第3話『最も強い男』

「それで? あなたの家はどこなの」


 環奈の言葉に、葵は地面を指差した。


「俺の家はここだけど」


 周囲を見渡すが、どうやら家という言葉に納得できるだけの設備を見つけられなかったのか一〇秒ほどたっぷりと時間をかけて室内を観察する環奈。

 そうして出た言葉が


「ここでどうやって生活するのよ」


 である。


 それはそうだろう。ここは元ヤクザの事務所。


 かろうじて生活感があるのは、部屋の隅にある簡易キッチンのみ。風呂場もベッドも、トイレもない。


「俺の自室が、あっち」そう言って、葵は部屋の奥にある木製の扉を指差した。「あっちには風呂もトイレも、ベッドもあるんだ」


「なら、あそこは今日からしばらく、私の部屋ね」


 悪びれもせずに言う環奈に、葵はまた面食らってしまい、目を見開く事しかできなかった。

 なんでこの女は、こんなに強気なんだ? と、驚いてしまったのだ。


「……じゃあ、俺はどこで寝るんだよ」


「あなたなら、ごみ捨て場でだって寝られそうよ」


「ふざけんなッ。俺のベッドだぞ」


「だったら買ってくればいいじゃない。一千万あるんだから」


「馬鹿野郎! あるもんに金使うなんて、もったいねえだろうが」


「だったらソファで寝たら?」


 何かを言おうとした。一発逆転の一言を。


 しかし、この状況でそんなものはない。一千万あるんだから買え、というのも、葵がケチであることを差っ引けば正論である。お前が寝ろよ、というのは、葵に言える一言ではない。女を置いて自分一人ベッドで寝るというのなら、それはもう太刀川葵ではなかった。


「……わかったよ。俺がソファで寝りゃあいいんだろうが!」


 毛布くらいあっただろう、と、葵は立ち上がる。


 それを部屋に案内すると受け取った環奈も立ち上がり、二人で葵の自室に向かった。

 葵の自室は一〇畳一間の洋室。ベランダへ出る窓と、寝心地の良さそうなベッドに、テレビなどの娯楽品が置いてあるような、一般的な部屋である。


「……用心棒の部屋っていうのも、あんまり一般人と変わらないのね」

「一応高校生なんで」


 そう言いながら、葵はベッドの上にあった毛布を回収する。そこから、ひらりとチラシが落ちる。


 環奈はしゃがみ込むと、床に落ちたチラシを拾った。『デリバリーヘルス・エンジェルタッチ』のチラシである。目元を隠した女性が、豊満なバストを両手で押さえて隠している、いわゆるピンクチラシ。


「……なにこれ」

「あっ、それ? 俺が用心棒たまにやってる店のチラシ。サービスしてくれるっていうんだけど、もうちょっと借りを貯めてから使おうかなーと思ってさぁ」


 ヘラヘラ笑う葵。女性相手に風俗の利用を普通にほのめかす辺り、彼には常識が欠けていた。そういうものに耐性がなかったのか、環奈は顔を真っ赤にして、肩を震わせると、葵の胸に思い切りそのチラシを叩きつけた。


「いったッ!?」

「バッカじゃないの!? 今その口で高校生って言ったばかりでしょ!?」

「えっ、えー……。そんな事言われてもなぁ……」


 そもそも、葵はこういう店で生まれた身なので、あまりピンと来なかった。裏風俗店のチラシなので、金さえ払えば相手が誰であろうとお客様。だから自分が行ったっていい、と思っている葵は、なぜ怒られているのかもわかっていない。


「……あなた、本当に大丈夫なんでしょうね! 坊や太刀川葵、この街で名の知れた用心棒って、本当にあなたなの!?」


「名が知れてるかは知らないが、太刀川葵は間違いなく俺だけどな。大丈夫だって。環奈が惚れるような仕事ぶり、約束するから」


「絶対そんなことはありえない! とにかく出てって。あなたと同じ空間にいるのも遠慮したいわ!」


 と、環奈は葵を押し出し、バタンと鍵を閉めた。

 シン……と静寂が耳を刺し、葵はぼりぼりと頭を掻く。


「なぁーんで俺が、俺の部屋から追い出されなきゃいけねえんだ?」


 まあ、小さい事か。


 切り替えの早い葵は、制服を床に放り投げ、パンツ一丁になり、毛布にくるまってソファで眠った。風呂は明日でいいや、と。 



   ■



 そこは超高層ビルの最上階に位置する、社長室。

 窓からは夜の街がすべて見通せるほど高く、まさに支配者が住む空間。


「なぜ、あの娘を逃がすように指示した?」


 恰幅のいい、焦げ茶のスーツに金に似た色合いのネクタイをした禿頭の男は、まさにゴッドファーザーという風体をしていた。だが、威厳に溢れていなければならないその顔は、なぜか心配そうに眉が八の字になっていて、どことなく情けなさが目立った。


 その彼が声をかけたのは、ソファでペディキュアを塗っている一人の少女。


 少女は長い髪を揺らしながら、正面に立つ禿げた男を、まるで獲物を狙う蛇のように蠱惑的な目で見つめた。


「最初に言ったはずよね? このヤマに私が協力する条件は、太刀川葵を巻き込むこと。あの子には、どうしても太刀川葵に依頼を持ち込んでもらわなきゃならなかったのよ」


 頭をガリガリと音を立てて掻き、机を思い切り叩いた。


「それがわからないんだよ! 調べたさ、その太刀川葵ってガキの事は。どこにでもいる、ただのチンピラだ。勝負をかけても、一瞬でカタがつく。こっちの圧勝でだ!」

「だったらそうすればいいじゃない。楽勝なんでしょ?」


 足の爪に塗られた青い塗料を、うっとりと楽しそうに見つめながら、少女はため息を吐いた。


「そっ、それは、そうだが……」

「……一度は頷いたんだから、後からガタガタ言わない。ダサいわよ」


 女のダサいという言葉が男に与えるダメージは無視できないレベルだ。

 少女はそれをわかっていて、わざと口にした。男の思考を操る為に。


「私の協力がなかったら、あなたがその席に座っている事は一生なかった、という事をお忘れなく」


 苛立っているが、男は少女に何も言えないまま、黙ってうつむいていた。


 少女はそこで、心底から「あぁ、ほんとにダサい男」と見下す。座ったことのない高みにいるから尻が落ち着かず、目先の欲に囚われ少女の口車に乗り、今になって不確定要素である太刀川葵に対する恐ろしさを想像しているのだ。


「なぜ、お前はそこまでして、この件に太刀川葵を巻き込んだ?」


 そこでやっと、少女はペディキュアから目を離し、男の目をジッと見つめた。


「……彼がこの街で、一番強い男だから」


「はぁ?」


 だが、少女の真剣な眼差しは、男に届かない。わけがわからないことが、二つあったから。


「何を言ってる。あんなガキより強い連中は山ほどいる。爆弾娘グレネードと名乗ってる殺し屋は、歳も近いが実績が遥かに上だし、それだって業界最高峰の殺し屋というわけじゃ――」


「そんな連中より、ずっと強いの」


 少女の計画は、今まで具体的で、理詰めだった。


 だからこそ、臆病と打算で生きてきた男は、その計画に従い、今では街の支配者となれたのだ。だが、こと太刀川葵に関しての発言は、なぜかすべてが感情的。それが彼には解せない。


「つっ、強いという男なら、この件に尚更巻き込むべきじゃ――」


「この街の支配者になっても、太刀川葵を潰してないんじゃ、砂上の楼閣なのよ」


 少女の発言の意図がさっぱりわからなかった。


 こうまで少女が買っている太刀川葵は、そんなにとんでもない男なのかと調べに調べた。だが、出てくる答えは「ガキの割にはやるな」でしかない。


「安心して。それでも、帝王になるのはあなたよ。あなた以外、誰がなるって言うの?」


 少女の慰めとも取れる言葉に、男はすがるように頷いた。

 安心はまったくできていないが、現状、それは事実ではあったから。

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