第十二話 痛む斜陽に過ぎし日の追憶を重ね
夕暮れ時の赤く濁った道を歩きながら、エルスは〈秩序学会〉の管理部室に向かっていた。
管理部室にやって来たエルスが見たものは、親しげな様子で誰かと電話をしているアレクセイの姿だった。
「うん、それじゃあ……」
と言って電話を切ろうとするアレクセイ。
思い当たって、エルスは尋ねる。
「アレク
「え? うん、そうだけど。ジェシカ、ごめんちょっと待ってね」
「変わってもらえるか?」
さっさと近づくなり、エルスはアレクセイに手を差し出した。
アレクセイが「いいよ」と優しく笑ってから、受話器を手渡してくる。
「どうも、師匠」
『ごきげんよう。どうしたエルス』
決して声に出したつもりはなかったのだが、平時より素っ気ないエルスのあいさつに早くも何かを察知したらしい。ジェシカの声色はこちらを気遣うように丁寧だった。
回りくどいことはやめて、エルスはストレートに切り出した。
「教えて欲しいんですけど、二か月前、試験の時にユイの身の上に何が起きたんですか?」
『挨拶もそこそこに本題とはな。話の肝の部分には、もう少し緩やかに入って欲しいものだ』
「師匠相手にそんな配慮いりますか? とにかく、ユイの件について詳しく教えて欲しいんですけど」
『というと?』
「ユイの異常な反応や被害者の話から察するに、あの件がエナだけが悪いわけじゃないってことはわかりました。ユイの身の上に何かあって、エナが反撃した。エナがしたのは自己防衛。そんなところでしょうか」
『正解だ。それで、ユイが具体的に何をされたのかを聞いて、お前はどうするつもりだ』
「どうって……」
エルスは返答に窮した。とっさに切り返しが思いつかず、口を閉ざす。
『私が教えても、ユイ本人が抱える問題は解決しない』
はっきりとジェシカは言い切った。
『知った分だけ、お前の中にわだかまりが残るだけだろう。いや、雰囲気からして、もうわだかまっているといった感じか』
痛いところを指摘され、エルスは黙った。ジェシカの言う通りだった。
『確認するが、お前は単なる興味本位や、いたずらに好奇心を満たすためにその質問をしているのか?』
「……そういうつもりはないですけど」
『なら、何のために知りたがる』
暗に迂闊に踏み入って人の心を荒らすなと言うような厳しい口調だった。
エルスは考えをまとめながら、口を開いた。
「……駄目なんですよ。このままじゃ。だって、俺はユイにどう接すればいいのかわからない。それこそ、師匠の言う通り、悪戯にユイやエナを刺激してしまう」
それはエルスが危険に遭う頻度が増えることを意味する。
エルスが無傷で済んでいる今は、報告書に特に何も書かずにいられるだろう。
だが、何かの拍子でエルスが怪我を負うようなことがあれば、そのうち無視できない問題となってユイの身にのしかかる。
それはエナやユイにとって悪い結果になっても、良い結果には繋がらない。
すると、興味深いというようなジェシカの声が返ってくる。
『ほう?』
「それに、師匠だって俺をただの観察者で終わらせるつもりなんてなかったんでしょう?」
駄目押しのように言えば、ジェシカは沈黙の後、ゆっくりと語りだした。
『……二か月前のことだ。ユイは試験を行うため、試験官三人を連れて古都トレーネへと向かった。古都トレーネは〈
「はあ。それで?」
先を促す。
返ってきたのは、少しいらだたしげな声だった。
『誰の見張りの目もない状況下で男三人と少女一人。そんな風にして異性に囲まれたユイが、一体何をされたのか。何があったのか、本当にわからないのか?』
エルスは軽く黙った後、くだらないという風にゆっくりと言い放った。
「……馬鹿なんですか、そいつら」
身も蓋もないエルスの台詞を聞いたジェシカが小さく笑う気配があった。
エルスは続けた。
「言わなかったんですか。実際、そこで何が起こったのか」
『当然言ったさ。主に抗議したのはエナだったがね』
「だったら、なんで――」
『当時のユイは半分錯乱状態。抗議しているエナは重症者を出した加害者。そんな彼女たちの言葉を一体誰がまともに取り合うと思う?』
「要するに、エナの発言はなかったことにされたと。だから報告書にも残らなかった。そういうことですか」
『そうだ。だから、私がこうして動いているというわけだ。落ち度は様々な箇所にあった。なのに、ユイだけが罰せられるのも、道理に合わないだろう? もっとも、物理的な制裁はエナの手によって既に下されてるがな』
「まあ、彼らにしてみれば、割に合わない対価だったでしょうが」
不意にジェシカがこれまでとは異なる毛色の声を発した。あまり聞きなれない、すがるような薄氷のように儚い声。
『なあ、エルス。エナは加害者だと思うか? それとも被害者だと思うか?』
「質問の意味はわかりますが、意図がわかりません。師匠は俺にどんな回答を求めてるんですか」
『試しているつもりはないさ。お前の思ったままで構わない』
全てを受け止めるようなジェシカの答え。
ならば、とエルスは率直に言った。
「だったら、エナは間違いなく加害者ですよ。例え、正当防衛を振りかざしても、それが認められる限度はある。エナのそれは、限度を超えている。そうなったらもう、正当防衛じゃなくて過剰防衛って言うんですよ。昔、師匠が言った通りです」
『なるほど』
「もっとも、俺から言わせれば相手が受けたのは当然の報いなので、同情はこれっぽっちもしてませんが」
『お前らしい回答だな』
満足とも異なる、納得のいったジェシカの声。
「人に何かをされたから仕返していい、なんていうのは子供の理屈ですよ。どれだけ崇高な理想を掲げても、立派な大義名分があったとしても、ありとあらゆる暴力は正当化されない。そう言ってたのは、あんたとアレク兄です」
『……そうだな。つまらないことを聞いた。では、またな』
そう言って、ジェシカは今度こそ電話を切った。ぶつ、という音の後、声が完全に聞こえなくなる。
隣にいたアレクセイが穏やかに話しかけてくる。
「エルスがジェシカに食い下がってまでエナのことを知りたがるなんてね」
それにどう答えていいかわからず、エルスはほんの少し言い淀んだ。
「……だって、目の前にある以上、仕方ないだろ。既にそこに
アレクセイは子供の成長を喜ぶ親のような顔で笑っていた。なんとなく、エルスは不機嫌な顔になる。
「いいや、なんでもないよ。ありがとう、エルス」
「そこで何でお礼を言われなきゃなんないのかわかんないんだが、まあ、どうも」
「ねえ、聞きたいんだけど、エルスはエナの事情を聞いて、同情した?」
「いや、同情はしてないかな」
「あそう」
なぜだかがっかりしたようにアレクセイがうなだれる。
「なんにせよ、ここがスタートラインだな」
そう言ってエルスは両手を上げて身体を伸ばした。
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