06: corpse -屍体-

 ヴィジョンに視たままの、雨の池があった。

 豪雨は年老いた桜の大木を容赦なく打ち据え、叩き落とされた桜の花弁が水面を埋めていた。薄紅色のはないかだが、大木のかげになった池の上に広がっている。

 その薄紅色の面を掻き分けて、池の中に立っている人影が見えた。


 俺たちのこの能力はなぜ自由にオンもオフもできないんだろう、とあもは思う。生まれつきの指紋のように、産みの親のように、後からでは変更することができない。

 死ぬことでこの能力と決別しようとしたが、起こったのは死ではなくただ人生の質の低下だった。

 それ以前の記憶が抜け落ち、感覚の鈍麻が世界をグレイアウトさせた。世界はそこにあるが、まるで確からしく感じられない。過去はただ脳をり潰す魔物のような音響の余韻としてしか追うことができない。

 そのまましかばねのような五年が過ぎた。

 自分の能力はその他のものを盛大に巻き込んで死んだのだと思っていた。けれども実際にはただ強制終了されていただけで、今日、あの空中庭園で降り出した雨を切っ掛けに突然、また元の世界と接続してしまった。

 ただその時そばを通り抜けただけの研修生に、おまえのせいだ、と言いたくなる。

 八つ当たりかもしれない。でも本当にその影響かもしれない。極めて強い能力を持つ気象捜査官は、物理的に近い場所にいる同類に能力のドーピングをもたらすことがある。

 冷静に考えれば、八つ当たりできた筋合いではない。六係がスカウト候補者リストに入れたからあの研修生は特殊犯捜査室に入った。それが昼休みに空中庭園にいても、何も悪くない。

 天羽はすでに、研修生のフルネームを思い出している。由利ゆりつかさ。忘れるはずがなかった。まだ気象捜査官として働いていた六年前、スカウト候補者のリストに由利の名を加える決定をしたメンバーには天羽自身も含まれていたのだから。

 あの時のリストからずっと外れることなく由利は、実際にスカウトされ試験をパスして研修生になっている。こいつは部分的には俺のせいで今この池に突っ立っているのだ、と天羽は思う。

 天羽がそうだったように由利も、子供の屍体を探しながらでなければ生きていけないのだとしても。気象捜査官になるのが社会的に最も保護される道なのだとしても。

 自分が耐えられなくて崩壊した場所に新しいにえが立たされている、と思った。

 天羽は世界精霊化傾向スピリチュアライゼーションを呪う。よばいあめが世界に現れなければ雨鎮師レイン・ブレイカーも生じることはなく、こんな苦しみとともに生きる羽目にはならなかった。けれどもそれは同時に、呼雨と雨鎮師レイン・ブレイカーが揃えば見つかるはずの遺棄死体を大量に見逃すことを意味する。

 殺された子供たちを偶然頼りでしか見付けられない世界の方がいい、と言い切る鈍さは天羽にはない。知ってしまった以上はもう、見なかったことにはできない。


 その、もう後戻りできない世界の中で。

 雨と花弁が同量ずつ叩き込まれたような薄紅の池。花の降り積もる絨毯とまごう水面の真ん中で、由利が振り向いていた。

 その手におさまっている小さな頭蓋骨は、桜の花弁に彩られた器にも見える。

 世界の何もかもが霞む、この土砂降りの中で。

 それでも見える。

 骨を持つ、血の気のない白い手。

 泥まみれになった、スーツとシャツの袖。

 ほとんど真っ黒に見えるほどずぶ濡れになった身体にも、アップにした髪にもうなじにも、雨に叩かれた花弁が貼り付いている。

 そして振り向いて、こちらを見ている表情は、


 ……冗談じゃない。


 天羽は弾かれるように、自分も池に踏み込んだ。冷たい。重い。水面に分厚く積もった花弁がまつわりつく。桜の老木の下、雨音が少しだけ遠ざかる。

 由利が見ている。

 あまりにも場違いな、まるでやっと迎えにきた親を見付けた子供のような、たった今解凍され始めたような笑顔で天羽を見ている。

 天羽の視界はもう元に戻っている。雨の声も聴こえない。由利が屍体を――その骨を見付けて拾い上げたから、子供は雨を呼ぶのを止めた。今降っている雨はもう呼雨ではない。

 それで分かる。ここに来るまでの視界の異常は、由利が視たヴィジョンの混信だ。この研修生の力はあまりに強すぎる。

 子供の骨に手の届く距離まで近付いた時、由利は穏やかな笑顔のまま言った。


「あなたも雨鎮師レイン・ブレイカー? 音を聴くタイプなんですね」


 どうして、と天羽は愕然とする。

 どうしてそんなに平気そうに、笑えるんだ。


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