正しい。焦燥の欠片も見えない、ある確信の元に成り立っているとしか思えない言動。そしてワザとらしいにも程がある驚愕。

 だが、流石にこればかりはクルスも予想外だったらしい。

 古教会の景色に佇む影は二人。一人は男、仮面を被り脊柱の剣を手に携える不気味な装いの成人男性。微動だにしないこの存在はまだ許容できる。問題は————————


「先生っ? ……っ、良かった、無事、だったんですね…………!」


 もう一人が浅葱の長髪と暗紅蓮の瞳を持つ美麗な少女————クッキーから逃走していたメィドール=インターセプトであったから。その長い睫毛の端に安堵の雫さえ実らせる彼女が、クルスがと共にいるのか、その経緯が想像さえできなかったからであった。


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