第六話 荒れ狂う殺意の宴のなか、揺蕩いながら

 ユイにほだされている自覚はあった。


 少なくとも、今こうやってユイの観察処分期間が短くなるよう報告書を仕上げようとしているぐらいには。

 ところで報告書とは、観察者が観察処分者を対象に、一日の行動などを文章にまとめ、五段階評価などをつけた書類のことである。上層部はこの報告書を元に、観察処分者の処遇を決める。つまり、観察処分者であるユイにとって、彼女の今後を左右する重要な書類というわけだ。

 当然、それを作成するのは観察者であるエルスであるわけだが。


 ちら、とエルスはユイを盗み見た。


 ユイは部屋のテーブルに座って課題に取り組んでいた。今までの課題より難易度の高いものを持ってきたためか、解き終わるまでに時間がかかっている。こういった難易度の高い課題をこなしてくのも、観察処分の期間を短くするための有効な手段なわけだが。

 と、そこまで考えたところで、完全に自分がユイの有利に働くよう動いていることに気づいて、なんとなく仏頂面になる。エルスが今世話を焼いているのは、ほんのつい最近まで自分に辛辣に当たっていた人物だというのに。


 ……まあ、害がないうちはいいかな。


 と思っているあたり、自分も大雑把というか何というか。

 もし、ここでユイが以前のような態度に戻ったとしても、その時はその時だ。

 すると、真面目に課題と向き合っていたユイが椅子を引いて立ち上がる。


「えーたん、終わりました」


 彼女は課題の書類を机の上で整えると、ベッドに腰掛けたエルスの方に向かって来ようとする。


「いいよ、俺がそっち行くから」


 そう言ったエルスも立ち上がろうとした。

 つるり、と冗談みたいにユイが足を滑らせて転びそうになる。


「あっ」


 受け身を取る暇もなく、前のめりになって顔面から石の床に突っ込んでいくユイ。

 とっさにエルスは動いていた。転びかけたユイを受け止めようと手を伸ばす。

 しかし、タイミングの悪いことにここで更なる事故が重なる。ユイの腕をつかんで彼女の体重を受け止めたエルスがバランスを崩したのだ。


「げ」


 エルスは自分の上に覆いかぶさったユイを片腕で抱きしめ、もう片方の手を後ろについた。背中から床に激突することは回避する。

 しりもちをついたエルスは、腕の中のユイをのぞきこんだ。

 ユイは不自然なほどに静かだった。


「……ユイ?」


 不審に思って名を呼ぶ。

 ユイは人形のように力なくうなだれていた。顔面は死人のように蒼白だった。限界まで見開かれた木苺色の瞳は途方もない恐怖に染まっている。


 そして。


「あ……、ああああああああああああああああああああっ!」


 耳をつんざくような悲鳴だった。

 ユイはエルスを突き飛ばすと、壁際まで後ずさる。自分の体を抱きしめるように、がたがたと震える肩を両手で押さえ、これ以上にないほど縮こまる。


「も、もうやだ、やめて、いや……いやだ。怖い怖いこわいこわいこわい――」

「ユイっ」


 思わず名を呼ぶ。伸ばした手は払われた。


「こないで……、やだ、やだ――やだ、やめてやめてやめて、や、だぁぁぁぁぁぁっ!」


 エルスを誰かと勘違いしているのか、ユイは狂ったように激しい拒絶を繰り返す。その目はエルスを見ているはずなのに、どこか違う場所を見ているように虚ろだった。

 ユイは恐慌状態のまま泣き叫んだ後、その唇を小さく動かす。


「……て」

「え……?」


 聞こえてきたか細い声に、エルスは耳を澄ませる。


「たすけて……ジェシカさま……」


 最後にそう小さくつぶやいて、ユイはふつりと糸が切れたように意識を失った。

 力を失ったユイの身体がエルスの方に傾く。


 ……一体、何が。


 倒れてきたユイの身体を支えながらエルスは状況を把握できずにいた。

 腕の中にすっぽり収まった小さなユイは死んだように、ぴくりともしない。

 その時だった。

 空恐ろしいほど鋭い殺気を感じたエルスは、その場を飛びのいていた。

 遅れてエルスのいた場所を切り裂いたのは銀色に鈍く光るナイフだった。信じられないことに、それを持っていたのはユイだ。彼女は一体どこから取り出したのかわからないナイフを手にして、エルスへと襲い掛かっていた。

 いきなりの出来事に、エルスは軽く瞳を見開いていた。


「お前……っ」


 聞こえてきたのは、今までと全く変わらない、だが決定的に何かが異なるユイの声だった。


「なーんだ、外しちゃった」


 毒のある愛らしい声でユイは舌打ちする。

 ユイは、エルスが先ほどまで触れていた自分の肩を汚らわしいというように手で払った。


「ユイ――」

「ジェシカ様でもないのに、ユイの名前を気安く呼ばないで欲しいなぁ」

「ジェシカ様でもないのに?」


 反復し、すっとエルスは眼差しを細めた。

 驚きはしなかった。いつかこんな日が、ユイが以前と同じように険悪な態度を見せる日がやってくるような予感がしていたからかもしれない。


「ここ最近は、すっかり儚げな少女になってんなと思って油断してたが、やっぱり案の定ってわけか。もしかしなくても、今までのは演技か?」

「演技じゃないよ? だって、エナはいつだってエナのまんまだもん」

「エナ……?」


 ユイは――否、エナと名乗った少女は、にっこりと可憐な笑顔で自己紹介をしてきた。


「初めましてじゃないけど、一応、初めまして。エナはエナっていうんだ。というわけで」


 そう言ってエナは手をかざした。手の平に星屑のような淡い光が集結する。それは法術が解き放たれる直前の兆候だった。

 反射的にエルスは開いた窓の外に飛び出していた。


「――死んで、そこのクズ」


 可愛らしい声とは裏腹な物騒な台詞と共に、純白の閃光が部屋に満ちた。エナの手の平から、解き放たれた白光の光熱波は頑丈な壁に突き刺さると、すさまじい轟音と共に爆裂四散した。壁が砕け散り、爆砕された窓ガラスと共に粉塵が舞う。

 そうして、光の洪水に押し流される形で、エルスは寮の裏にある森に吹き飛ばされたのだった。







 女子寮から裏の森に向けて一直線走った閃光と爆発。


「あああああー」


 それらを管理部室から目撃したアレクセイは、頭を抱えていた。


「やっぱりダメだったか……」


 そして彼は二人の――主にエルスの方だが――の身を案じるのだった。

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