イヤホン
諸葉
第1話
イヤホンが片方、聞こえなくなった。
大学からの帰り道、乱雑に突っ込んでいたコードを鞄から引きずり出し、両耳へイヤホンをはめ、携帯用の音楽プレーヤーの再生ボタンを押す。朝、通学中にしたこととまったく同じだったはずなのに、聞きなれた曲は片方の耳にしか届けられなかった。
プレーヤーを買ったときに一緒についてきた、高くも安くもなさそうな、なんの変哲もないイヤホン。特にこだわりもなくそのまま使い続けて、そろそろ数年は経っただろうか。
寿命かな。帰ったらネットで代わりを探そう。イヤホンっていくらくらいするんだっけ。まぁ、適当に安いのを選べばいいか──
片耳を音楽でふさぎながら、もう片方の耳にいつもより多く流れ込んでくる周囲の雑音を締め出すように、とりとめもないことを考える。
別段、歌や音楽が好きというわけではなかった。なんとなく耳障りの良いものを選んで、適当に流しているだけだ。毎日聞いている曲でも、歌っている歌手やグループの名前すら知らないものもある。
ただ、私にとって重要だったのは──大学やアルバイト先への行き帰り、講義の合間、話す相手のいない休憩時間。毎日毎日否応なく流れ込んでくる周囲の雑音に、蓋をしたかったのだ。周りが友人たちと楽しげに喋っている中、一人でいることに理由が欲しかったのかもしれない。一人でいることは苦痛ではなかったけれど、自分が浮いていることくらいはわかっていた。
他人が話す声を聞くのは、嫌いだった。
電車を降りて人ごみをかき分けながら駅を出て、すっかり足が覚えた家路に着く。駅前から離れるにつれて、雑音は減っていった。
ジャックに刺さったイヤホンの端子をぐりぐりと回すと、聞こえなくなった方からじりじりと耳障りなノイズが聞こえる。もちろんそんなことをしても直るわけもないし、特に意味はない。ただ、退屈な帰り道でいつもの暇つぶしを半分奪われて、手持無沙汰になっただけだ。
その、はずだった──
『────』
ノイズではない、なにかが聞こえた気がした。
周囲を見渡しても、変わった様子はない。時折すぐそばの道路を車が通り過ぎる以外、人通りもなかった。まだ陽も沈んでいないというのに、辺りはしんと静まり返って──
静まり返って?
「?」
イヤホンから流れていたはずの音楽が、止まっていた。正確には、聞こえなくなっていた。プレーヤーの表示は、再生状態のままだ。もちろん、停止ボタンも押していない。とうとう両方とも壊れたかのと思った──が。
『──だれか。聞こえますか?』
「うわっ!」
耳元でささやくような声に飛び上がって、後ろを振り向く。誰もいない。まるで、吐息がかかりそうなほど近くからささやかれたような感覚だったのに──
はっとした。両耳にはイヤホンをはめたままだ。本当に耳元でささやかれたって、あんなにはっきりとは聞こえないだろう。
心臓がどくどくと音を立てる。
『──だれか。だれか、聞こえませんか?』
同じ声が、また聞こえた。一度目は気づかなかったが、若い女性の声だ。同じ台詞を、しきりに繰り返していた。
やはり、聞こえなくなったはずのイヤホンから声がしているようだ──胸を抑えながら周囲を見渡して、誰もいないことを確認する。まるで不審者だったが、構っていられない。
幽霊──にしては、やけにはっきりと聞こえる。それにまだ夕方というのも早いくらいの時間で、化けて出るには迫力不足というものだろう。──びっくりは、したけど。
では、誰かの悪戯だろうか。しかし、どうやって? イヤホンの繋がっている先はただの音楽プレーヤーで、携帯電話でもなければラジオや無線機でもない。どこかから電波やそれに類するものを受信することなんて、あり得ないはずだ。
『だれか……』
こちらに聞こえていることに気づいていないのか、女性の声が悲しげな響きを帯びた。だれか、と言っているからには特定の個人に宛てたものではないのだろう。となると、声の主は返事がくるかもわからない虚空へ向かって呼びかけ続けているわけで──
「……」
すこし、ほんのすこしだけ、可哀想になった。それに、このまま私のイヤホンで喋り続けられても困る。もしも新しいイヤホンを買って同じことになったら、目も当てられない。
とはいえ、応えようがなかった。これが携帯電話ならマイクに向かって喋ればいいけれど、プレーヤーにあるのはイヤホン用のジャックだけだ。
だが──段々と弱々しくなっていくその声に、ふと閃くものがあった。いくらか冷静になって気づいたが、声が聞こえてくるのは最初に聞こえなくなった方のイヤホンからだ。彼女の声と引き換えに音楽を流さなくなった方は、依然沈黙したままだった。
直感に従って片方を耳から外し、口元に近づける。はたから見れば相当に間抜けな絵面だろうなと情けなく思いながら。
「……もしもし」
声だけしか聞こえないはずなのに、はっと、相手が息を呑む気配がした。
『よかった……聞こえていたのね! わたしの声、届いていたのね……! ああ……』
感極まったように、彼女は声を震わせた。きっと誰が応えても同じことだったのだろうが、今まで話しかけて喜ばれたことなんてなかったから、たじろいでしまう。
それでも、なんとなく──この声に応えたのは、間違いではなかったような気がした。
「あの……どなたですか」
『あっ……ご、ごめんなさい! わたし……んんっ。私、エリーゼ・ヴェラ・レーヴェニヒと申します』
「は、はぁ……」
彼女は小さく咳ばらいをすると、改まった口調でそう告げた。
聞きなれない名前だった。外国人なのだろうが、それにしてはずいぶんと流暢な日本語だ。
『あの……あなたのお名前、聞いてもよろしいかしら?』
「あ……えと。春日、ヒカリです」
思わず答えてしまって、顔をしかめる。もしこれが悪戯の類だったとしたら──どうやっているのかはわからないが──個人情報を出すのは危険かもしれない。
そんな私の心配をよそに、彼女は戸惑った声で聞き返してきた。
『エト・カスガ・ヒカリ?』
「……ヒカリ、です。ヒ・カ・リ」
『ヒ、カ、リ……ヒカリ! 素敵なお名前ね!』
「はぁ……どうも」
邪気の感じられない、子供のようにはしゃぐ声に、気の抜けた返事をしてしまう。
状況を考えてみれば怪しいことこの上ないのに、どうにも詐欺や悪戯の類とは思えない──そんな声だった。
「それで……なんの用ですか。エリーゼ、ヴェ、ヴェラ──」
『ふふっ。エリーゼ、で結構ですわ。遠くの人』
いかにも呼び慣れていない私に気を遣ってくれたのか、声の主──エリーゼは特に気を悪くした風でもなく、そう言った。
それにしても遠くの人なんて、えらく芝居がかった言い回しだ。外国の人なら実際遠いんだろうけど。
『あのね、わたし今日先生から──あ、勉強を教えてくださる方がいて、先生と呼んでいるのだけど。その先生から……遠くの人と、お話ができる魔法を教えてもらったの』
「はぁ……?」
話したいことがたくさんあって、どれを選び取ったものか迷うようにたどたどしくエリーゼは話し始めた。私とそう変わらないくらいの年頃の声なのに、まるでその日あった出来事を親に話す子供のような一生懸命さが、なんとも可愛らしい。さっきまでの丁寧な口調も砕けてしまっていて、きっとこちらが彼女の素なのだろう。
ただ、その内容が問題だった。
「魔法……って。じゃあ、今その魔法で私と話をしているの?」
『ええ! 先生が、わたしには才能があるって仰ってくれて、簡単なものを習っているの。使ったのは、初めてだけれど──』
話が一気に胡散臭くなってきた。魔法で話をしてるなんて、彼女がもし本気で言っているとしたら別の意味で危険な人だし、そうでないならやはりからかわれているだけだ。
一瞬でも話を聞く気になってしまった自分に腹が立った。
「悪戯なら、切りますけど」
『え──』
思わず言ってしまったが、相変わらずどうやって話しているのかわからないから切り方だってわからない。少なくともイヤホンを外せば、彼女の声は届かなくなりそうではあったが。
冷たく突き放した私の言葉に、エリーゼは一瞬呆けたような声をだしたあと──ひどく狼狽えたようだった。
『ご、ごめんなさい! わたし、本当に物知らずで……。ああ、きっと、あなたの気分を害するようなことを言ってしまったのね。ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……』
「い、いや……」
ごめんなさい、と何度も繰り返す彼女の声は今にも泣き出しそうで、罪悪感を感じずにはいられなかった。言っていることは滅茶苦茶なのに、それらをすべて無視してなにもかも肯定してしまいたくなるような、声。
──実のところ、さっさとイヤホンを外してしまうという最初からあった選択肢を採れなかったのは、この声のせいもあった。今まで他人の話し声なんて不快にしか感じなかったのに、どうしてだか彼女の、耳元でささやかれるエリーゼの声は──心地よかったのだ。
普通に考えれば詐欺か悪戯の類か、あるいは本当に頭の不自由な人との会話なんて、早々に打ち切るのが正解だ。そう頭ではわかっているのに。
「その……怒った、とかじゃなくて。だって、魔法だなんて言われたって、信じられるわけないでしょ?」
私の口から出たのは、彼女との会話を続けるための言葉だった。
『……どうして?』
ほっと安堵の息を吐きながらも、エリーゼは心底不思議そうに応える。
「どうして、って──」
『あっ、もしかしてあなたの国では、魔法はあまり使われていないのかしら? そういう国もあるって、聞いたことがあるわ』
「いや、国っていうか……」
続けたはいいものの、どうにも話がかみ合わない。相変わらず彼女は魔法とやらを撤回する気はないみたいだし、それどころかそれが存在して当たり前といった風だ。もし世界のどこかにそんなものが一般的に使われる国が存在したら、知られていないはずがないのに。
かと言って、頭ごなしに否定しては話を続けた意味がない。
「まぁ、少なくとも日本じゃそういう人はいないと思うよ」
『ニホン? あなたの住んでいる国は、ニホン、と言うの?』
日本を知らない? 魔法なんて突拍子もないものに比べたらいくらか現実味はあったが、彼女が今話しているのは日本語のはずだ。日本語が公用語の国なんて日本以外にはないはずだし、それがどこの国の言葉かを知らないなんてますますあり得ないだろう。
それとも、これも魔法だ、なんて言うのだろうか。
「うん、そう。日本。あなたはどこに住んでいるの?」
試しに、今度はこちらから質問してみた。いまだに手の込んだ悪戯だというセンは捨てきれないし、もしそうなら突っつけばボロを出すかもしれない。
このとき、私はまだ気づいていなかった。何故こんな、なんの得にもならなさそうな、わけのわからない話に付き合おうとしているのか。
彼女との──エリーゼとの会話を、楽しみ始めていることに。
『わたしの国はね、──大陸の──国。──領に住んでいるの』
エリーゼがなにを言っているのか、わからなかった。正確には、言った言葉は聞き取れたのだ。ただその部分だけ、まったく聞いたことのない言葉だっただけで。世界史の授業はそれなりに真面目に受けて来たつもりだったが、彼女が口にした大陸とやらの名前すら、聞いたことのないものだった。
「ごめん。私も知らないや。その、なんとかって大陸も聞いたことない」
『そう……。きっとわたしたち、本当に……本当に、遠いところに住んでいるのね』
エリーゼはなぜか悲しそうに言うと、押し黙った。再び、しんとした静寂が訪れる。
気がつけば、自宅の前まで帰ってきていた。独身者用の、寂れた安いアパート。少しでも家賃を浮かそうと探した結果の物件だったが、肝心の大学との距離がかなり離れることになり、絶賛後悔中の我が家だ。ドアの前まで歩きながら片手でポケットを探り、家の鍵を取り出す。
話すこともなくなったようだし、そろそろ終わりかな──と、思ったとき。
『……あのね、お願いがあるの』
お願い。そう聞いて、私は鍵を鍵穴に差しこもうとした手を止めた。ここまで彼女はなにかを要求する素振りを見せなかったが、やはり詐欺の類だったのだろうか。名前は教えてしまったが、住所や年齢は言っていないし電話番号も大丈夫だろう。今話しているこれは電話じゃないし。
お金や個人情報を要求してきたら、すぐに切ろう。とりあえず、イヤホンを引っこ抜いてダメもとで警察に届けてみるのもいいかもしれない。
『ついさっき知り合ったばかりで、会ったこともないあなたにこんなことを言うのは、とても不躾だと思うのだけれど……』
一気に現実に引き戻されて一人身構える私をよそに、エリーゼはなにやら迷うような──声だけだから実際どんな顔をしているかわからないが、例えて言うなら恥ずかしがってもじもじしているような風に、言葉を重ねている。
『わ、わたしと、お友達になってほしいの!』
「へ……?」
思いもよらぬ彼女の「お願い」に、思わず間の抜けた声を出してしまった。それも聞こえていないのか、エリーゼはまくし立てるように言葉を続ける。
『それでね、あなたの時間があるときに、また、こうしておしゃべりしてほしいなって……』
その勢いも長くは続かず、すぐにしぼみ始めて。
『ダメ、かしら……?』
最後は、消え入りそうな声でそう言った。
私と友達になって、おしゃべりがしたい。エリーゼはそう言っていた。寄りにもよってこの、私とだ。他人の話し声を聞くことすら嫌い、両の耳を塞いで自分から関わりを絶ってきた私と。
鍵をひねってドアを開け、体を滑り込ませて、再び内側から施錠する。かちん、と錠のかかる音が家主の帰ってきた部屋に響いた。
エリーゼとの会話の中で、特別なにか興味を引くことを言ったつもりはなかった。もちろん今まで、誰からも話が面白いなんて言われたことはない。彼女に対する態度も、決して友好的とは言えなかったはずだ。
それなのに──友達になりたい、だって。私と。
「まぁ……」
こうしておしゃべりを、と言ったからには直接会うようなことはないだろうし、こちらの情報を出すときは気をつけるようにすればいい。いざとなれば、イヤホンを抜いて捨ててしまえばそれで済むだろう。
そんな逃げ道をいくつも確認しながら──
「……暇なときなら。いいよ」
結局私は、彼女とのおしゃべりとやらに──この心地のよい声を耳にする誘惑に、負けた。
『本当に!? ありがとう! とっても、とっても嬉しいわ!』
最初に応えたときと同じように、あるいはそれ以上にはしゃぐエリーゼの声。それはやはり、不快でも耳障りでもなく、聞いている私の口許が緩んでしまいそうになるような声で。
『わたしたち、これでお友達ね、ヒカリ!』
こうして、私のエリーゼとの、不思議なお話は始まった。
それから私は講義やアルバイトのない、本当に暇な時間に、聞こえなくなったイヤホンをつけるようになった。早朝や深夜でこそないものの、その時間はバラバラだったはずなのに、不思議なことにエリーゼはいつもすぐに応えてくれた。電話と違ってコール音もなく、イヤホンに向かっていきなり話しかけるのは最初こそ多少の勇気が必要だったが、すぐに聞こえてくるエリーゼの、本当に嬉しそうな声を聞くうちに、それも薄れていった。
同時に、ずっと持っていた警戒心も。
エリーゼが言うには、彼女は父親が治めるそれなりに広い──面積も訊ねてみたが、通じなかった──領地に住んでいるらしかった。いわゆる領主の娘というやつで、それが本当なら本物のお嬢様だ。すっかり砕けてしまっているけれど、最初の頃の聞きなれない丁寧な物言いはそれが原因なのだろう。
実のところ、エリーゼの話は要領を得ないことも多かった。話し慣れていないこともあるのだろうが、彼女の住む世界は──話を聞くうちに、国ではなく世界としか言いようがなくなっていた──こちらとはあまりにもかけ離れていて、想像がつかないのだ。曰く、街の外には怪物や野盗の類が徘徊していて、魔法使いや戦士、騎士といったそれはなんのアニメか漫画かというような存在がそれらと日夜戦っているという。
彼女がまだ幼い頃、一度街の外へ出たときにそうしたものたちに襲われたことがあるらしく、それ以来過保護な父親によって家──話を聞く限り屋敷と呼ぶべきな建物のようだ──から出してもらえなくなってしまったらしい。それでこうして、話相手を求めていたというわけだ。
たどたどしく、しかし一生懸命に伝えようとしてくれるエリーゼの声は、心地良かった。
何度か会話を重ねるうちに、私の方から話をすることも増えていった。と言っても私個人に関する情報は避けて、彼女が話したそれの対になるような、国、あるいは世界に関してのことだ。こちらには魔法なんてものは存在せず、怪物も──たぶんいない。周りには機械が溢れていて、今話しているのもその一つだ──とか。
自分が住んでいる世界のことを改まって紹介するなんて、どう言えばいいのか迷うことばかりだった。エリーゼの話がわかりにくかったのはこのあたりにも原因があるのだろう。
エリーゼは、私の話を本当に楽しそうに聞いてくれた。私の下手くそな説明を一生懸命聞いてくれて、それを知っている私を褒めてくれた。面映ゆくて、すこし恥ずかしかったけれど、エリーゼの言葉はやはり、心地良かった。
いつまでも聞いていたいと、思うくらいに。
誰かと話すのが楽しい、なんて思ったのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。
一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、季節が変わるくらい時間が経って。私のエリーゼとのおしゃべりの時間は、どんどん増えていった。
アルバイトは辞めた。元々小遣い目的に始めたもので、両親からの仕送りだけで生活費は足りていたのだ。その頃の私にとっては、もうエリーゼと話す時間の方が大切だった。大学だけは真面目に通い続けたが、それも学費を出してくれている両親への義理立てがほとんどだった。
本音を言えば、ずっとエリーゼと話していたい──そんなことを考えるようになったのは、ある日の夜からだった。
ベッドに入って電気を消し、イヤホンをつけて、どちらかが寝てしまうまで話す──そんなことが、日常になっていた頃だ。ちなみに大抵先に寝てしまうのは私の方で、翌朝エリーゼの声で目を覚ますことも多かった。
日付が変わる少し前くらいだっただろうか、そろそろ眠気を感じてきた頃、エリーゼは内緒話をするように、こっそりと話し始めた。
『ねえ、ヒカリ。わたし、実はあなたに一つ、嘘をついていたの』
「嘘?」
『ええ。……初めてあなたの声を聞いたあのとき、これは遠くの人とお話する魔法、って言ったわよね』
「うん」
すこし前の私なら、嘘、と聞いた時点でまた身構えていただろう。けれど、この頃の私にはそんな気はすこしも起こらなかった。
『本当はね……この魔法は、運命の人を見つけるための魔法なの』
「……運命の人?」
『そう。一生を添い遂げる運命の相手。教えてくれた先生はね、おまじないみたいなものだよって。だから、わたしもあなたが応えてくれるなんて、思ってなかった』
「……」
私はなにも応えず、黙って続きをうながした。──応えられなかった。
『でもね、この魔法は成功してたんだって、今は思っているの。だって、ヒカリとおしゃべりするの、とっても、とっても楽しいもの。あなたの声を聞くのが、毎日楽しみで仕方ないの』
「……私、一応女なんだけど」
『いいえ。一応、なんかじゃないわ。ヒカリ、あなたはとっても素敵な女の子よ。だから──』
「……だから?」
言い淀むエリーゼに、私は続きをうながした。今までそんなことはなかったのに、このときは──このときばかりは、続きの言葉を欲しがったのだ。
『だから、好きになったの。わたし、あなたが好き。大好きよ、ヒカリ』
明かりを落とした真っ暗な部屋の中、唯一聞こえる彼女の、エリーゼの声。ずっと聞いていたいと思ったのは、その音が心地よかったからだけなのか。
それとも、彼女の声だから、そう思ったのか。
「……私も」
本当は、ずっと前にわかっていたことだった。
「私も、あなたが好き。好きだよ、エリーゼ」
そう言葉にして口にすると、目許から、涙がひとしずく流れ落ちた。
『……うれしい。わたしたち、両想いなのね』
そう言った彼女の声は、震えていた。もしかしたら、泣いているのかもしれない。今の私と、同じように。
悲しかったからじゃない。
自由を許されず、それでも自ら運命の人を求めた彼女が、他人をわずらわしく思い、自ら関わりを絶っていた私を見つけてくれたことが、嬉しかったからだ。
『ねえ、ヒカリ。わたし、魔法の勉強、頑張るわ。こうしてあなたを見つけて、お話できているのだもの。きっと、あなたに会うための魔法だってあるはずよ。わたし、あなたに会いたい。大好きなあなたに、会いたいの』
「……うん。私も、会いたいよ」
後にして思えば、このときの私の応えが、その後の運命を決定づけたのかもしれない。
──それでも、このとき言った言葉に、嘘はなかった。
あの夜から、私は一日のほとんどをエリーゼのために費やすようになった。学校にも、最低限の単位が取れる範囲でしか行かなくなった。朝起きてから、夜寝るまで──休日などは本当に一日中、家に籠ってエリーゼの声を聞いていた日もあった。
そんな私に、エリーゼは喜んでくれる反面、心配もしてくれた。学校のことや、それまでの私の生活のことも話していたからだ。彼女と過ごすひと時は、明らかにそれらに影響を及ぼすほどの時間になっていた。
本当に、エリーゼに会えたなら。そんな心配をかけることも、ないのに──
その日は朝から大学の講義があった。通勤、通学ラッシュの駅のホームは人でごった返していて、以前の私ならプレーヤーの音量を最大近くまで上げていただろう。今は、そんなことをする必要はない。片耳にはめたイヤホンから、愛しい声が聞こえるからだ。
もう、人目をはばかることもなくなっていた。
『ねえ、ヒカリ』
構内放送が、電車が来たことを告げる。けれど私の耳に入るのは、エリーゼの声だけだった。
「なに?」
雑踏の中、私は返事をする。こうして外で話すようになってからわかったことだが、どういうわけか彼女には私の声以外は聞こえないらしい。他人が話す声も──たとえば、電車が横切る轟音も。
彼女に聞こえるのも、私の声だけなのだ。
『わたし、あなたに会いたいわ。あなたは、どう?』
「会いたい。会いたいよ、エリーゼ」
迷いなく、私は応える。それが叶わないことも知っていて、なお本心だった。
『そのためなら、なんでもしてくれる?』
「私にできることなら、なんだって」
構内放送で、駅員がなにかを言っている。どうでもいい。今は、エリーゼの声を聞いているんだ。
『うれしい。わたしも、あなたに会うためならなんだってするわ』
遠くから、電車が迫る音がする。それは、加速度的に近づいていて。
『だから──』
とん、と。
誰かに、背中を押された気がした。そっと撫でるような、優しい触れ方だったように思う。
なんの注意も払っていなかった私の体は、たったそれだけで容易くよろけて。
いつの間にか、迫っていた電車の目の前に放り出される。
怖くはなかった。
だって──
『いってらっしゃい、ヒカリ』
エリーゼの声が、聞こえていたから。
ざあ、とさざ波のような音がして、風が頬を撫でていった。いつの間にか閉じていた瞼の裏で、光を感じる。恐る恐る目を開けると、眩い太陽の光が差しこんできた。
辺り一面の草原の中で、私は大の字で寝転んでいたようだ。ふと、なにか柔らかくて暖かいものに、頭を乗せていたことに気づいた。
眩しい光を遮るように、誰かが私の顔を覗き込んでくる。どうやらその人物の膝枕で、私は眠っていたらしい。
「あ……」
私は思わず声を漏らした。見たことのないはずの顔。会ったことのないはずの人。
それなのに。
視界がじわりとにじんで、私はみっともなくぽろぽろと涙を零した。
その人も、同じように涙を零した。頬を伝って、私の顔の上にぽたぽたと落ちてくる。
本当に、初めて会ったはずなのに。
それなのに──
「おかえりなさい、ヒカリ」
この声を、聞き間違えるはずがない。
「ただいま、エリーゼ」
イヤホン 諸葉 @moroha818
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