第4話『昼間の顔』

 太刀川葵の数少ない自分で誇れる長所に、風邪を引いたことがない、というものがある。


 ソファで寝ていようが、風邪を引くことなく、いつものようにスッキリと起きることができた。


「んー……っ! たまには、ソファで寝るのも悪くないなぁ」


 意外と体も傷んでいないし、ベストコンディション。体の関節を一通り回して、捻り、それを確かめた。


 さて、と一息吐いて、葵はキッチンに置かれた食パンに、冷蔵庫から取り出したマヨネーズをぶっかけて適当な朝食を取り、床に放置された制服に袖を通した。


 そして、制服のポケットに入っていた、牛乳瓶のようなメガネをかけて、右手の中指に填められていた指輪を確認すると、指を弾いて音を鳴らす。


 葵の金色だった髪が、一瞬で髪色を変えた。それは、葵の持っているもう一つの異端技術ブラック・アート染髪環カラーリングの力だ。


 装備して指を鳴らすことで、髪色を自由に変える事ができるという、異端技術ブラック・アートにしては地味な効力だが、葵の生活には必需品。


 学校へ行く準備を整えたが、そこでやっと環奈をどうしようかという考えに思い至る。


 護衛対象ではあるが、さすがに学校へは連れて行く事ができない。そもそも、彼女にだって通っている学校が別にあるだろう。なので、テーブルの上に置き手紙を残すことに。


 自分は学校へ行く。でかけるなら、まっすぐここへ帰れ。そう書き残し、葵は学校へ向かった。



 葵の学校はなんの変哲もない市立高校だ。特に強い部活があるわけでも、進学に強いわけでもない。大体の人間が『偏差値が足りているから』あるいは『家から近いから』『友達が通うから』という理由でしか志望しないような、どこにでもある学校。


 葵の家から歩いて二〇分ほどの場所にあり、歓楽街から抜けて、葵も投稿する生徒たちに混じり、普通の高校生みたいな顔をして歩く。


 校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替えて、自分が所属している二年B組へ。


「おはよーございまぁーす」


 と、葵がドアを開けて挨拶しても、周囲に応えるクラスメイトは誰もいない。


 いつもと変わらないな、と少し満足感を覚えながら、葵は自分の席である教室のど真ん中に腰を下ろした。


「さてっ、今日も頑張ろ」


 誰にも聞こえないよう、小さく自らに気合を入れ、スクールバックから教科書とノート、筆記用具を取り出した。一時間目は数学。葵が最も苦手とする教科の一つである。だが、苦手だからと落とすわけにはいかない。


 ノートを見返し、教科書の問題を解こうと頑張る。普通の市立高校で、そこまで勉強に熱心な生徒は葵しかいないため、少し目立っているが、ガリ勉に付き合って貴重な休み時間を浪費しようという奇特な高校生はそういないため、葵は誰にも話しかけられず、勉強に集中できた。


 学校にいる時は勉強。これが、葵の決めたルールである。


 さっぱり解けない問題に四苦八苦しながら、少しずつノートを消費していると、担任の教師が入ってきて、出席簿を手で叩いて「席につけー」と、やる気の無い声を出す。


 この、みんなが余裕を持って生きているような感じが、葵は好きだった。


 クラスメイト達が席について、まだ薄っすらと喋っている人間がいる中、担任がホームルームを始める。


「えー、今日は、ちょっと急なんだが……このクラスに転校生がやってくる

ことになった」


 その言葉にざわつき、色めき立つクラスだが、葵だけはなぜか、別の意味で背筋がざわついていた。


 用心棒として生きてきた集大成とも言える、危機管理能力である。要するに、半端じゃない嫌な予感。


「先生ッ! それって、男ですか、女ですか」


 と、クラスでも多大な発言件を持つ、相谷くんが手を挙げると、教師は「女子だ」と言った。


 女に飢えた生物である男子高校生は、その言葉に盛り上がりを見せ、女子たちも友達になれるだろうかと噂話を始める。


 だが葵だけは、使っていたシャーペンを握りしめ「違いますように、違いますように」と願いながらうつむいていた。


「さて、それじゃあ、入ってきてください」


 担任教師が呼ぶと、前の扉がガラガラと音を立てて開き、一人の女子生徒が入ってくる。


 ――そして、それは予想通り、この学校の制服であるブレザーを着た、環奈だった。


 ざわめきが増し、少しうるさいくらいになっている中、葵だけは

「あぁー……」と机に突っ伏し、何かを呪っていた。


 自分を用心棒だと知っている女子が、口封じの前に転校してくるというのは、彼にとって悪夢だから。


 環奈は葵を見つけても、驚いていない。つまり、計画的に転校してきたのだ。教団の横に立って、自分の名前を黒板に書き、恭しい品のある動作で頭を下げた。


「藤峰環奈です。みなさん、よろしくおねがいします」


 逃げ出したい気持ちでいっぱいになったが、そんなことをすれば目立つだけ。

 彼女が余計な事を言わないように祈りながら、自分の席である窓際の一番後ろへ歩いていく環奈を見送った。


「よし、それじゃあみんな、藤峰さんと仲良くするように」


 それだけ言い残して出ていく担任。まだこの学校に転校してきたのは間違いだった、という可能性を探していた葵は、それで完全に諦めることになった。


 ホームルーム後の短い休み時間。転校生が来ているその時間は、クラスの中心人物たちがこぞってそのグループに環奈を引き込もうと話しかけに行く。葵もどこかのタイミングで口封じをしようかと思っていたのだが、それでは目立つだけ。今はまだタイミングが悪いと、落ち着かない心で勉強を続けた。


 方程式を解こうと頑張りながら、うんうん唸っていると、なぜか環奈がクラスの中心人物達に「ごめんなさい、ちょっと用事があるの」と言い、葵の前に立つ。


 なにしてんだ、こいつ。そう言いたかったが、葵はおとなしくて地味な性格を演じなければならない。


「……なにか、用?」


 と、戸惑っているように演技しながら、環奈に問いかけた。


「ここに転校すること、言ってなかったわね、と思って」


 あぁ、今、知り合いだってバレたな。と、葵は肩を落とした。しっかり聞き耳を立てていた周囲のクラスメイト達は「太刀川が、藤峰さんと知り合いなのか!」と、心底驚いたように、声を絞る努力もせず叫んでいた。


「い、言う必要は別にない」

「あらそう? その割には、酷く動揺していたようだけど」

「……急だったからね」


 学校に居てくれたほうが、都合がいいのは確かだが、それは用心棒としての意見だ。


 高校生としては、その立場が危ぶまれるので、早急に他の場所へ転校してほしいと思っている。


「一応言っておくけど、俺に喋りかけないでもらえるかな。勉強の邪魔になっちゃうからさ」


 と、葵は再びノートに向かった。

 環奈はそれを見て「その問題、間違ってるわよ」と、ノートに指を置く。


「……あとで先生に見てもらうから、気にしないでくれ」

「藤峰ちゃーん。そいつは話しかけても無駄だよッ。成績悪いくせに、ガリ勉なんだよ」


 先程、先生に質問をしていた相谷くんが、そう言ってクラスの笑いを取った。一体それのなにが悪いんだか、と、葵はよくわからなかった。が、なぜか反論したのは、環奈だった。


「それの何が悪いの? できないから、頑張ってるんじゃないの」


 まさに自分が思っていたことと、同じ言葉がいけ好かない女の口から飛び出し、かなり驚いてしまう葵。


 相谷くんはまさか環奈が葵をかばうようなことを言うとは思わなかったのだろう、口と目を大きく開いて、信じられないものを見るように、環奈を見て、一瞬葵に恨めしい視線を向けてきた。


 だが、環奈は葵の髪を見ていて、それに気づかない。


「……髪、染めた?」

「俺は髪を染めた事はないです」


 しれっと嘘を吐く葵。


 高校の校則で染髪をしてはいけないのと、目立ちたくないという理由から、わざわざ異端技術ブラック・アートで染めているのだ。


「あなた、意外と勤勉なのね。少し、見直したわ」

「……そう思うんなら、勉強させてくんねえかな。留年にリーチかかってんだよ」

「あら、ごめんなさい」


 葵が留年しかけているという事実が面白かったのか、環奈は口元を押さえ、くすくすと笑って、席に戻った。


 やっと質問ができるタイミングになったのに、環奈を囲んでいるクラスメイト達が質問するのは、たった一つ。


 太刀川葵と、どういう関係だ。だけである。


 そしてそれは、葵にもやってきた。環奈に質問をしているのは、クラスの顔とも言える生徒達。そして、葵にやってきているのは、なんとかして環奈と近づきたいが、その一軍に近寄る度胸がない、二軍三軍の男子生徒である。


 なんだかナメられているような気がする上に勉強の手を止めて「俺に話しかけるな」と言わなければならず、気分は大層よくなかった。



  ■



 昼休みになった。


 普通の高校生は、放課後の予定だったり、芸能人の話だったり、思い思いの楽しい話をしているのだが、葵はというと、ゼリー飲料を一〇秒ほどで飲み干し、机で突っ伏して寝るのが常だ。


 しかし、環奈がいる今は違う。


 昼休みのチャイムが鳴るや否や、葵の前に立ち「学食に連れていきなさい」と、お嬢様丸出しの振る舞いで要求されてしまい、連れて行くしかなかった。


「……あのよぉ、環奈」


 葵は、廊下を歩きながら、隣に並ぶ環奈へと、少し小さめの声で話しかける。


「俺が裏の人間だって、周囲にバレたくないのはわかるよな?」


「ええ」先程までかき回すようなことばかりやっていた少女とは思えないほど、物分りよく頷く。「さすがにそれくらいはわかるわよ」


「ほぉ、わかるんだな? だったら、俺がわざわざ異端技術まで使って、髪黒く染めて、こんなクソダサい眼鏡してる理由も、なんとなくわかるよな?」


「だったらなんで制服で仕事してるのよ」


「……いつもは違うんだよ」


 そう、環奈と出会った日、葵は確かに制服で仕事をしていた。だがそれは、着替える時間がなかったからだ。いつもは一度家に帰って、夜の街でも浮かない格好に着替えるのだが、昨日は補修を食らってしまい、逃げられなかった。


 そしてそれは、別にその日に限ったことではない。たまーに、着替えるのが面倒だからと、制服で仕事をする時がある。昼間の姿と夜の姿、それを結びつける人間はいないだろうと踏んだのだ。


 つまり、それだけ昼間の変装に自信があるという意味でもある。というよりも、昼間の葵に興味を持つ人間がいないはずだから、いいかと思ったのだ。


「いいか、俺はどうしても高校を卒業してえんだ。だから、裏でのことがバレると退学になると困る。悪いが学校で俺に関わるのはやめてくんねえか」


「それは別に構わないけど、護衛はしっかりしてくれるんでしょうね」


「たりめーだ。俺はプロだぜ。それに、影からこっそり守ってた方が都合がいいんだ」


「ふうん……。ならそうさせてもらうわ。あなたがひとりぼっちで寂しそうだから、声かけてあげたのに」


「はぁ?」葵は首を傾げて、環奈の顔を観た。「学校は勉強するところだろうが。寂しくなる理由がどこにある?」


 どこかズレた少年、太刀川葵の正論である。

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