第4話 夜半の白昼夢
生茂る人混みを掻き分け、雑居ビルの森を駆け抜ける。私は無我夢中で夜の繁華街を縫い進んでいた。
私は疲れる事を忘れたように、次に次にと止めどなく足を蹴り出す。
妙に体が軽い。これじゃ軽過ぎる。
四十年の人生、私はもっと質量あるものをこの体に担いできたはずだ。この体には決して軽くはない〝重み〟というものがあるはずなのだ。それなのに──それなのにどうしてこの体はこんなにも軽快なんだろうか。この軽さは果たして高揚のためなのか、それともハリボテの心のためなのか。胸中に空洞を想像する度に、私は猛烈な焦燥に駆られ、そしていっそう足を速めた。
駅に近づくにつれて人波は荒立ち、乱立する人壁は険しさを増していく。それらを押し退け、跳ね除け、潜り抜ける。尚も奴等は白衣の尾びれをなびかせながら私を追ってくる。
駅員の呼び止めも振り切り、私は行く手を阻む改札を飛び越え、そして閉まりかけの扉に無理やり身体を捩じ込んだ。
私が飛び込んだ車両は音を立ててゆっくりと動き出し、ようやく車窓に飛び込んできた白衣はあっという間に遠ざかっていった。
ひとまずの逃げ切りだった。
しかし、安堵のため息をつくには及ばなかった。私の中で渦を巻く疑惑や不明の数々がそれを許してはくれないのだ。
私はへたり込む事もなく揺れる車内に呆然と立ち尽くし、自らの殺伐とした思考のぬかるみに沈んでいた。
ところが、私は突如強大な力によってその
私はすぐさまその力の源を探して辺りを見渡した。正体はすぐに分かった。それは膨大な熱量を持った不快な熱視線だった。車内の人々は突然飛び込んできた入院服に裸足の訳ありげな男に注視していたのだ。
もし、私にまだ冷静と呼べる判断能力が少しでも残っていたのなら、私はその注目を当然の営みとして気にもと留めなかった事だろう。
だがしかし、今は違う。
好奇の目、懐疑の目、既に容量過多であった私はその全てに煽られ、そして遂に決壊する。
私は衝動的に近くの男に掴みかかり問いただす。
「……なぁ。何かおかしいか! おい!」
「何だよお前、やめろ!」
男はすぐさま私を突き飛ばす。
床に転げた私は
「教えてくれよ。人間だよな? 私は人間なんだよな? どこもおかしくないだろう? そうだろう?」
女性は怯えたように目を見開いたまま閉口する。手の中のか細い腕は僅かに震えている。
「やめろ!」
先程の男が女性から私を引き剥がし突き飛ばす。
それでも私はまた別の若者に掴みかかる。
「なぁ、私は! 私は……!」
「やめろ! いい加減にしろ!」
今度はドアに身体押さえつけられる。
力強い衝撃音に周囲で軽い悲鳴があがる。
「違う! 違うんだ! 私は人間なんだ!」
「何訳の分からねえ事言ってんだ!」
男は困惑した表情で力を抜くと、私は床に力無くへたり込んだ。
「違う……違うんだ。私は……私は……」
車内は騒然としたかと思うと、人々の目は途端に哀れみの目へと移り変わり、次々に私に向けられた。
やがて次の駅に停車しドアが開くやいなや、私は耐えきれず外へ駆け出した。
私は再び夜の街を走り出した。
男の話を信じてやろうなどという気は当然起こらない。一方で、その与太話を否定しきるだけの材料も私は持ち合わせていなかった。男への疑い、負けず劣らず大きさを増す自分自身への疑い。夢と現実のあまりにも希薄な境界線。確かめる術などない自らの無力さ。あるいはこの煩悶すら無意味な物かもしれないというのだ。
私はその全てを確かめなければならない。
私の脳裏に浮かんだのは妻と娘の存在だった。
私は自宅を目指して走る。
偽りであるはずがない。
作り物であるはずがない。
あの日々が夢であるはずなどない。
横目に流れる景色にやがて見知った光景が目につき始めると、私は私の日常の気配を感じ、その度に少しづつ自信を取り戻していった。
そして、遂にその場所に辿り着いた時、私はとうとう安堵のため息をついた。
目の前には確かにアイボリーの外装と茶褐色の屋根があった。十五年余り三人で様々な日常を築いてきた家が、間違いなくそこにはあったのだ。
珍しく早く帰ってきたら、妻は驚くだろうか。
娘は喜んでくれるだろうか。
食卓の皿はまだ温かいだろうか。
私は先程までの全ての出来事が何かの間違いであったのだと信じてやまなかった。
私はドアノブに嬉々として手をかける。
開かない。
チャイムを押してみる。
応答はない。
激しくドアを叩く。
「絵里子、梨香、ただいま! おーい! 絵里子! 梨香!」
庭に回り、窓を叩く。
「……絵里子! ……梨香!」
家の中から生活の気配がない。
大丈夫。そう、きっと寝ているだけだ。
「帰ってきたぞ! 開けてくれ! おい!」
返事はない。
「……絵里子!」
また、返事はない。
「……梨香!」
次の瞬間、静まり返った住宅街に大きな破砕音が響き渡った。
私は窓を叩き割っていたのだ。
私は無理矢理に腕を突っ込み、鍵を開け、家の中に飛び込む。
「絵里子! 梨香!」
妻の寝室を開け放ち、娘の寝室を開け放ち、リビング、玄関、洗面所と、私は家中から私の日常の痕跡を探す。そうやって明かりのない家を荒らし回る。
すると、私はリビングで一つの写真を見つける。
写真の中では水族館を背に、絵里子と、そしてまだ小学生の梨香が仲睦まじく笑顔を浮かべて並んでいる。
そして、私を襲ったのは猛烈な違和感の波だった。
違う。何かがおかしい。
忘れるはずなどない。これは五年前に梨香の誕生日に行った家族旅行の写真だ。
確かに覚えている。
梨香は〝動物園に行きたい〟と言っていた。キリンが見たいんだ、とあの幼く無邪気な笑顔はそう言っていた。少し背伸びをしながら、ほんの僅かに成長した自分の背丈を自慢して、あのキリンと背比べをするんだ、と鼻息を立てて言っていたはずなのだ。
そう、だから、あの時家族で行ったのは水族館ではない。
「違う。……違う。……違う!!」
私は写真立てを壁に投げつける。音をたてて、それは床に転がる。
ベッドのシーツの色が違う。
机の木目の形が違う。
カーテンの模様が違う。
違う。全てが違う。
私の日常はどこだ。
一体〝私〟はどこにいるんだ。
同じに見えて、決定的に何かが違う、この場所には知らない誰かの知らない日常が流れている。
玄関の開く音がする。
一つの足音が私に近づいてくる。
「だめじゃないか、勝手に人の家に上がり込んだら」
〝わたし〟の顔が不気味に笑う。
「さぁ、夜も更けた。もう眠る時間だ」
〝わたし〟の手がぬっと私の首元に伸びてくる。
ぶつり、という鈍い断裂の感触が心象的に全身を駆け巡る。
境界線を見失った夢と現実が、理不尽に、不条理に、切り離され、引き剥がされ、そして、分離する。
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