第十話 魔窟の入り口にて、誘うは
翌日、ユイの部屋の扉を開けようとしたところで、身の危険を感じたエルスは取っ手に手を触れたまま動きを止めた。
エルスは身を引いて扉を開く。すると、上から鋭利なナイフが何本か落ちてきて、刃を下にして床に突き刺さった。随分と手厚い歓迎である。
ナイフを蹴っ飛ばして中に入ったエルスは室内を見た。エナは仕掛けが不発に終わったことに落胆した様子もなく、そっぽを向いたままベッドに腰掛けている。
「おはよう」
罠には触れずに挨拶をすると、エナも「おはよう」と静かに返してくる。不気味なほどに素直な挨拶は、何かの前触れをひしひしと予感させた。嵐の前の静けさ。
どうやら、今後は水面下の争いが繰り広げられそうである。主に罠とか。いずれにしても、一筋縄でいく気配はない。
二人が渡っているのは頑丈な石橋ではない。一本の細い綱なのだ。
もっとも、こちらも真面目に命がかかっているため、落ちるわけにはいかないが。
ジェシカが帰ってくるまで、約一週間。
――最終戦、開始。
〇
「それにしても、よく無傷でいられるね」
就業後、二人きりになった管理部室でアレクセイが感心したように言った。
「ジェシカの修行の賜物だな。俺は、生まれて初めてあの地獄のような修行に心から感謝している」
「地獄……。まあ、エルスもよく死ななかったなとは思ったけど」
具体的な感想を差し控えるように、アレクセイが言葉を濁す。
エルスは驕るでも侮るでもなく、ありのままの事実を淡々と口にした。
「それにしても、エナも諦めが悪いというか何というか。法術込みの戦いならともかく、純粋な戦闘技術なら、あいつ俺に勝てないだろ」
そんなことは、この二週間近くでよくわかったはずだと思うのだが、エナは攻撃の手を緩める気配がない。
「俺を襲うぐらいなら、大人しく課題終わらせた方がよっぽど有益だと思うんだがな。ユイのやつ、まだ無期限の観察処分なんだろ」
「方法を知らないんだよ。あの子は。敵を排除する以外の方法で、ユイを守る方法がきっとわからないんだ」
まるでエナのことを許してやって欲しいというような響きがそこにあった。
言い分としては理解出来なくもない――が。
「だからといって、俺や他の観察者を攻撃していい理由にはなんないだろ」
「まあね」
「さらに言えば、ユイがエナに俺を殺してくれと頼んだわけでもない」
「ぐうの音も出ない」
そう言ってアレクセイはエルスに綴り紐でつづられた一冊の本を手渡した。
「はい、これ」
「なんだこれ」
「二か月前、ユイが観察処分になった原因の事件の報告書と顛末書だよ」
「随分と時間かかったな。こういうのって一か月以内にまとめて提出するのが普通だろ」
「元々出来上がっていたみたいだけど、中々僕の方まで回ってこなくて。僕もついさっき、閲覧したばかりなんだ。それで、借りて持ってきた。一体、エナが何をしたのか。エルス気になってただろう」
「なんかそういうのすっかり忘れてた。で、何かわかったのか?」
「いいや。全く」
会話をしながらエルスは綴り紐を緩めて中身を確認した。すぐに疑問が浮かぶ。
「アレク
「そう思って僕も聞いたんだけどね、そしたら曖昧に濁された」
「追求するな、と?」
「多分」
絶対何かあるな。そう思ったエルスは立ち上がった。
「どこ行くの?」
「ちょっくら野暮用」
どこへ行くか予測がついたのだろう。アレクセイが諦めたように声をかけてくる。
「……君ってそういうとこ、天邪鬼だよね。探るなって上層部は言いたいってこと、わかってるだろう?」
「こっちは、たかが同級生の観察に命かけてんだぞ。エナとユイに関する情報、しかもユイがああなったかもしれない直接の原因。俺に知る権利はあると思うが?」
「やめといたほうがいいと思うんだけどね。……それで、ユイに直接、話聞きに行くの?」
「いや、それは最終手段。っていうか、ユイはともかく、あんな態度のエナが事件のことを素直に話してくれるとは思えないからな。だから、被害者の方にもうちょっと聞いてくる。そういえば、被害者はもう退院してるのか?」
「確かまだ退院してなかったと思うけど。敷地内の医務寮に入院してると思うよ」
「俺が言うのもあれだが、いい加減退院しろよ。サボりか」
「念には念をってところじゃないの。とにかく、今日中に行くなら面会時間もう少しで終わるから急いだ方がいいよ」
そう言ってからアレクセイは、やや心配そうな顔をした。
「……あんま深入りしすぎないようにね?」
了解の意味を込めて軽く片手をあげたエルスは医療棟へと向かったのだった。
〇
「はぁい、愛しのアレクセイお兄様」
エルスが管理部室から出て行った後、現れたのは癖のある短めの濃茶の髪を一房結わえた二十歳過ぎの女性だった。
紺色のローブをまとった女性はエヴァグリーン色の瞳を悪戯っぽく輝かせながらひらりと片手を振る。
アレクセイは女性に見向きもせず、執務席に座ったまま言い放った。
「ああ、カタリーナ。報告書持ってきたんなら適当に机の上に置いといて」
「ちょっと、つれない返事ね!? 愛しの愛しの実妹がアレクセイお兄様の依頼を一生懸命こなして帰って来たっていうのに!」
ずんずんと近づくなり、アレクセイの机の上にどすっと書類の束を置くカタリーナ。
別の書類に目を通しながら、アレクセイはにべもせず言い放つ。
「カタリーナが僕のことをお兄様と呼ぶときは、聞き流すって決めてるんだ」
「もうっ。心からの敬愛を込めてお兄様って呼んであげてるのに、一体何が不満なのかしら」
「込められてるのは敬愛じゃなくて揶揄だろう。あと嘲笑。あるいは冗談」
「そういうとこよくご理解いただけているようで、妹はとても嬉しいわぁ」
「よく言う……って、なんか報告書分厚くない?」
そこで視線を持ち上げ、カタリーナの置いたレンガさながらの厚さを持つ書類を見やる。
カタリーナは誤魔化すような笑顔を見せた。
「色々資料集めて片っ端から借りてたらこんなになっちゃって。すっごぉぉぉぉぉぉく、大変だったんだから。読むのに時間かかるわよー」
「じゃあ僕はもっと短く終わるな」
「どうして?」
「資料をまとめたカタリーナから話を聞いてから資料に目を通せばいいから」
「あんたさらりとしたたかね!」
カタリーナが大声を上げるも、アレクセイは気にした風もなく「それで、どうだったの?」と続きを促した。
「……そうね、あたしの推測としてはユイの事件は、単なる意志表示みたいなものなんじゃないのかしらって」
「意思表示?」
「野放しにさせておくつもりはないってこと」
「ジェシカを?」
「当たり」
とっさに出た幼馴染にして、カタリーナの友人である女性の名前に、カタリーナはにやりと笑った。
「一個人の発言が強い影響力を持つようになった時、一勢力としてカウントされることがあることぐらい、お兄様なら説明しなくてもわかるでしょうに」
やれやれとカタリーナが肩を竦める。
「調和と秩序を謡う〈秩序学会〉において、突出した使い捨ての天才は歓迎されるけど、制御できない出る杭は潰しておきたいってこと。あんたが昔、エルスの自由を代償に現在進行形で首輪つけられてるように」
「……」
「今、一個人の中ではジェシカが一番厄介者扱いされてるようなとこあるもの。法術士とはいえ、古都トレーネのアルテミス女王に直接交渉が出来る貴族でもない人間が、おいそれといるもんですか」
それは、ジェシカが七年前に起きた王都グラ・ソノルの内乱で英雄と呼ばれるほどの活躍をしたことや、法術士として比類なき力を持つことにも起因しているだろう。
「あ、もちろん他に誰も厄介な法術士がいないってわけじゃないわよ? ただ、ここら辺で、他の厄介者に対する警告でもしておきたかったんじゃないかしら。他が気付いてるかどうかは知らないけどね」
「そのことに気づいてなければ、そもそも厄介者としてリストにも載らないだろう。要するに、藪蛇だとしても、無視できなくなったんだからちょっかい出してみたっていうところか……」
「ちょっとした牽制のつもりでね。あたしから言わせれば、そんな子供みたいなことするなんて、頭が弱いとしか言いようがないんだけど」
「頭が弱いかどうかは置いておいて、今回はちょっかいを出した相手が悪かったかな。エルスじゃなくてよりにもよってユイに手を出すなんて」
「ほーんと、言えてるわね」
楽しそうに笑うカタリーナ。
これがジェシカが王都グラ・ソノルで拾ってきたユイではなく、弟子のエルスだったら、ちょっかいを出してきた相手にもジェシカにも大きな損害もなく穏便にことは済んだだろう。
それは、ジェシカがエルスよりユイとエナに愛情を深く注いでいるからではない。二人の――否、三人の性格の違いによるところが大きいだろう。エルスはあれでいて本質的に大人しい。少なくともアレクセイはそう思っている。
そこで、カタリーナがあっさり言い放った。
「でもこれ、あたしの単なる予測よ? 多分っていうだけで、証拠も何もないし。一体どこのどなたさんが動いてるとか、次何を仕掛けて来るかとかはわからないし。なんとなーくそうなんじゃないのかしらっていうだけなんだから」
「でも、そこまで言えるってことは、ある程度、仕掛けてきた相手の目星も、ユイの件に繋がる怪しい事件の資料もそろえて来てあるんだろう?」
「ま、ね」
自慢するでもなく、カタリーナが両手を広げる。
それから来た時と同じように、彼女はすたすたと入口付近まで戻ると、実に気楽な様子で手を振ってきた。
「というわけで、ここから先は我らがアレクセイお兄様にお任せってことで。じゃ、あたし行くわねー」
ぱたん、とささやかな音を残して扉が絞められた後。
一人、管理部室に残されたアレクセイは嘆息した。
「……試されてるっていうより、期待されてるんだろうな、これは」
頼りにしている、と言うように銀色の髪にすみれ色の女性の微笑みが思い浮かぶ。
アレクセイは、よし、とはっぱをかけるように声を出すと、カタリーナが持ってきた書類に手を伸ばすのだった。
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