青と藍・月と兎

七沢楓

1『ねえ、あなたって、いつもそうなの?』

第1話『坊や・太刀川葵』

 エビフライはまっすぐでなくてはならない。


 太刀川葵たちかわあおいは、差し出された高級弁当を見て、満足げに頷いた。エビフライが綺麗に直線を描き、真ん中に小さくタルタルソースが乗っていたからだ。普通のソースも悪くはないが、やはりタルタルソースこそが、エビフライを最も輝かせるソースである。


「ここは弁当が高級でいいなぁ。どんだけ客からせしめてんの?」


 ニヤニヤと意地悪く笑う葵の正面に立っていた、三〇半ばのバーテンダーは、耳元にハエでも飛んでいるように鬱陶しそうな顔をする。


「おい坊や。人聞きの悪いこと言うなよ。これはサービスなんだ。店が赤字の翌日だろうが、弁当のランクが落ちる事はない」


 そこは、裏スロット店。周囲は機械から発せられる大音量の音楽と、人の感情がむき出しになった声でなかなかうるさかった。表のスロット店よりは店の規模も客数も少ないから、まだ静かではあるが。


 表の人間にはなかなか行けないと思われる場所だが、行く方法は簡単だったりする。


 例えば歓楽街に行き、飲み屋のキャッチに声をかけられたとしよう。


 そのキャッチに『酒はいいから、スロットが打ちたいな。二〇なんてしょっぱいレートじゃなくて、五〇くらいあるといいんだけど』なんて困った笑顔を見せてみる。


 すると、そのキャッチが裏スロの店を知っていれば、すんなり案内してもらえるのだ。


 連れて行かれるのは、普通の雑居ビル。


 そこの地下へ行くと、ガードマンに顔をチェックされ、通されれば、晴れて裏スロ店で遊べるのだが、そこは出入りするだけで違法な店。行った当日に運悪く警察のガサ入れが入り、何もしていないのに前科がつく、という話も珍しくない。


 そんな店で、太刀川葵は非常に目立った。


 一度もスロットを打たず、隅にあるサービス用の無料バーでずっと座りながら、負けが込んだ客の為に用意されている高級弁当を食べ続けている。


 それだけなら、まだない話ではない。まずは腹ごしらえしてから、どういう台に座ろうか考える人間もいるからだ。


 異常なのは、太刀川葵がどう見積もっても高校生だったから。


 緩いパーマのかかった金髪に、近所の市立高校で着られているなんの変哲もないブレザーを着た、コンビニの前で座り込んでいるのがお似合いといった風体。そんな少年が裏スロの店で物怖じせずに飯を食べていれば、誰だって見るだろう。


「本当にお前で大丈夫なんだろうな?」

「んー? 依頼の事なら心配しなくていいって。ほら、酒も飲んでない。バーカウンターに座ってるのにだよ? やる気満々って証拠じゃん」


 バーテンダーは、これ見よがしにため息を吐いてみせた。

 やる気は小さな問題だった。ただ、こんな少年が本当に用心棒なのか、と疑っているのだ。


「んなことより。エビフライだよ、エビフライ。家で作るとエビが丸まるんだけど、なんで売り物のエビフライはまっすぐなんだろうな」


 そう言って、幸せそうな顔で、エビフライを頬張る。こうして見ている限り、彼は不良少年ですらなく、ただ夕飯に好きな献立が出てきたから喜んでいる小学生男子のようですらあった。


「……揚げる前に、包丁を入れるんだよ」

「へえ?」


 まさかバーテンダーから答えと思わしき言葉が飛んでくると思わなかった葵は、目を丸くして箸を置いた。こういう、話を聞こうと真剣になるところは、ガキ臭いなとバーテンダーは笑いそうになる。


「丸くなっちまうのは、簡単に言うと熱で筋が縮むからなんだよ。だから、まず切れ目を入れておけば、丸くならない」

「へぇー!」


 かつて、客にこっそり出る台を教えた事があったバーテンダーだが、その時の客以上に葵が目を輝かせているので、驚いてしまった。坊やと呼ばれ、夜の街で生きている少年とは思えない輝きである。


「そっかそっかぁ。すごいなおっさん。なんでそんなこと知ってんの?」

「妻が料理上手でね」


 そう言って、バーテンダーは左手の薬指で輝く指輪を葵に見せた。


「奥さんかぁ。いいねえ、結婚。一種の目標だよね、人生のさ」


 祝福しているのか、それともエビフライ弁当についているポテトサラダが予想外に美味かったからなのかわからない笑みを見せる葵。


 酒瓶を磨きながらそんな彼を見て、バーテンダーはこれ以上彼についてとやかく言うのはやめた。


 元々、彼を連れてきたのはオーナーである。三〇分ほど前に、突然葵を店につれてきて「坊やがいれば安心だから、今日は伸び伸びやってこうや」と、無責任に大口を開けて笑っていた。従業員達は当然、こんなガキで大丈夫かと不安だったが、店長が大丈夫だと言うのなら、それに従うだけである。


「……で? 何時くらいに来るんだよ。その、なんたら組のヤクザ」


 少年の顔つきが変わる。弁当がなくなったから、やっと商談に入るということらしい。

 バーテンダーは、磨いていたボトルを置いて、手をカウンターについて、葵を見下ろす。


「そろそろのはずだ。浦部うらべ組の連中は」

「おっ、そーそー。その、浦部組だ」


 この裏スロ店は、現在浦部組を名乗るヤクザに狙われている。なかなかいい利益を挙げているからこそ、それを吸い取ろうとする浦部組に連日嫌がらせを受けており、つい先日もあらゆるギャンブラーを熱狂させてきた名機のスロットが一台、リールを叩き割られたところだった。


 もしも上納金を収めると言わなければ、壊れるのがスロット台ではなく、今日は人間に変わるというわけだ。


「……なあ、ほんとーに、お前で大丈夫なんだろうな?」


 先程は言うのをやめたと思っても、いざ真剣な話になると、心配が顔をのぞかせてしまうバーテンダー。その言葉に葵は気分を害したのか、分厚く黒い、重厚感たっぷりのバーカウンターを軽く拳で叩いた。


「んだよッ! そのヤクザ連中をメンツもクソもないってくらいボコればいいんだろ。楽な仕事だよ」


 そう言って、葵は横のスツールに置いていたスクールバックから、ペットボトルのレモンティーを取り出し、一口飲んだ。


 まさに高校生だと思わされるその仕草から煙草を吸われたので、裏スロ店勤務のバーテンダーも、一瞬びっくりした。が、よく考えればバーテンダー自身も高校生の時くらいから煙草を吸っていたので、その驚きは本当に一瞬で消えた。


「……そりゃ、お前がガキだから、ヤクザ相手だろうとイキがれるんだよ。連中は強いし、いざとなったら――」


 その瞬間、あらゆる音を押しのけて、何かが潰れるような、ゴガンッ!という音が響いた。バーテンダーは、即座にその音がなにかわかった。先日聞いたばかり、スロット台に拳を叩きつけ、破壊した音だ。


「おっ、来たか」


 葵は煙草を灰皿に押し付けてスツールから降りると「バック見てて。大事な教科書とか入ってるからさ」なんてふざけた事を言い、スロットコーナーへ向かった。


「おっ、おい! マジで行くのかよ坊や!」


 高校生がヤクザに何か言って、聞いてもらえるわけがない。どうせ、顔面に一撃入れられて終わり。イキってそのザマではどう声をかけていいかわからなくなる。だからバーテンダーは止めたのだが、葵は堂々とした足取りで口笛を吹きながら、音がした方へ向かった。


「『雨にキッスの花束を』って……」


 葵が吹いていた口笛は、バーテンダーが青春を過ごした時代の曲だった。


 葵は、楽しげに、あるいは恨みがましくスロットを打っている客達の間を通り抜け、その現場にやってきた。


 ひしゃげたスロットを『この程度で壊れるなよ、情けないな』とでも馬鹿にするみたいに笑っている、ヤクザな男がいた。短く切りそろえられた角刈りの頭と、胸板を露出している紫のシャツに白スーツ。その両腕には、まるで合体ロボのようなオモチャめいた大きなグローブが填められていた。


「あっ、あんた何してんだ!? このスロットがいくらすると――」


 駆け寄った店員が、男の腕を掴もうとした。だが、まるでホコリでも払うようなゆったりとした動作で、彼は反対側のスロットにふっとばされてしまう。


「バカがッ。この腕が見えねえのかよぉ」


 と、力こぶでも作るような動作で、男は自らの腕を掲げた。


 周囲の客たちがそれを見て、一瞬ざわつき、次の瞬間には蜘蛛の子を散らすように、悲鳴で喉を潰しかねないほど慌てて逃げ始める。周囲には、気絶した店員と、ヤクザな男。そして、葵だけが残された。


 男は葵を見て、眉を顰めた。なんでビビってねえんだ、このガキ。そう言いたげな表情だった。


……」


 葵の呟きに、男は「へえ」と、顎を少し上げた。


「なんだ、ガキ。知ってんのか? ガキにしちゃあ、社会勉強に熱心じゃないか」

「まぁーね」


 と、葵も男の真似をするように、顎をしゃくり上げた。


 ブラック・アート。今、裏での武力と言ったらこれである。


 深淵から漏れ出してきた異端技術。使えば銃なんて目じゃないほどのパワーを発揮し、様々な超常現象を引き起こす事ができるのだ。


 男が腕に填めているのも、オモチャ然とした見た目ではあるが、そういう物だ。人を殺すのにちり紙を丸める程度の労力すらしようしない、圧倒的な兵器。


「スロット台潰すのに、大層ご立派な物持ってくるじゃない。そんなもん振り回すんなら、工事現場とかの方が喜ばれるんじゃない?」


 そう言って、葵は構えた。右拳を顎に添えるようにし、左手はヘソ下辺りに握り切らず、散手。構えの種類としては、ジークンドーに近い。


「……やる気か、俺と? ブラック・アートを持つ俺と、素手で?」

「構えた相手に是非を問うのかよ。甘いな、ヤクザ」


 赤子が少し、指を噛んだ程度の挑発だった。彼はヤクザ。暴力のプロであり、現在はたとえボクシングのヘビー級世界王者が相手でも負けない鉄腕を装備している。


「ベッドの上で後悔しな」


 男は思い切り拳を振りかぶり、葵の顔面目掛け、弾丸のような右ストレートが飛んだ。遠目に見ていた客や従業員達は、全員が次の瞬間には葵の顔面がグシャグシャになっている未来を予測する。


 ――だが、予想に反して、なぜか男がくるりとバレエでも踊り始めたかのように回転し、盛大に地面に転けた。


「……はっ?」


 なぜ自分が尻もちを突き、葵を見上げているのか、男には理解ができなかった。暴力のプロが、圧倒的な武力を装備した結果が、相手に傷一つ付けられていないという現状。葵以外の誰もが理解できていないのだ。


「おいおい、何やってんだよおっさん。踊りたいなら他を探せ。俺は美女以外と踊る趣味ねえんだ」


 男は、勢いよく立ち上がると、叫びながらジャブを繰り出す。


「テメェッ! 何しやがったぁッ!?」


 葵は彼の拳を、左手一本で防いでいた。正確には、左手を使い、拳の軌道を反らしていたのだ。


 拳の側面を小さく、手の甲、掌を使って押し、軌道を反らせば、葵には届かない。


「どうした? やっぱりあんたには過ぎたオモチャだったんじゃないの?」

「くっそぉぉッ! なんでだ!? なんで当たらねえ!」


 それは、男が冷静さを欠いていて、葵をナメているからに他ならない。


 最初の大ぶりパンチも、顔面を狙っているのが丸わかりだった。それさえわかれば、軌道を反らして相手を転ばせる事もたやすい。そして、怒りで頭が沸騰している彼の攻撃は単調。葵は挑発を続け、攻撃を制限しているのだ。


「いつまでも付き合ってられるほど、暇じゃないんだよねえ。帰って宿題しなきゃだし」

「テメエッ、ナメた口を――ウゲェ……ッ!」


 葵のカウンターである前蹴りが、男の鳩尾に刺さった。

 呼吸を吸っている時に鳩尾を叩かれると、数秒ほど行動不能になる。男は腹を押さえて、膝をついた。


「よぉ」


 葵の小さな一言が、まるで恐ろしい怪物の鳴き声かのように、男は勢いよく頭を上げ、青ざめた顔をする。


「おもちゃぶん回すんならさぁ、公園の砂場にでも行けよ。似たようなモン持ってる子供に、遊んでもらえるからさ」


 見下し、ニヤリと笑っている葵に、男は恐怖というパニックから、思い切り拳を突き出した。


「しッ、死ねぇッ!! クソガキがぁ!!」


 男が腕に填めていたロボットの腕が、まさにロケットのように飛んだ。轟音とも言えるエンジン音を放ちながら、葵に向かって飛ぶ。


「素人が」


 葵は誰にも聞こえないように、ブレザーの袖に腕を突っ込むと、そこから刀でも抜くみたいに、勢いよく黒い棒を取り出した。


心望しんぼうッ!」


 その棒は、葵の叫びに応えるように硬度を失い、手首のスナップで体操選手が操るリボンのようにくるりと回し、ロケットパンチの手首を縛り、跳んで体を捻った。


「返すぜ! このへなちょこパンチ!」


 遠心力を利用し、ロケットパンチの軌道を操ると、空中で大木槌のように振り下ろす。


 ズドンッ!!


 ビル全体が揺れるほどの衝撃が走り、そのパンチは、男に当たるスレスレのところに振り下ろされていた。ロケットの推進力と、遠心力が加えられた、当たれば死ぬ一撃である。


 男は頭に死のイメージを叩きつけられ、背中から地面に倒れ込んで、気絶した。


「エビフライと違って、ヤクザは筋通してナンボだろうが」


 葵は、金髪を掻き上げると、あくびをしながら、先程のバーへと戻った。後始末は店員がするだろうと、投げたのだ。


 周囲の目など気にせず、葵は再び口笛で『雨にキッスの花束を』を吹きながら、バーカウンターに戻り、スツールに腰を降ろした。


「おっさん! あったら焼肉弁当がほしいんだけど、あるかな? あとビール!」


 仕事も終わったし、酒だ酒だ。と、葵は手をこすりながら、バーテンダーに笑顔を見せる。


 だが、バーテンダーは、不気味な物でも見るみたいに目を細め、葵を見つめるだけで、動こうとしない。だから葵は、袖に手を突っ込み、先程の黒い棒――心望を取り出すぞ、と動作だけで脅してみせた。


「わっ、わかったわかった! 出さないなんて言ってないだろ! 驚いて動けなかっただけだ!」

「あ、そうなの。ならいいんだけど」

「お前も、持ってたんだな……ブラック・アート」

「当たり前じゃん。じゃなきゃ、こんな物騒な街で、こんな仕事やれないよ」


 そう言って笑う葵の表情は、先程ヤクザを相手にしていた時のような、心底相手をバカにしているようなものではなく、人を癒やすために作られた、本物の笑顔だった。バーテンダーは、なんでこうも表情の意味が違うのかと首を傾げながら、グラスにビールを注ぎ、綺麗な泡を作って葵に差し出した。


「いっただきまーすッ!」


 葵は、嬉しそうにそのビールを一気に飲み干し、グラスをカウンターに叩きつけるように置いた。


「あぁーッ! 美味い! ちょろい仕事のあとでも、ビールは美味いなぁ」


 そんな葵の、ビールでひげが出来た顔を見ながら、バーテンダーは声を絞り、訪ねた。


「なぁ……何者なんだ、お前」


 葵は、何度か瞬きすると、口元の泡をブレザーの袖で拭い、胸の内ポケットから名刺を取り出し、バーテンダーに差し出した。


「俺は太刀川葵、用心棒バウンサー。みんなからは、坊やとか呼ばれる事が多いかな」


 無邪気な顔をする葵は、そう言って、ビールのおかわりを要求した。

 坊や、太刀川葵は知らない。この時、彼に襲いかかる苦難と、人生を変える出会いへの運命が、すでに動き出している事を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る