第十四話 今この瞬間、この場所だけは

 エルスが法術で転移した先は、リュンヌ湖沿いの街道だった。

 きらきらと夏の陽光を受けて輝く湖の水面。その脇にある街道に沿ってエルスは北上した。

 街道のすぐ近くには森があった。というより、街道は森に沿う形で右手にずっと続いている。木々の間からは涼しげな風が吹いていた。

 街道を境界線に、左手には美しい湖が広がっている――オスティナート大陸の中央にあるリュンヌ湖だ。

 遠目に見えるのは、青々とした緑色の山並みだ。

 空は蒼く、雲はない。

 太陽は南中よりやや西に傾いていて、突き刺さるような強い陽光。

 途中、鬱蒼とした茂みに何かが突撃したような跡があった。

 木々の合間を無理やり引き裂いて踏みならしたような、獣道にも見えるそれを辿ってエルスは森の中に入る。


「どうやらこっちで当たりみたいだな……」


 森の中は、巨大な生き物の腹にいるような不気味さが漂っている。空が濃い枝葉によって天蓋のように覆われているせいか、昼間だというのに薄暗く感じる。

 街道からさほど離れていないところに、馬車はあった。

 エルスは発見した馬車に急いで駆け寄った。車輪は地面をたたき割るような衝撃を受けたように半分に割れていた。馬は逃げたらしい。どこにも見当たらなかった。

 そこへ。


「きゃああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 突き刺すように甲高い悲鳴。

 遅かったか、と落胆するでもなく、エルスは走り出した。

 足元に絡まる草木を乱暴に振りほどきながら、エルスは声がした方向に急ぐ。汗が頬を伝い、徐々に息が上がっていく。


 たどり着いた先でエルスが見たものは、予想とは少々異なる状況だった。


 恐怖のあまり腰砕けになったらしい少年と少女が、肩を抱き合って震えている。

 その前に立ちはだかるのは薄紅色の髪を二つに結い上げたエナ――ではなく、巨大な大岩で出来たような石の巨人だった。

 人の背丈を軽く超える巨体を前にした二人は顔を蒼白にして怯えきっている。どうやら、エナではなくそれに襲われているらしい。

 二人の傍にいるエナ、もしくはユイかもしれない――は俯いたまま無反応だった。

 エルスは手を振り上げた。法術が解き放たれる直前の淡いエーテルの燐光が手に宿る。


葡萄月ヴァンデミエールの――」


 ぴく、と巨体が反応した気がした。


「――宴!」


 煌々とした光熱波が草木をかき分け、一直線、巨体へと向かう。

 だが、巨体は光熱波に貫かれる直前、見た目とは裏腹な俊敏な動作で跳躍すると、光の槍をかわしてみせた。

 ぎろりと巨体がエルスをにらんだ。迷わずエルスへと向かってくる。


「う、うああああ!」


 その隙に逃げ出したのは先ほどまで怯えきっていた二人の法術士だった。それぞれ別の方向へ散って行く。

 ユイは足が竦んで動けないのか、その場から動こうとしない。


風月ヴァントゥーズの囁き!」


 エルスは立て続けに法術を解き放つと巨体の背後へ空間転移した。

 転移後、視界がぶれるように揺れる。その先でエルスが見たものは、巨体の後ろ姿――ではなく、既にエルスの方を向いて、エルスに狙いを定めて、大木のように太い腕を大きく振る巨体の姿だった。


「な――」


 反射的にエルスは両腰から宝玉が埋め込まれた短剣を引き抜くと、交差する形で正面に掲げた。石の拳を寸前のところで受け止める。

 次元の異なる力で思い切り殴られた気分だった。

 殴られた勢いのまま吹き飛んだエルスは、ユイの付近にあった木に背中から激突した。骨を揺さぶるような強烈な衝撃が全身を貫く。


「……っ! ごほっ、かは…っ」


 悲鳴をかみ殺しながら、エルスは何度かせき込む。短剣がオルドヌング族の遺産である〈カドゥケウスの四宝〉でなければ確実に折れて直撃を食らっていた。

 巨体は地響きのような足音と共にエルスへと近づいて来る。

 エルスの目の前までやって来た巨体は、大岩をも一撃で砕きそうな剛腕を振り上げた。


「く……っ、雨月プリュヴィオーズの――」


 その時だった。

 ぴたり、と何かに勘付いたように巨体の動きが止まった。そのまま、巨体はくるりと体の向きを変えるとエルスに目もくれずに森の奥へ走り去っていった。

 思わず呆然となる。


「助かった……? いや、どっちかっていうとあれは――」

「別の法術に反応して動いただけだよ」


 答えてきたのはユイ――ではなく、エナだった。

 彼女は座り込んだまま、試験管のような空瓶を手にしている。


「えーたんが今思ってる通り、あれは、より強力な法術を使う相手を標的として定め、攻撃する性質を持ってるんだ。さっき、えーたんが使おうとした法術より、より力の強い法術を感知して向かっていったってわけ」

「あれは一体なんなんだ?」

「あれは、王都グラ・ソノルが開発した対法術士用の兵器だよ。こうやって持ち運びができることから、第三世代かな」


 ひゅっ、とエナが小瓶をエルスに投げてよこした。恐らく、この瓶が兵器を持ち運ぶための入れ物だったのだろう。蓋が空いている。

 瓶の表面に刻まれた細かな古代語を見ながら、エルスは問いかけた。


「法術士を殲滅する兵器は、第二級危険物に指定されて厳重に保管されてるはずだ。それが、なんでこんなところにある」

「そんな危険な代物だから、宮廷法術士見習いの試験に使われたんでしょ。これを無事に古都トレーネまで運ぶこと。これが、今回の試験内容だよ。もっとも、こうなった以上、試験どころじゃないだろうけど」


 多分でもなく、一緒にいた試験官である二人が小瓶の封印を解いたのだろう。ユイの試験を妨害するために。

 もっとも、こんなことになるとは彼らも予想していなかっただろうが。


「本当に面倒なことになってるなあ」


 ぼんやりと感慨もなくエルスは感想を口にする。

 どのみち対法術士兵器なら野放しに出来ない。

 法術士の互助と保護を目的とした古都トレーネが法術士にとって危険な代物を放置することを許すわけがないし、エルスとしても第三者にも被害が及ぶことを見過ごせるわけがない。もちろん、太刀打ち出来ない相手なら話は変わるが。

 エルスは瓶を眺めた後、思いついたように顔を上げた。


「なあ、さっき持ち運びが可能とか言ってたが、外に出たあいつをこの瓶に戻すことはできるのか?」

「できるよ」


 エナは即答してきた。

 顔写真と共に、エナの経歴が記された書類。それを思い出しながら、エルスは慎重に話しかけた。


「……エナ、確かお前、こういう危険物を取り扱うための資格を持ってたよな」

「……そうだね」

「なら、お前の技術でこの瓶の中にあれを戻すことは可能か?」

「……出来るよ。小瓶に書かれている法術文字と仕組みからして、この法術を再度展開すれば、もとに戻せるだろうね」

「だったら、頼む。やってくれ」

「……なんで?」

「え?」

「なんで、エナがそんなことしなきゃいけないの?」


 エナの声は仄暗い虚無感に満たされていた。


「なんでって……あれは法術士殲滅兵器だぞ。下手すれば、ここにいる奴ら全員まとめて殺されるだろうが」

「だったら別に、あっちの人たちが死んでから封印してもいいでしょ」


 その言葉の意味をきちんと理解したエルスは、驚くでもなく聞き返した。


「それは、本気で言っているのか?」


 エルスはただ聞いていた。責めるでもなく、憤るわけでもなく、感情が一切含まれていない静謐な表情で淡々と。

 エナは肯定も否定もしなかった。きゅっと膝を抱えたまま、ますます顔を俯かせる。


「だって、あいつらはユイを陥れようとしたんだよ。ユイの試験を妨害して、それで失敗した。今の状況は自業自得じゃない。なのに、なんでエナがあいつらを助けなきゃいけないの」

「その言い分は理屈として理解できるけどな」


 エルスはやれやれと頭をかいた。


「けど、自分を守ってくれた人や、良くしてくれた人だけを助けて、なんの意味があるんだ?」

「それじゃあ、自分に酷いことをした人まで助けるなんて、そんな善人みたいなことをしなければならない理由って何」

「そう言われると俺も返しようがないんだがな」


 単純に、どうしたものかな、と思う。

 正直なエルスの本音は、どちらでもしょうがない、だった。

 だって、エナはエナで、エルスではないのだから。

 エルスの考えをエナに強要することは出来ない。ここでエナが逃げていった二人を見捨てるとしても、それはそれで仕方のないことだ。それを非道だとか、残酷だと言うほどエルスは正義感に溢れていない。

 けれど。

 考えた末、出てきたのは、つまらない台詞だった。


「……けど、ジェシカは助けるだろ」


 エナが軽く目を見張るのが気配でわかった。


「何が良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、本当はどうするべきかなんてのは、みんな意外とわかってるもんだろ」


 そんなつまらない理屈なんていうものは、誰に言われなくとも誰もがきっと理解しているものなのだろう。


「でも、自分の気持ちや損得が絡んだ時、どうするのか迷う。何が正しいのかわかってても、だ。だったら、正しいとか間違ってるとか自分の感情とかそういうものを含めた全てを理解した上で何を優先するのか。何に従うのか。結局、重要になってくるのは、そういうことだろ」


 だからエルスは時に、損得とか相手のことが好きとか嫌いとか、気分を害されたとかそんなくだらないものに惑わされず、敬意を抱いた相手ならどう考えるかを視野に入れる。

 そして、師は。


「……けど、自分の感情とか関係なしに、あの人は――ジェシカは助けるだろ。それが、どんな奴だろうと。例え、自分を陥れようとした奴でも」


 人にも自分にも厳しいエルスの師は、愛情深く、そして途方もなく憐れみ深い。


 ――なあ、エルス。エナは加害者だと思うか? それとも被害者だと思うか?


 ジェシカの縋るような悲しげな問いかけが脳裏に蘇る。

 一体あの時、師が何を思っていたのか。エルスは――知っているが、わからない。エルスが剣を振るい続ける上では、まだ本当の意味で理解しない方がいいと思うからだ。

 エルスの言葉が届いているのかいないのか。エナは黙したままだ。


「どちらにせよ、お前の力なしでは、ここを切り抜けられない。頼む、力を貸してくれ」


 エナは呼吸を一つ置いてから、おもむろに口を開いた。


「あの小瓶にあれを戻すには、手順に従って封印の法術を解き放つ必要がある。……それがどういうことかわかってて、えーたんは、それ言ってる?」

「ああ」


 エナは今にも泣きだしそうな、嘲笑うような顔をした。


「えーたんは、酷いね。エナが危険にさらされるとわかってて、お願いするんだ」

「……そうだ」

「そうしてでも、エナの嫌いな人を助けろって言うんだね」

「そうだ」

「本当に最悪……」


 そう言うエナは心のどこかにまだ迷いがあるのか、返事を決めかねているようだった。

 段々面倒になってきたエルスは、やや乱暴に言い放っていた。


「そう本気で思ってんだったら俺の頼みごとなんて『嫌だ』って突っぱねればいいだろ。そうしないのはお前にも迷いがあるからだ。違うのか」


 エナは再び黙り込んだ。動く気配はない。

 ふぅ、と諦めたようにエルスは息を吐き出した。瓶を上着のポケットに押し込み、エナに背を向ける。


「俺はジェシカじゃないけど、もしそれでもお前が協力してくれるなら――」


 静かに決意するように、彼は背後のエナに端然と告げる。


「今この瞬間、この場所だけは、たとえ何があっても必ずお前を守る」


 そう言い残して、エルスは巨体を追って森の奥へ走り出した。

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