第八話 澄んだ零下で凝固する誠実さは、師にして〈死の天使〉の儚さよ

 ユイを医務室に戻ってきた教師に任せ、エルスとアレクセイがやってきたのは〈秩序学会〉の管理部室だった。

 生徒数十人を収容出来る〈アヤソフィアの学び舎〉の教室にも似た広さの室内には無数の事務机と、書類が雑多に並んだ書棚と、一番奥に事務机より一回り大きい机――執務席があった。

 部屋に職員はいない。休日だから当たり前か。

 アレクセイは部屋の奥に進むとカーテンを開いた。日が傾いて薄らと茜色を帯びた光が窓から差し込んでくる。遠目に見える鬱蒼とした森は、つい先ほどエルスとエナが一戦交えた場所でもある。

 エルスに背を向けたまま窓際に立つアレクセイにエルスは切り出した。


「まず、エナとは誰だ」

「ユイの、もう一人の人格……らしい」


 振り返りながらアレクセイが答えてくる。


「らしい? どういうことだ?」

「ユイは解離性同一性障害だ」


 唐突に告げられた言葉は、あまり聞きなれない単語だった。


「解離性同一性障害って、要するに多重人格者ってやつだよな」

「そうだよ」


 その言葉の意味をエルスはゆっくりと咀嚼し、飲み込んでから聞き返した。


「それ、本当か?」

「ああ。といっても、僕も詳しいことは知らないけどね」

「ちなみに、いつからユイはそうだったんだ?」

「さぁ。ただ、ジェシカの話によれば、七年前に王都グラ・ソノルで拾ってきた時点でそうだったらしいよ。幼い頃に大人から受けた虐待が原因らしいけど」


 痛ましげな目をして語るアレクセイは、人づてに聞いた話を口にしているというもので、何も知らないようである。多重人格が真偽であることも含めて、今は追究するだけ無意味だろう。


「ってことは、今まで俺を罵倒していたのはユイじゃなくてエナだったってことか」

「そういうこと」

「じゃあ、ユイが観察処分になった理由は何なんだ?」

「ユイ――というより、この場合はエナって言った方がいいのかな。一か月半ぐらい前にあった宮廷法術士見習いの試験の時に試験官の法術士を攻撃したんだ」

「何があったんだ?」

「さあね。僕も何があったのか知らない。ユイと同行していた三名の法術士によれば、逆上したようにユイが襲いかかってきたって」

「それ、襲ってきたのはユイじゃなくてエナだろ」

「ああ。聞いた話によれば、先に手出ししたのはエナで、ほぼ一方的な攻撃だったらしい」

「まあ、あれは一方的になるだろうなぁ」


 先ほどの攻防戦を思い出し、エルスはしみじみうなずく。


「ただ、エルスも知っての通り〈アヤソフィアの学び舎〉と古都トレーネでは、どんな理由であっても法術士同士の私闘は禁じられている」

「で、ユイは無期限の観察処分になったっていうわけか。ちなみに相手の容体はどんなもんだったんだ?」

「三人とも全員が裂傷、靱帯断裂、骨折、酷い火傷や内臓を損傷して入院」

「何してんだ、あいつは」


 呆れるでもなく言い放つ。


「本来ならクラスファーストからクラスセカンドに降格させられてもおかしくなかったんだけど、そこはジェシカが何とか交渉したらしい」

「じゃあ、師匠が〈アヤソフィアの学び舎〉にいないのは、古都トレーネに行ってるからなのか?」

「ああ。知り合いの宮廷法術士に協力してもらって、アルテミス女王に直接嘆願しに行っているらしい。僕がジェシカから頼まれたのはジェシカが不在の間、エルスをエナの観察者に指名し、ユイとエナが学び舎から逃げ出さないように見張らせること。まあ、これは上層部も妥当だと判断してるし、それほど難しいことじゃなかったけどね」

「妥当……?」


 真意を探るようにエルスは聞き返した。


「さっきも言ったけど、ユイは大人から虐待を受けたために、自分より年上の人間に恐怖しやすい。そして、ユイが恐怖するとエナという人格が表層に現れてユイを守るために相手を攻撃する。今は特に過敏になってるから余計そうだろうね。君の前にもユイの観察者となった法術士が何人かいたんだけど、いずれもエナに怪我を負わされて解任になったんだ」

「怪我とか解任とか初耳だぞ」

「ジェシカに口止めされて言ってなかったからね。だから悪いと思ってる」

「いや、それは別にいいんだが、それで?」

「とにかく、今のユイをきちんと観察するためには、彼女と同い年、あるいは年下の法術士である必要がある。けど、そんな年齢で、実力のある法術士なんてそういやしない。おまけに、ユイはあの通りだから、身の安全は保障されないしね。それで、考えた結果、そういう危険が生じても対応できる法術士として――」

「……俺に白羽の矢が立ったというわけか」


 エルスは頭を抱えた。気分はどうにでもなれ、だった。


「そういうこと。上級法術士資格取得者でクラスファースト。おまけに〈死の天使〉の秘蔵っ子という風の噂もある。そこは噂じゃなくて、事実だけど」


 その時だった。

 エルスのすぐそばにある執務席の机の上で、沈黙を保っていたずんぐりとした黒い電話が鳴り響く。数回ベルを鳴らした後、アレクセイは受話器を耳に当てた。


「はい、こちらアレクセイ・グラシアン。……え?」


 なぜかアレクセイはエルスを見た。


「いや……、はあ。そりゃ、いいけど……」


 瞬時、ぴんときたエルスは、素早くアレクセイから受話器をひったくっていた。


「え? あ、ちょ、エルス! 返しなさい!」


 手を伸ばして受話器を取り戻そうとするアレクセイの顔を片手で押しのけ、エルスは受話器を耳にあてた。冷ややかな声で告げる。


「お久しぶりです。師匠」


 予想通り、受話器の向こう側から聞こえてきたのは聖歌隊のように清らかで美しい声だった。


『おや、エルス。なんだ、アレクセイの近くにいたのか』


 エルスの師匠にして今回の件の原因であるジェシカの声はいつもどおり優雅なものだった。とっさに銀色の髪にすみれ色の瞳をした美麗な女性の微笑みが、脳裏に浮かぶ。


『久しぶりだな。元気にしているか?』


 まるで、エルスの身の上に起きた事情を何も知らないような――実際は知っているのだろうが――様子である。

 エルスは落ち着いた声で皮肉を返した。


「元気にしてますよ。さっきも、あんたが俺に観察を命じた奴に、殺されかけたところです」

『中々強いだろう? 私の妹は』


 悪びれるどころか自慢げに語るジェシカにエルスは嘆息した。憤る気も起きない。


「さすが師匠の妹を名乗るだけのことはあるとは思いましたよ。真面目に殺されかけました」

『だが、お前は殺されなかっただろう?』


 ジェシカはさも確信に満ち溢れた風に言う。


「殺されてたらこんなとこで呑気に会話してませんよ。で、師匠は一体いつこっち戻ってくるんですか。出来ることなら俺が殺される前に戻ってきて欲しいんですけど」

『最低でも後三週間ぐらいか。その様子だと、既にアレクセイから話は聞いているんだろう。ユイの件の交渉次第ではもっと時間がかかるかもしれん』

「……冗談」


 エルスは唖然としたようにうめいた。とっさに口をついて出るのは反発。


「その間、ずっと俺はエナに命狙われ続けろっていうんですか」

『別に殺されはしないだろう。お前なら』

「そういう問題じゃありません。今回ばかりは師匠のお願いだろうが、この仕事、下りさせてもらいます」

『断った場合、お前を破門にするという話は、アレクセイから聞いていないのか?』

「破門でもなんでもいいですよ。とにかく、お断りします」


 頑なな声でエルスは突っぱねた。

 短い沈黙の後、ジェシカが彼の名を呼ぶ。


『……エルス』

「なんですか」


 ジェシカはいつになく、鋭く厳格な声で。


『――頼む』


 それは今まで聞いたことのないジェシカの声だった。熱を帯びた真摯な声は、のっぴきならない事情を感じさせる。また、彼女が本気でエルスにお願いしているということも、理解することができた。

 それに対して瞬間的に、どう答えたらいいのかわからずエルスは黙り込んだ。

 エルスは長い、本当に長いため息を吐いた。あくまで渋々という口調で念押しする。


「……今回だけですからね」


 意外そうな顔をしたのは隣に立つアレクセイだった。


「師匠が帰ってくるまでですからね。その後はあんたが何言おうが俺は絶対にユイとエナの観察をしませんからね?」

『ありがとう。それだけで十分だ。助かる』


 不意打ちのように、染み入るように温かな感謝に満ちた声――反則だ。

 エルスの初恋の少女の親友のような、あるいは少女と同一人物とも言えるジェシカに正面から頼みごとをされて、断れるエルスではないことぐらい、わかっているだろうに。

 せめてもの抵抗でエルスは嫌味を言ってみることにした。


「感謝よりも一刻も早く戻ってきてもらいたいですね」

『こういうのも、いい訓練だろう?』


 本気か冗談かわからない声で、ジェシカはくすくすと笑っている。


「勘弁してくださいよ。とにかく俺の要件は以上です。他にアレク兄に用があるなら変わりますよ」

『いや、このまま切ってくれて構わない。では、息災でな。アレクセイとカタリーナにもよろしく伝えておいてくれ』

「はいはい」


 そう言ってエルスは受話器を置いた。

 未だに事態を飲み込めていないような顔でアレクセイが言ってくる。


「意外だね。てっきり突っぱねると思っていたよ」

「突っぱねようとも思ったさ。……けど、何か理由がありそうだったからな」


 そう言ってから、言い訳のようにエルスは口にする。


「第一、今のユイとエナを見張れるような奴が他にいないってのも事実だろ。それに、師匠に恩を売っといて損はない」

「そういうとこ君もしたたかだねぇ」


 呆れるような感心するような、曖昧な苦笑を浮かべてから、アレクセイがふと声を潜めた。


「……ところで、知っているかい? 一か月半前のユイの試験、実は妨害工作を受けた可能性があるって」

「は?」

「ここだけの話だけど、ユイが宮廷法術士見習いになること快く思っていない人物がいるらしい。詳しいことは調査中で何とも言えないけど」

「……つまり、今回ユイが謹慎処分になるようエナが起こした引き起こした事件は、誰かによってあらかじめ仕組まれたものだと?」

「そういうこと。エナを煽るようなことをわざと試験官にやらせた可能性がある」


 エルスは不可解そうに眉根を寄せた。


「〈アヤソフィアの学び舎〉としては学徒を古都トレーネの宮廷法術士――見習いとはいえ、それに輩出できるのは嬉しい限りだろ。古都トレーネだって奉仕活動してくれる優秀な法術士が一人でも増えるのは大助かりなはずだ」

「〈アヤソフィアの学び舎〉の総意が古都トレーネの総意とも限らないだろう。とにかく、そういう人間にとって、今回みたく、ユイの評価が下がるような事件はありがたいだろうね」

「何だ、その下手な背景。っていうか、試験を妨害して、ユイが観察処分にしようと裏で仕組んだ人物がいたとしても、そいつはなんの目的でそんなことしたんだ?」

「さあ。そこも含めて調査中」

「まあ、〈アヤソフィアの学び舎〉の側がユイを宮廷法術士見習いにするのを渋るのはなんとなくわかる気もするけど。宮廷法術士見習いになった矢先にエナに事件起こされたらたまったもんじゃないだろうし」

「その辺もジェシカが事情を知ってると思うけど、どういうわけか話したがらないんだよ、彼女。まるで僕に警戒しているみたいに」

「……なんで?」

「――エルス今、考えるの全部僕の方に投げてとりあえず疑問に思ったこと口にして楽しようとしただろう」


 アレクセイがこちらの心中を見透かしたように鋭く言い当ててくる。そこはやはり義兄というべきか。目ざとい。

 しかし、エルスは悪びれもせずしれっと言い返した。


「考えるのが得意な奴が他にいる時は、任せるに限る。あと、エナと一戦やって来たんだから、少しぐらい楽したい」

「……しょうがないなあ」


 そして、あっさりとエルスの言い分を受け入れてしまうあたりも、やはり義兄である。師匠や義姉ではこうはいかない。


「で、幼馴染で友達のアレク兄相手になんで師匠が警戒する必要があるんだ?」

「僕に警戒しているというより、僕の周囲を警戒してるっていう感じかな」

「アレク兄の周囲……?」

「ジェシカから情報がもらえない以上、自力で調べてみるしかないんだけどね。ジェシカもそれを待ってるだろうし」

「さっき調査中って言ってたが、ってことは、カタリーナに調べさせてるんだな?」

「……『お姉様』をつけないと怒られるよ」

「義理の姉をなんでそんな風に呼ばなきゃならん。実の姉でもいやだが」

「そういう僕も義理の兄だけどね?」

「だからアレク兄って呼んでるだろ。それにしても、よくカタリーナが動いたな」

「あれでもジェシカの幼馴染で友人だからね。そういうわけで、エルスはユイとエナの方をお願い。こっちも何かわかったら連絡するよ」

「了解。……となると、こっちは毎日襲われる覚悟しとかないとだなぁ」


 エルスは腹をくくりながら明日以降の対策を考えるのだった。

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