第九話 真心そのもののような悪意と邪気を腕に

 翌日、エルスはいつも通り食事と課題を持ってユイがいる部屋を訪れた。

 ユイが元々持っている部屋は昨日の騒動で壁が破壊されたため、もちろん昨日とは別の部屋なわけだが。

 部屋はどこも似たようなもので、ベッドと小さなテーブルと椅子。あとは大人が一人入れそうなクローゼットがあるぐらいか。おおむね、標準的な〈アヤソフィアの学び舎〉の女子寮の部屋だ。


 しかし、そこに彼女の姿はなかった。


 そのことに何を思うでもなく、エルスは部屋の中に入ると空いているテーブルの上に食事と課題を置こうとする。

 瞬間、ぞっとするほどの殺気が背筋を貫いた。

 エルスは素早く食事を置くと、腰の裏から短剣を抜き放ちながら振り返る。

 眼前にいたのは背後から襲い掛かってきたエナだった。扉の裏に隠れていたのだろう。彼女はまるで暗殺者のように冷えた眼光で、エルスの首筋に狙いを定めてナイフを振りぬく。

 一拍遅れて、金属音同士がぶつかり合う甲高い音。

 ナイフが自分の首に届く寸前、エルスは持っていた短剣で彼女のナイフを受け止めていた。

 ぎりぎりと拮抗した状態のまま、エルスは淡々と言い放つ。


「朝から随分な挨拶だな」


 エナがうっすらと笑った。ただし目はちっとも笑っていない。


「やあ、えーたん。昨日の法術は見事だったね。うっかり忘れてたよ。ジェシカ様の弟子が空間転移の使い手だってことを」

「そら、どーも」


 軽い返事と共に、エナのナイフを弾き返す。エナは猫のようにしなやかに跳躍すると、エルスの頭上を軽々と飛び越えてベッドの前に着地した。


「とりあえずそこの飯を食うこと。んで、課題やれ。俺の要件はそれだけだ」


 鋭く命じると、エナはむっと不機嫌そうに眉を吊り上げた。

 だが、ひとまずは大人しく従うことにしたらしい。彼女は構えを解くと食事が置いてあるテーブルまでやってくる。

 エナは椅子を引くと着席した。その指先が食事用のナイフに触れる。

 それを見たエルスが、やれやれと一息つこうとした時のことである。

 エナは食事用のナイフをぐっと握りしめると、ことあろうかエルスの方に思い切り投げてきた。

 しかし、エルスは難なくそれを避けると、顔の脇を通り過ぎようとしていたナイフを刃先を指の間で受け止める。そのまま矢のような素早さで手首を返し、ナイフをエナに向けて投げ返した。

 瞬きをする暇もない速さで放たれたナイフがエナの顔の横を通り過ぎ、ひび割れていた石壁に垂直に突き刺さった。反動でナイフがびぃんと音を立てて震える。

 エナは反応出来ずにいた。信じられないものでも見たように愕然と目を見開いたまま硬直している。


 しん、と水をうったように室内が静まり返った。


 沈黙を打ち破ったのはエルスだった。ナイフを投げたポーズのまま、いくらか温度の低い声で告げる。


「こっちも〈死の天使〉の弟子っていう看板を背負ってるんでね。そう簡単に負けるわけにはいかないんだよ」


 こちらの本気にたじろいだらしい。エナは少しだけ気圧されたように押し黙る。

 だが、隙があれば反撃の機会を見逃すつもりはないのだろう。血のように赤い瞳は敵意に満ちている。

 エナが挑戦的に笑う。幼い顔立ちに反して妙に妖艶さと迫力のある笑み。


「……上等だよ、えーたん」


 そして今日も戦いのゴングが鳴り響く。







 エルスは食堂でオートミールの粥が入った皿をかき混ぜていた。

 そこは下町にある大衆食堂を巨大化したような場所だった。だだっ広い倉庫のような空間には、長机と椅子がずらりと奥まで敷きつめている。天井から吊るされた無数のシャンデリアは爛々と輝いていた。

 時刻は昼時。食堂には、食事のためにやって来た〈アヤソフィアの学び舎〉の大勢の生徒たちが集まっている。


「やあ、エルス」


 がやがやと学生たちの話し声で賑わう中、前から話しかけてきたのは濃茶の髪の男性――アレクセイだった。


「アレク兄がこっちいるなんて珍しいな」

「まあね」


 そう言ってアレクセイはエルスの向かいに座る。

 アレクセイが勤める秩序学会と〈アヤソフィアの学び舎〉は、同じ敷地内にあっても距離は離れている。理由がない限り、アレクセイがこっちに来ることはないはずだ。


「最近のエナの様子はどうかなと思って。報告書は僕のところにも届いてるけど、それだけじゃあ、詳しいことはわからないからね」

「どうって言われてもな。毎日俺が襲われてる」


 なんてことはないように――実際、師匠の修行と比べたら、なんてことはないのだが――あっさり告げる。

 アレクセイがひくりと口の端をひきつらせた。


「襲われ……」

「部屋に入ると、挨拶のように奇襲されるんだ。あいつ食事のナイフとフォークを武器と勘違いしてんのか、毎回俺に投げて来るんだぞ。他にも、どこに隠し持ってるんだか細身のナイフとか。こないだなんか針で頸髄狙われた」


 日和見な話でもするように、つらつらと起きた出来事を語るエルス。

 なんとも言い難い複雑な表情でアレクセイが言葉を発する。


「……中々に物騒で殺伐とした日々を送っているようで」

「そのせいで課題の進み具合が悪い。由々しき事態だ」

「問題そこなんだ」

「おかげで俺は、今日の午前もユイのとこに行かなきゃならなくなった。休日出勤だ。もういっそ、俺が見張らない方が平和なんじゃないかと思い始めてきた頃だ」

「それはそうかもしれないけど、だからといって放置するわけにもいかないだろう」

「それを理解してるから俺も困ってる」

「エルスの話聞いてる限りだと、本当にいつか脱走しかねないし。脱走した先で無関係な人に危害を加えた日には、さすがのジェシカも僕もかばいようがない」

「幸いなのは、こないだみたく、法術は使ってこないことだな。師匠からなんか注意でも受けたかな」

「ユイは? エナに攻撃された後、ユイに会った?」

「いいや。ここ十日間ぐらい、毎日エナと激しい物理的攻防を繰り広げている」

「……こっちに上がってきた報告書には日々積極的に意見を交わし合い、切磋琢磨しながら勉学に励んでるとしか書いてなかったけど」

「誰も座学とは言ってない」


 しれっと言い放つ。

 アレクセイは物言いたげな視線をエルスに寄越した後、独り言のようにつぶやく。


「……エルスの前にも何人か観察者がいたけど、そんなにひどい攻撃を受けたって報告は上がってなかったと思うんだけど」

「俺だけ特別待遇かよ」


 吐き捨てるように皮肉を口にしてから、エルスは続ける。


「そもそも、初めて出会った時にいきなり毛嫌いされる理由もさっぱりわかんないし。なんか俺したか?」

「え?」

「え?」


 まさか聞き返されるとは思わず、エルスの側もアレクセイに聞き返す。

 顔を上げた先にいるアレクセイは、まるっきり意外そうな顔をしていた。


「気づいてなかったの?」

「何が」

「エルスがエナに嫌われてる理由」

「気付ける方が不思議だと思うぞ」


 そう冷静に返すとアレクセイは戸惑ったような、どこか腑に落ちないような様子で。


「だって、うーん……じゃあ、エナがジェシカを好いてるのはエルスも知ってるよね」

をつけて呼ぶぐらいには、ジェシカに異様に懐いてるように見えたが」

「それで、エルスはジェシカの弟子だろう?」

「そうだけど」


 それが何か? そう聞き返す。

 返されたのは、摩訶不思議とも釈然と行かないような微妙な間。


「……エルスって、妙なところで鈍感だよね」

「は? 鈍感って、一体何のこと――」


 言いかけたところで、ふと思い当たる。

 エルスはもう一度聞き返した。


「……え?」


 まさか、という予感が滲む声だった。それを聞いたアレクセイが察したようにうなずいた。


「そういうこと。つまりは嫉妬さ」

「はあ? いや、だって、俺は単なる弟子だぞ?」


 他に言うべきことが見当たらず、エルスはそう返す。

 確かにジェシカとの因果関係は一言では説明出来ないほど複雑にこんがらがっている。とはいえ、エルスにとってジェシカは師匠以外の何者でもない。


「今までジェシカが一人も弟子とらなかったことを考えるとエルスは特別だよ。エナが嫉妬するには十分な理由さ。要するに、エルスはエナにとって、大好きなお姉ちゃんを奪った、ぽっと出の弟っていうわけ」


 なんだそりゃ、とエルスは内心で盛大に突っ込んだ。

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