第2話『依頼人・藤峰環奈』

 好物はタダ飯タダ酒を自称する太刀川葵は、たっぷりと弁当を喰らい、酒を飲み、ご機嫌で裏スロ店を後にした。


 夜の街は相変わらず賑やかで、周囲には欲望をむき出しにした人間や看板が並んでおり、その日の快楽と日銭を得ることに、皆必死だった。


 怖いと思う人もきっといるだろう、一歩踏み出せば悪意がむき出しになるその街で、葵は生まれ育ったのだ。だから、歩いているだけで、少し安心する。


「あっ、坊や」


 キャッチの呼び込みか、と一瞬思ったが、葵の前に立ったのは、厚手の白いコートを羽織った二〇代そこそこの女性だった。近くの風俗店に務める女性で、葵とは数年前からの顔馴染み。煙草の吸い殻やチラシのゴミがばらまかれている汚い道に立つ女性は、なぜか皆美貌に恵まれている。


「ちっす、姐さん」

「その姐さんっての、やめてよ。なんか急激に歳取った気分」

「俺にとっちゃ、夜の街で働く女性は、みんな姐さんなんすよ」


 そう言うと、女性は顔をほころばせて笑う。


「仕事帰り?」

「そっすよ。結構ボロい仕事で、美味い飯までついてきました」

「なら、遊んでかない? サービスしてくれるよ、坊やなら」

「残念ですけど、制服なんで」


 葵が胸を張ると、女性は少し前に突き出た赤いネクタイを引っ張った。


「ほんっと、よくわかんないわねえ。高校行く必要あるの? 学が必要な仕事をするわけでもないんでしょ?」

「いやいや、学歴は必要ですよ。俺の仕事も、いつまで続くかわかんないし。表に出る時、高卒の学歴くらいはほしいし」


 ふうん、と鼻を鳴らし、女性は腕時計を見た。高そうな細身の時計は、すでに天辺を指している。


「っと、休憩終わっちゃう。それじゃ、またね坊や。制服脱いできたら、遊んであげる」

「ぜひぜひ!」


 女性は葵を軽くハグすると、手を振って葵から離れていった。


 柔らかな胸が押し付けられ、コロンなのか甘い匂いが鼻孔をくすぐり、柔らかな肉に包まれた細い骨が存在感をアピールする。


 また帰路を行き、葵は煙草を取り出して、火を点けた。


 今日も死なず、パクられずに済んでよかったな、と一日を振り返ってため息をつく。後は宿題さえ終わらせれば、今日の仕事はすべて完了。先程ヤクザ相手に口走った「宿題がある」というのは、挑発でも比喩でもなく、本当に学校の宿題をまだ終わらせていないから出た言葉なのだ。


 葵が住んでいるのは、歓楽街の中心部にある古い雑居ビルである。


 かつてヤクザの事務所があったそこは、組が解体され、買い手がつかずに安く売りに出されていたところを、葵が安く買い取ったのだ。


 その二階に用心棒の事務所兼自宅を構えており、狭くて汚い階段を登り、擦りガラスが填められた扉の鍵を開く。


「……あれ?」


 扉が開かない。鍵を開けたつもりが、どうやら鍵が閉まってしまったようだった。

 葵は確かに鍵を閉めて出てきた。何者かによって、鍵が開けられたとしか考えられない。


 数秒考え、葵はブレザーの袖に手を突っ込んで、心望を取り出し、肩に置いた。


(用心棒の事務所に盗みに入るたぁ、いい度胸だなぁ)


 もしかしたら素人かもしれないし、もう逃げたかもしれない。


 葵はドアノブの音がしないように、ゆっくりと回しきると、勢いよくドアを開き、事務所の中に踏み込んだ。


 周囲に荒れた様子はない。よくわからない縄のような模様が入った、赤絨毯が敷かれていて、簡易キッチンが設置してあるだけのシンプルな応接間が広がっているだけ。


「遅かったわね、太刀川葵」


 部屋の中心に置かれた応接セットに、一人の少女が座っていた。

 黒髪を腰まで落とし、白いリボンを後頭部に巻いている、同い年ほどの少女である。


 見た目から、彼女に戦闘能力がないことを判断すると、葵は心望を袖に戻し、口を開いた。


「……誰だ」

藤峰環奈ふじみねかんな


 環奈を名乗った少女は、そう言って小さく頭を下げた。


 真っ黒なワンピースを着て、白いニーソックスに赤いハイヒールを履いた彼女は、葵の記憶にない。なかなか見目麗しい少女であり、キレのある冷ややかな視線は、釘付けになりそうなほど見ごたえがある。


「依頼人か?」

「他にあなたの事務所を尋ねる理由があって?」


 当たり前の事を聞くな、とバカにするような口調に、なんだか葵は悔しくなった。


「デートとか」

「バカね」


 普通に言われてしまい、葵は思わず面食らった。

 だが、どうやら依頼人らしい少女に、葵は何も言わず、目の前の革張りソファへ腰を下ろした。

 依頼人に無礼な口を利かない程度の常識は、彼にもある。


「……お茶くらい出しなさいよ」


 葵は思わず「テメーで煎れろ!」と怒鳴りかけたが、しかし彼女が言っていることは一理ある。なんなら勝手にキッチンをいじられたら葵が困るだけなので、その言葉に従って立ち上がり、キッチンにある小さな冷蔵庫から、缶の緑茶を二本取り出し、彼女と自分の前に置いた。


 それを見て渋い顔をするが、葵は無視。


「……依頼っつってたな。俺に依頼ってことは、護衛か」

「ええ。私を守ってほしいの。これで、できるだけ」


 と、少女は自らの傍らに置かれていた紙袋をローテーブルの上に置いた。

 爆弾でも入ってんじゃねえだろうな、と恐る恐る袋の中を検めると、その中には大量の札束が入っていた。


「一千万はあるはずよ。それで、できるだけ」

「い――っ!」


 一千万。

 今まで用心棒の依頼に払われた最高金額であり、裏の世界でも大きな金額だ。少しだけ尻が浮いた葵は、数秒ほど固まった。高い金を払うということは、それだけの事を求めるという事。ハイリターンには、ハイリスクが付き物だ。


 一千万にはどれだけのリスクがあるだろう?


 考えるが、葵にはわからなかった。リスクよりもリターンに目が行ってしまい、どうしても一千万で楽になった生活しか思い描けないのだ。


「……こんなに払ってまで、俺を動かそうって? 一体どういう相手に狙われてんだか。つーか、お前が何者かも気になるな」


 葵は直接尋ねてみることにした。

 一体どういう思惑で、どういう組織が葵を動かそうとしているのかを。


詮索屋しりたがりは嫌われるんじゃなかった? 裏の常識って聞いてるけど」


 また正論を言われ、葵は肩を落とした。


 確かに、裏稼業は信頼が命だ。依頼人に関する事は、すべてを守り抜く。隠密に、内密に。それを徹底するからこそ、葵にもチャンスがある。


「もし一千万で足りないというのなら、これもつけるわ」


 と、環奈は、首に提げていた蝶のペンダントを外し、テーブルの上に置いた。葵が審美眼を持ち合わせていない事を差っ引いても、夜店で売られている安物のペンダントにしか見えない。安っぽいビーズのような宝石が散りばめられているだけで、特別な価値は無いように思えた。


「なんだよこりゃあ」

「さぁ。お父様が、特別なペンダントだと言っていたわ。値打ちがあるんじゃないかしら」


 そりゃお前、騙されてんだよ。


 葵は言いかけたが、なぜか環奈が泣きそうな顔をしていたから、言えなかった。葵の人生で最も大事な金言が「女は大事にしろ」である。それがムカつく依頼人だろうが、誰であろうが、女である以上優しく接する。


 仮に一千万なんてなかったとしても、葵にとっては、その泣きそうな顔だけで充分だった。


「OK。一千万とこのペンダントで、お前の依頼を受けよう」

「……なんだか、ずいぶんあっさりと受けるのね。一千万よ、どれだけのことを要求されるかわからないのに」


「いいんだよ。何を要求されようが、一千万手に入るんだ。この街で生きていくには、金と腕のどちらかがいる。両方あればのし上がれる。だったら、そもそも迷うのが間違いなんだ」

「……のし上がりたいの?」


「当たり前だろ。なんのために、いつ前科者になるともしれねえ、ヤクザに殺されかねない商売してると思ってんだよ。それ相応のリターンがあるからだ」


 葵の中では、すでに一千万の使い道というそろばんが弾かれている。

 学力さえあれば、大学に行ってもいいなぁ、と彼にとっては楽しい妄想が始まっていた。


 思わず笑みが溢れそうになる葵だったが、相変わらず、環奈の表情は暗いまま。


「……なんだよ?」

「裏でのし上がるなんて、バカのすることよ。それだけ敵が増えるって意味でもあるんだから」

「上等」


 葵はそう言うと、拳を握り、ゆっくり環奈へ突き出した。


「どうせ長くはない命だ。どこまで行けるか、限界まで行くだけよ」

「本当に、バカなのね。あなた達って」

「おう。バカだから、学校行ってんだ」


 そう言うと、葵はまた制服を見せびらかすように、胸を張った。


「それで? お前、どこ住んでんだ? お前の事を影から守るからよ。家を教えといてくれよ」


 はて。葵は腕を組み、首を傾げた。


「なんだって?」

「もう無いわ。さっき、敵に燃やされたから」


 つまり、あなたの相手にね。と言って、環奈は小さく頭を下げる。


「だから、私もここに住むから、よろしく。指一本でも触れたら殺すわよ」

「……自信ないなぁ」


 葵は、そう言って、額を押さえてうつむいた。


 生まれた時から危険地帯で生きてきた、彼の危険信号が、ビービーうるさい音を立てて鳴り響く。


 坊や、太刀川葵。運命の出会いである。

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