第5話 いらない僕

「ただいま」


 子供には重いマンションの扉を開けて中に入っても誰もいないのは分かっている。

 案の定部屋の中は薄暗く、人がいる気配も暖かさもなかった。

 壁に掛かっている正確に時を刻む電波時計を見る。

 もう午後四時半、塾に行かなきゃ。

 一息つく暇もなくランドセルを塾用バッグにかえ、キッチンのテーブルに置いてあったお金を持って部屋を出た。


 マンションのすぐ近くにあるバス停からバスに乗る。

 同じ塾に通う同級生達はお父さんかお母さんが送迎してくれるけれど、僕のところはお父さんは夜まで仕事だし、お母さんも弟のことで忙しい。

 一つ下の弟、秀人は僕よりも背が高く足も速くてサッカーがとても上手だ。

 サッカークラブに入っていて学年が上の子より凄いから、なにかの代表に選ばれたとか言っていた。

 僕はよく知らないけど。

 今日も遠いところにお母さんが運転する車で練習に行っている。

 近所の人もクラスメイトも秀人のことを「凄いね!」「かっこいいね!」と褒める。

 お母さんは「秀人は自慢の子だ」と言っていた。

 テストで百点をとってまわりの人に褒められた僕のことは「あの子は勉強くらいしかできないのよ」と言っていた。

 僕くらいの勉強が出来る子はいっぱいいるけど、弟ほど注目される子はあまりいないから凄いんだと思う。


「秀人は特別だから」


 お母さんがよく言う言葉だ。


 塾に着くと一時間授業を受け、最後に小テストを受けた。

 今日はぼんやりしてしまって良い点数がとれなかった。

 補修をしているといつの間にか誰もいないし、窓の外が暗くなっていた。

 この地域のバスの終わりは早く、塾が終わってすぐにバス停に向かわないと間に合わないのだが――。


「もう行っちゃった……」


 バス停まで走ったけれど行ってしまった後だった。


「どうしよう……」


 お母さんに乗り遅れたと言うときっと叱られる。

 でも歩いて帰るには遠いし時間がかかるから、お母さん達より早く家に着くことは出来ない。

 どっちにしろバレるしかないようだ。

 連絡が遅いと更に叱られるから、観念してスマホからお母さんに連絡を入れた。


「ええ? もう、何やってんのよ。そっちに寄るけど、渋滞していて遅くなるから塾で待たせて貰いなさい」


 不機嫌そうな声で言われたがあまり叱られなくてホッとした。

 バス停から塾へと引き返し、お母さんが迎えに来てくれるのを待つことにした。

 塾の前に着き、窓から教室を覗くと教室の電気は消えていた。

 奥の部屋の灯りがついているから先生はいるようだ。

 でも、もう帰る直前のようだし先生も早く帰りたいだろう。

 以前も教室で待たせて貰ったことがあるけれど僕がいるから閉めることが出来ず、先生も帰れなくなった。

 あの時先生は「大丈夫だよ」と言っていたけど、僕の見ていないところで凄く面倒臭そうな顔をしていた。

 また迷惑をかけるのは嫌だから外で待つことにした。


 もう夜の七時を過ぎているからお腹が空いてきた。

 街灯の下にいるけど周りは暗く、人があまりいなくて静かだからちょっと怖い。

 立っているのが疲れたから座りたいけど座れるようなところはないし、ズボンが汚れると叱られるから道には座れない。


「君、どうしたんだい?」


 迎えを待って一時間くらい経ったところで自転車に乗ったお巡りさんに声をかけられた。


「お迎えを待っています」

「君のことを見かけて心配してくれた人がね、お巡りさんに電話をくれたんだよ。ここの塾はもうとっくの昔に終わったんじゃないかい?」

「……道が渋滞してるから遅くなるって」

「そうか。うーん……この辺りは人通りが少ないし、もう暗いから一人でいるのは危ないよ。お母さんかお父さんの連絡先、分かる?」

「お母さんに電話して、待ってるように言われています」

「じゃあ、今お母さんと電話出来るかな?」

「…………」


 どうしよう、塾の中で待っていろって言われたのに外にいたから叱られるかな。

 お巡りさんの言う通りに電話をしてもいいのかな。

 このお巡りさん、ニセモノとかじゃないよね?

 混乱して電話してもいいか迷ったけど……電話することにした。


「ん~。お母さん、出ないね」


 電話したけれど、お母さんは出なかった。

 今運転中なのかもしれない。


「お父さんは?」

「お仕事です」

「連絡先分かる?」

「はい。でもお仕事してます……」

「電話が出来ないんだったら、お巡りさんと一緒に来てくれるかな? 君の学校に連絡してみるから。やっぱり一人で待っているのは危ないからね」

「あの、でも……」


 仕事中のお父さんのところに電話がいったら迷惑だと思う。

 だからかけない方がいいけど、かけないとお巡りさんと警察に行かないといけなくなっちゃう。

 どうしよう、どうしよう。

 しばらく迷ったけれど、結局お父さんに電話してみることにした。


 お父さんには電話が繋がった。

 お巡りさんがお父さんと電話で話している途中にお母さんがお迎えに来てくれた。

 お母さんはお巡りさんがいることにびっくりしていた。

 お巡りさんとお母さんは少しお話をしていた。


 車に乗り、帰っていると「お母さん、お巡りさんに怒られちゃったじゃない。なんで塾の中で待ってないのよ」と叱られた。

 ごめんなさいと謝ると許してくれたけど、家に帰るとお母さんは僕のせいでお父さんにまで怒れてしまって……。


「仕事があるのに困るよ。警察から電話だなんてみっともないし」

「そんなこと言われたって、渋滞してたんだから仕方ないじゃない! それに私は塾の中で待つように言っていたのよ?」


 悪いのは言うことをきかなかった僕だ。


「お父さん、僕が外で待っていたからお巡りさんに見つかっちゃったんだ。ごめんなさい」


 謝るとお父さんは「お前は悪くないよ」と頭を撫でてくれた。

 お父さんとお母さんはまだ話をするようだ。

 僕のせいでケンカになったらどうしよう。

 不安になったけれど「自分の部屋にいなさい」と言われたから、部屋に戻って宿題をすることにした。


「兄ちゃん、おれの宿題もやってよ」


 部屋は秀人と一緒だ。

 秀人はベッドに寝転がりながら今日の帰りに買って貰ったという漫画を読んでいた。

 試合で点をとったからご褒美で買って貰ったらしい。

 僕も欲しかったけど、特に褒められることをしていないから欲しいと言えなかった本だ。

 女神様にお願いされて異世界で勇者になる冒険のお話。


 秀人とお母さんは合宿に行っていて、お父さんも仕事が忙しくて帰ってこられなくて一人だった日。

 夜中に起きたら静かなのが怖くなってテレビをつけた。

 その時にやっていたアニメがこの冒険のお話だった。

 異世界に行ってモンスターをバンバン倒して、皆に凄いって言われて、皆に必要とされながら生きていく。

 いいなあ。

 僕も異世界に転生したいなあ、と思った。

 もっと知りたくてCMでしていた漫画が欲しくなった。

 買って欲しいけれど言えないし、おこづかいを貯めて買おうと思っていた漫画をあっさり秀人が手に入れているからちょっと腹が立った。


「いやだよ。宿題は自分でやらなきゃ先生に怒られるよ」

「大丈夫だよ。内緒にしたらバレないって」

「僕はやらないから」

「なんだよ。兄ちゃんのケチ! おれはサッカーで大変なんだから宿題くらいやってくれたっていいじゃん」

「そんなの知らないよ」

「ひどっ。お母さんに兄ちゃんがおれがサッカーするの手伝ってくれないって言っちゃおうっと」


 別に僕が頼んでサッカーをやって貰っているわけじゃない。

 無視をして宿題をした。

 秀人は本当に告げ口に行ったのかお菓子をとりに行ったのか知らないが部屋を出て行った。

 秀人と入れ替わるようにお父さんが部屋に来た。


「お? もう週末の分の宿題やっているのか。お兄ちゃんはえらいなあ。……ちょっといいか?」


 怒っているようには見えないから、お母さんとはケンカにならなかったんだろう。

 ホッとした。


「お父さんな、明日の土曜日は休みになったんだ。二人でどこかに行こうか」

「え? 二人?」

「ああ。お母さんと秀人はまた試合があるみたいだからさ。それに勉強を頑張っているお兄ちゃんにご褒美をあげたいんだ。何がいい?」


 ご褒美?

 僕、何もしてないのに貰えるの?

 やったー!

 何が欲しいか。

 すぐに浮かんだのは――。


「漫画。あれと同じものが欲しい」


 僕が指差したのは秀人がベッドの上に置きっ放しにしているあの冒険の漫画だ。

 秀人に借りたらどんな話かは分かる。

 でも……どんな話か分かっていても、僕は自分のものとして持っておきたいのだ。


「同じ? 借りたらいいんじゃないか?」

「ううん。自分のが欲しい」


 お父さんは何か考えてるようだったが、「分かった」と肯いてくれた。


「じゃあ、本屋に行って秀人が買っていない分も買って揃えよう」

「いいの?」

「ああ。漫画買うなら問題集買え! って言いそうなお母さんには内緒にしとこうな? そうだ、ちょっと遠出してショッピングモールまで行こう。本を買ったら中にあるゲームセンターで遊ぼうか」

「ふふっ、うん!」


 にやりと笑ったお父さんにつられて僕も笑ってしまった。

 ご褒美も嬉しいけど、お父さんと二人きりなのも嬉しい。

 家族皆がいいって言わないと叱られるかも知れないけれど、お母さんは秀人ばかりだからお父さんは僕と一緒にいてくれてもいいと思う。

 明日が楽しみだ!


 お父さんが部屋を出て行ったあと、秀人が戻って来た。


「ほい、兄ちゃんの分」


 そう言って渡して来たのは食べかけのポテチだった。

 お母さんに半分こしろと言われたのだろう。

 広げてみると割れていたり小さいものばかりだった。

 分けたというよりこれじゃ食べ残しだ。

 秀人をちらりと見るとツーンとそっぽを向かれた。

 いつもなら腹が立つけど、明日ご褒美を貰えるのが嬉しいからどうでもいいや。

 それに秀人は本当は全部食べようとしたけど、それは悪いとちょっと残したんだと思う。

 僕の勘違いかもしれないけれど、そう思ったらやっぱり僕がお兄ちゃんをしてあげなきゃなあと我慢できた。




「兄ちゃん、おはよう!」

「あれ……秀人?」

「兄ちゃんがビリだぞ。早く準備しろよ!」

「?」


 朝目覚めると、昼からの練習試合のためにもう家を出ているはずの秀人がいた。

 どうしてだろう。

 リビングに行くとお父さんとお母さんもいて、どこか出掛ける準備をしていた。


「おはよう……」


 挨拶をするとお父さんが僕の前にきた。


「お兄ちゃん。買い物だけど、また今度でいいかな?」

「え? どうして?」

「秀人の練習試合、日程が変わったみたいなんだ。それで今日は皆で遊園地に行くことにしたから。遠いから遊園地の近くのホテルにお泊まりになる。お兄ちゃんもごはん食べたり準備しようか」

「…………」

「お兄ちゃん?」


 お父さんと二人じゃなくなった。

 本を買ってくれるのも楽しみにしていたのに……。

 遊園地なんて行きたくない。

 僕は悲しくなって黙ってしまった。


「どうした? 遊園地は楽しいぞ? 本はいつでも買えるけど遊園地はあまりいけないよ? お父さんの仕事が忙しいし、秀人のサッカーの都合もあるから皆で行ける機会は中々ないから」

「……うん」


『いつでも』っていつ?

 また今度っていつになるの?

 言葉で言えないことがぐるぐる頭の中で回る。


「全くもう! 遊びに連れて行って貰えるんだから暗い顔しないの!」


 ご飯を食べているとお母さんに叱られた。


「早く行こうぜ~!」

「秀人、あんまりはしゃぎすぎるなよ。足怪我したら大変だろう」


 お父さんも楽しそうだ。

 僕は遊園地なんて行きたくないのに。

 やっぱりお父さんにとっても秀人が特別なんだ。


 遊園地に着いてからも全然楽しくなかった。

 僕は観覧車に乗りたかったけど、人がたくさん並んでいるから他に行こうと言われた。

 でも秀人が乗りたいと言ってジェットコースターは同じくらい人が並んでいるのに待つと言う。


 僕は乗りたくないからベンチで待つことにした。

 お父さんが僕と一緒に待つと言ってくれたけど、秀人が「お父さんとがいないと嫌だ!」と怒ったから僕は一人でいいと言った。

 並んでいる列から見えるところにいてね、と言われたからその通りにしていたけど、三人が進んで見えなくなったところで僕は観覧車を見に行くことにした。

 近くだから皆が降りて来る頃には戻って来られる。


「乗りたかったな」


 真下から見上げた観覧車は凄く大きかった。

 あの一番高いところから景色を見たかったなあ。


「ほら、君。ちゃんと並んで」

「え?ぼ、僕、違いま……」


 観覧車の列の近くにいたら、誘導係のスタッフさんにちゃんと並べと列の中に入れられた。

 家族連れの中の一人だと思われたみたいだ。

 並んでなかったと言えずにいるうちに流され、かなり先に進んでしまった。

 買ってくれたフリーパスがあるからお金には困らないけど……どうしよう。

 早くベンチに戻らないとジェットコースターから降りて来た皆が心配する。

 そう思ったところで本当に心配するかな、と思った。

 動いた、と怒るだろうけど心配はしないんじゃないかな。

 だったらこのまま観覧車に乗っちゃおうと思った。

 僕の番が来て、「一人です」と答えるとびっくりされたけど一人で乗せてくれた。

 カタカタ音を立てながらゆっくりと上がってく。

 凄くわくわくする。

 秀人がいると揺らそうとするから一人で乗ることが出来てよかった。


「わあ……」


 頂上からの景色は最高だった。

 雲ひとつない青空の中にいるようで、下には色んなアトラクションが見えて、たくさんの人が動いている。

 顔はあまり見えないけれど皆楽しそうだ。


「あっ、お父さんだ」


 ジェットコースターの方を見ると、三人が乗り終えて階段を降りているところだった。

 三人仲良く喋っていて凄く家族らしかった。

 ふと「あそこに僕はいなくてもいいんじゃないか」と思った。

 そんなことを考えてしまった瞬間、今日買って貰えなかった漫画のことを思い出して悲しくなった。


「異世界に行きたいな……」


 僕がいなくなっても誰も困らない。

 だったらこのまま、観覧車で異世界に行ければいいのに。

 後半はあまり景色を見ることがなかった。

 もう一度乗りたい。

 今から勝手に動いたと叱られることになるのかと嫌な気持ちになった。

 だから冒険の話のことを考えた。

 もし、僕がこのまま異世界に行けたとしたら……。


 異世界に行ったらモンスターと戦わなければいけない。

 強い剣が欲しいな。

 今日の服はお母さんに着なさいって渡されたもので動きにくいから、学校の体操服とかの方がいい。

 お母さんの選ぶ服もあまり好きじゃないし。

 勉強したいから教科書も持って行けたらいいなあ。

 あ、でも異世界の服や本も欲しい。

 異世界の生き物もみたいし友達も欲しい。

 それに仲間……あの主人公の周りにいるような、家族みたいな仲間も欲しい。

 そんなことを考えていたらあっという間に到着した。

 

 自動なのか勝手に観覧車の扉が開く。

 あれ?でも乗った時はスタッフさんが鍵をしていた気がすると思いながら降りたところで目の前が真っ白になり――。


 気がつくと知らない場所にいた。

 着ている服も体操服になっているし、教科書がいっぱい入っているのか重たいランドセルもあった。

 あれ、これってさっき考えていたことじゃ……。


「勇者様方、お身体の具合はいかがでしょうか」


 その場にいた綺麗な女の人に僕は勇者と呼ばれた。

 夢かな? と思った。

 それとも死んじゃった?

 だから転生できた?

 でも、赤ちゃんになっていないし僕のままだから転移? ……どっちでもいいや!

 僕が勇者だって。

 勇者……勇者!

 勇者って凄く特別だよね?

 あの物語の主人公のようになれるんだ!

 秀人より凄い!

 凄く、凄く特別だ!


 でも、異世界に来たのは僕一人じゃなかった。

 僕と一緒に地球から来たというルイ君は秀人と同じ、元から特別な人だってすぐに分かった。

 でも、僕だって勇者だ。

 そう聞いていたから頑張った。

 運動は苦手だったけれど「特別」になれるなら頑張れた。


 でもやっぱり違った。

 僕は勇者じゃなかった。


「だからあなたは……いらないわ」


 僕は異世界でもいなくてもいいらしい。

 分かってたのに……。


 特別になりたい。

 皆の特別じゃなくてもいい。

 一人でもいいから。

 誰かの特別になりたい。


「…………ん」


 頭が痛い。

 僕は寝てた?

 何をしていたっけ?


「……起きた?」


 おでこに暖かい手の感触がした。

 なんだか頭の下も暖かいし……柔らかい。

 それに人の気配が凄く近い。

 誰かが倒れている僕に膝枕をしてくれているみたいだ。

 誰だろう?

 凄く優しそうな声だった。

 僕は瞼も重いなあと思いながらゆっくり目をあけた。

 するとそこにいたのは――。


「あわああああ起きた! 大丈夫!? 痛いところない!? あの、私は不審者じゃないから!」


『この子は私が育てます! 私が立派な勇者にしてみせます!』


 僕を抱きしめてそう言った、あの物語の女神様に似ているお姉さんだった。

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