第5話 英雄とは何ぞや、正義とは何ぞや。
「マズイ、マズイね。非常にマズイ」
変わらぬ無表情に冷や汗を滲ませ、クルスは疾走していた。
風を突き抜け、屋根を飛び越え、街並を置き去りにしてクルスは走る。絶対に間に合わなくてはならないのだ。
「『
気絶させた暗殺者に記憶を読む精神干渉系魔術『リワインドメモリー』を使用してみた所、判明した事実がこれだ。
女暗殺者の所属する『夢見の魔眼』。帝国建国と共に誕生したといわれるこの組織は、名の通り『夢』を見ることを目的としている。
「夢とやらの正体は分かっちゃいないけど、あの筋金入りのテロリストどものことだし、碌なものじゃあないだろうね」
彼らが健全な魔術研究会を自称しているならばまだマシというものだろうが、事もあろうに国の転覆と研究会の構成員以外の人命を魔術の贄に変えることを是とするなどと公言している組織だ。
腐り果てたこの思想に加えて殆どのメンバーが外道と殺人鬼、狂人で構成されたこの組織はまさに帝国最大の膿、魔術界の暗黒面だった。
そんな連中が何を思ったか、ミステリス魔術学園一年次生A組に用が有るという。
何故ウチに? 襲撃者の人数は? その目的は?
下っ端に過ぎない女暗殺者の記憶からは、その答えを得ることは出来なかった。
しかし、それでも分かった事はある。
敵はクルスのことを知らない。
これは大きなアドバンテージだ。
「恐らく内通者は前任のバーディだね。ミステリスの教員試験はかなり厳しいから新しい担任を手早く用意することは出来ない。A組の担任枠に穴を開ける算段だったんだろうね、しかしそこに僕がやって来た」
それは組織からすれば誤算に他ならない。
帝王直々の推薦など、試験を用意する必要すら無く即採用だ。バーディが作った穴は一週間と経たずに埋められた。これは先んじて出張っていたアイザックの部下達の活躍が大きい。
結果、バーディは
あの暗殺者はあくまで結界を素通りして来た
「しかし腑に落ちないな……何故今日なんだ? 学園から教師陣が居なくなる訳でも無し、なんならエルクレウスはアイザックの命令で四六時中あの学園に釘付けの筈だ。態々学園の錚々たる実力者達に真っ向から挑む意味はなんだ?」
クルスの脳内に最も強烈に揺らめく疑問がこれだった。
そもそも何故A組の担任だけを空席にする必要があったのか?
組織が学園を、A組を襲撃する理由はなんだ?
分からないことが多過ぎた。
「まぁ、少なくとも学園のガーディアン・ゴーレム達でどうこう出来る相手じゃないことが分かったから、生徒の皆も、下手に刺激したりはしてないハズ……無傷の可能性が高い」
クルスは神父服の胸元から、紅に輝く、王家の紋入りの宝石が付いたペンダントを取り出した。通信用の魔道具。
魔力を送って、アイザックに応援を要請するのが目的だが、不幸なのはA組全員。教師たるクルスも例外では無かったらしい。
「何……? ヒビが入ってる? さっきの戦闘の所為か、子供達がじゃれた所為か……今日この日に壊れるだなんて巫山戯ないで欲しいものだよ、まったく」
クルスはブチリとペンダントを引き千切り、適当にポケットへ放り込んだ。
「さて、僕には選択肢が二つあるな。一つ、このまま突っ込んで下手人を全員排除。二つ、最寄りの警備員の詰所で通信用魔道具を借りて、アイザックに応援要請。さあ、どうするか」
学園の門が見えてきた。迷って居られる時間は多くは無い。
外道の醜類、無雑の極悪たる組織の連中が生徒達を無傷のまま放置するだなんて都合の良い話は当然無い。
生徒達の生命を代償にすれば、組織が『夢』を見るのに必要なモノを用意することは容易いだろう。
短期間ではあるが彼らの担任を務めたクルスには、生徒達が本当に優秀であることがよく理解出来た。それだけに、傲慢な面もあることも。
先に手を出すのがどちらか知れたものではない。
応援を要請するべきなのではないか。
「……要請したとして、だ。応援が来るまでどれ程の時間がかかる? その間に惨劇が起きないなんて保証は何処にも無い」
ならば、自分一人で突入するか。
クルスとて、帝国屈指の実力者。魔術帝王アイザックすら凌ぐ、最強に程近い生命体だ。たかだかテロリスト風情に遅れを取るはずもない。
しかしその刹那、クルスの脳内に陰鬱な黒閃が奔り抜ける。
————そもそも、彼らにそこまで肩入れする必要があるのか?
クルス自身の思考の一片でありながら吐き気を催させる一考。何も不思議な事はない、これはクルスの本性だ。
人間という生き物を嫌悪し、拒絶する。
彼にとっての悪夢と化した、とある魔術戦争において育まれた自己嫌悪と冷酷性。
クルスがその戦争で英雄呼ばわりされた理由、そのものだった。
クルスは基本的に人嫌いというスタンスを取り続けている。にも関わらず孤児院や学園の教師などをやっているのは、他者との利害関係が有るからに過ぎない。
クルスは学園の門に到着した。しかし、迷いは急激にクルスの選択肢を握り潰していく。
「……僕は、なんで走り続けたんだっけ?」
クルスは呆然と、その無表情を不思議そうに歪めて自問する。
当然の如く、答えを見出すことは不可能だった。
時間も、精神的な余裕も、クルス自身の覚悟も足りない。
ただ、クルスは。
————ぎぃああああアアアアアァァァッ!!
「——————ッ!!!」
本校舎から轟いた少年少女の絶叫に、再び走り出さずには居られなかった。
ただ、クルスは思っただけなのだ。
魔術を愛し、魔術の薫陶を受けることを至福の喜びとした生徒達。
クルスを信じると言った、桃色の髪が。クルスを見つめる、疲労の滲む紅眼が。クルスの授業に目を輝かせた、若い命達が。
理不尽にもその憧れを魔術自体に冒涜され、破滅させられたとしたら。
それをクルスが、見て見ぬ振りをしたとしたら。
約束を交わした彼女が、どんな表情をするか。
想像に難く無かっただけなのだ。
加害者サイドと被害者サイド、険悪な雰囲気に陥るかと思われた両者は、意外な事に穏やかな会話を交わしていた。
「じゃぁ何か? お前さん等のセンセーってヤツは菓子を食い続けなきゃ死ぬ生物だってのか? ははは、珍妙だなぁオイ」
「それでも、理論的な説明や実践が豊富な、マトモな授業してくれるし、悪い先生じゃないよ」
「みたいだなぁ、お前さん等がそんだけ信頼してるってこたぁ、つまり、そういうことなんだろうしな」
「お前さん等を魔術実験の材料にするから殺す」と言い放ち、膨大な魔力を垂れ流し始めた割に、妹の頭を撫で続けて一向に凶行へ及ばないクロンに、メィドールがポツリと呟いたのだ。
————本当に、テロリスト?
耳聡くその声を拾ったクロンの返答はこうだ。
————やりたくてやってるワケじゃねぇよ。
そうして二人の会話が始まり、クロンからこれっぽっちも敵意や殺意が感じられないことに気づいた者達が会話に参加し、今に至る。
因みに魔力を垂れ流しているのは、黒づくめの男に仕事をサボっていることをバレないようにする為のカモフラージュだと言う。無駄極まりない。
「……カモフラージュ、疲れないの?」
「……ぶっちゃけると、ツラい」
クロンが化けの皮を被った狂人という線がないわけではない。初めこそ数人の生徒が会話し始めたメィドールやカーティスを信じられない目で見つめていた。
しかしリリィが笑顔で言ったのだ。
————その人は悪い人じゃないのです。
その笑顔には有無を言わさぬ絶対の自信とでも言うべきモノが込められており、メィドール達を批判的な目で見ていた誰もが口を噤んだ。
そして、それ以上に皆が気づいたのだ。
学園生活を送るメィドール達の話を、羨ましそうに、寂しそうに、そして何処か諦めたように微笑んで聞くクロンの表情に。
「……貴方は、学校に行ってないの?」
「そりゃあな。生まれた時には既に、狗として生きることが決定してたからな」
「ハクレさん、も?」
コクコクと頷くハクレ。口を開くことはないものの、頷いたり首を振ったりして会話に応じていた。
口には出さないが、「表情がある分どっかの菓子中毒よりは分かり易いな」と生徒全員が思っていた。
「コイツが喋れねぇのは、あのクズにかけられた呪いの所為だ。首に鎖の文様がついてやがるだろ?」
「本当っすね……これ、どうにか出来ないんスか、って出来たらもうやってるっスよね、すんませんっス……」
やらかした、と言わんばかりに謝るカーティスに、クロンは微笑んだ。
「気にすんな。実際お前さんの言う通りだ。俺にはコイツを救ってやれねぇ。なんせこの呪いを解く方法は術者の殺害か、術者本人がこの呪いの掌握権を手放すかの二種類しかねぇ、然も俺はその何方も達成することは出来ねぇんだから、まさに負け狗だ」
自嘲に満ちた笑みで肩を竦めるクロンの言葉には、自身への嘲笑と失望が有り有りと込められており、魔力の放出を止めたクロンの声は、これまでずっと魔力を垂れ流して来た所為か、酷く疲れ切っていた。
不満を全面に露わにした表情でコートの袖を握る
けどな、と彼は続ける。
「負け狗でも役に立つ事は出来ると思うんだよ、俺は」
その表情は果てし無く慈愛に満ちた、何処か危うい微笑みだった。
重々しく教室の空気を揺らしたその言葉を踏み躙るように、教室のドアが開かれる。
「仕事をしているのかと思えば談笑とは。駄犬呼ばわりは流石に嫌でしょう? 与えられた役割をこなしなさいな」
一挙一動を彩る狂悪な殺意が再び顕現した。
「テメェ……戻ってくんのが早すぎるんじゃねぇのか……? 『流星』はどうした? まさか……!?」
信じられないモノを見る目で、クロンが闖入者を————黒づくめの男を金色の瞳に映す。
「えぇ、
殺戮の余韻に浸っているのか、一挙一動を隠し切れていない濃密な殺意で彩りながら、男は大袈裟な動作で己が愉悦を表現した。
その様は狂人の一言に尽きた。
そして、呆然と呟くのは生徒達だった。
「嘘、だろ……? エルクレウス先生が、負けた?」
「負けたってことは……つっ、つまり」 「…………………死んだ?」
絶望が牙を剥く。
優秀とは言えまだまだ幼い少年少女の精神に、慈悲も容赦も無くその毒牙を突き立てる。
「ククク、クックッ、クク……あぁあぁ、この愉悦、まだまだ収まりがつきませんねぇ! エルクレウス=メティアル、なんて甘美な獲物だったのでしょうか……しかし、彼はもう居ませんからね」
男は引き裂いたような笑みを生徒達へ向け、舌なめずりをして、宣告した。
「貴方達が代わりになってくれますかぁ?」
代わり。その言葉が意味する事はつまり、黒づくめの男の前言から察するに————
「……なぁ、
唐突にクロンが口を開く。
感情の一切が抜け落ちたその表情からは想像もつかない程、背筋を凍らせる氷点下の声音だった。
「何です? 折角良い気分なんですから水を差さないで頂きたいのですが?」
「いやいや、その前に聞きてぇ事があってよ……確か、この教室に転移魔術の転移先設定の方陣を組んだのは、コイツらの前の担任————バーディってヤツだったよな?」
男は不思議そうに応える。
何故そんな事を聞くのか分からない、という風に。
「えぇそうですよ? 彼は確か、煙を使った魔術が得意だったように記憶してますよ? この教室中に散布した煙で魔術方陣を組んでくれていたとか。……もういいですか? 私は早く、もう一度楽しい『狩り』を————」
「————煙ってのはな、割と長く染み込んでるもんだ……燻製ってもんを知らないわけじゃねぇだろ?」
「……っ!? まさか————」
ここに来て、両者の表情が逆転する。
クロンは獰猛な笑みを浮かべ、男の顔から愉悦が抜け落ち、漂白される。
指輪のはまった両手を広げ、クロンの決死の魔術が発動する。
「もう遅ぇよ!! 《不穏なる迷宮よ》《来る者拒まず》《去る者逃さず》《
クロンが術式を叫んだ瞬間、ドス黒い霧が本校舎全体に撒き散らされた。
それは紛れも無い大魔術。己の寿命を削って完成させた、結界魔術。
空間侵食魔術「
魔術帝国たるエルドラドに無間地獄という言葉を実現させた最恐の結界魔術。使用した空間内の様々な景色を滅茶苦茶に繋ぎ合わせ、一つの輪にする事で終わらない迷宮に変貌させる魔術。
狭苦しい牢屋のスペースに使用するだけでも、入り口が出口と化した密室となるのだ。
そしてその真の恐ろしさはこの術そのものの強度と、新たな空間の創造にある。
つまり、密室となった牢屋から二度三度と出入りを繰り返せば、ある瞬間に似て非なる別室へ入り口が繋がる、という事。
時間が経てば経つほど、迷宮はより複雑に成長し、内部の咎人を悪夢へと誘うのだ。
景色が色を失い、煤を塗りたくった様に黒ずんで行く。魔術によって品質を保たれ続けていた校舎の木製の床が、歴史を感じさせる白く輝く石壁が、霧が触れた側から色褪せ、モノクロに染まって行く。
広大な本校舎が一瞬で霧に満たされ、その色彩を失った事を感じ取ると、クロンは続け様に指を鳴らした。
途端、生徒達全員の足元へ浮かび上がる魔術方陣。
それはバーディが喫煙によって散布した煙で作り出した方陣を再利用した転移魔術。
行先は、永遠の迷宮と化した本校舎の
クロンは誰が何処へ
「ふはっ……魔力垂れ流してツラい思いした甲斐があったってもんだ……そんじゃあ、仕上げ、だ」
「!?」
不意にクロンはハクレを突き飛ばした。
魔術発動時の光が迸る中、驚愕を隠そうともせずにハクレは己の兄を見つめた。
「……達者でな」
手を伸ばし、兄の名を呼ぶハクレ。
しかし、それはクロンには届かない。
それは、他の誰にも届かない。
ハクレの伸ばした手は、爪先すら、魔術方陣の外側へは届かなかった。
極光に塗り潰される視界の中、失せつつ有る兄が、最後まで笑顔であったのを知る事無くハクレは迷宮の彼方へ消え去った。
「……行っちまったか」
クロンは一人、伽藍堂になった教室の中で呟いた。
その瞳は虚空を見つめ、生きる気力の欠片すら感じられない。
極端に魔力を消耗した事による「
「……クルス先生、だったか? 菓子食ってばっかの、あいつらのセンセーってのは」
気が付けば、彼の足は教卓の前へと歩みを進めていた。
何故だろうと数瞬思考し、理解した。
クロンが最愛の妹を託そうと思い、実行しようと決意するキッカケとなった少女が、本当に楽しそうにその人物の話をしていたから。
そんな人物が見ていた景色を、自分も見て見たかっただけだ。
そんな理由だった。
「まぁ……あの娘に、妹を宜しくなんて、言ってねぇけど、な」
彼女等と話をしている時は、
ポケットへ両手を仕舞い込み、虚ろな教室を見渡す。
「……これが、アンタの見てた景色、か」
或いは、クロン自身が写る筈の景色。
「……ふはっ、笑っちまうぜ、なあ? ハク……」
白い髪を撫で付けようと、左手を伸ばす。
然しそこに、最愛の妹は居ない。
クロンの胸中を、虚しさと寂寥が満たす。
「————不愉快です。全くもって不愉快です。……納得の出来る説明をしてみて下さい、黒犬」
クロンから見て右側の空間に、背景から滲み出る様に人影が現れる。
黒づくめだった。
クロンの勝手な行動を邪魔しなかったのは、クロンが意図的に結界の外へ閉め出し、侵入を妨害して居たからだ。
漂白された表情で、クロンの方を見向きもせず、黒づくめはただ、クロンと同じ様に虚空を見つめて詰問した。
「……飼い犬に手を噛まれるってヤツじゃねぇの? へっ、笑い種だな」
「……そうですか」
クロンの嘲笑にも、黒づくめは表情を変える事無く応じた。
色彩の失われた世界で、クロンの全てが失われた世界で、彼は、最期に自分が失くすモノの事を考えて——————いなかった。
「地獄の底で懺悔なさい。貴様には夢を見る資格は無い。許すにしても————悪夢だけです」
無言のクロン。
それは宛ら死刑執行直前の死刑囚のように、諦観極まった、ある種穏やかな沈黙だった。
彼が考えて居たことは唯一つ。
最期に一度、妹の声が聞きたかった。
それだけである。
悪夢の最中、教室で立ち竦む二人の男。
黒づくめの影が蠢いた。
教室から人影が退室した。
一人の人影が退室した。
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