第五話 寓意は我らを待てり
次の日、エルスは朝から図書館で本をめくっていた。
そこは、ため息が出るほど美しい三階建ての円形の建物だった。細長い梯子がかけられた背の高い本棚には歴史書、専門書、学術書、物語といった何千万冊もの書物が並んでいる。優雅なアーチ状をした天蓋からはいくつものランプが吊り下げられていた。
ドーム状の丸い部屋の中央にあるのは、白い大理石で出来た女性の彫刻だ。壁には花や伝説上の生き物といった、実に数百の模様が彫られていて、公共の図書館というより美術館のようでもある。
そこへ、美しい床模様を控えめに叩く音がした。
「こんなところで、朝からどうしたの?」
「アレク
傍にやって来たのは穏和な顔立ちをした濃茶の髪の青年――アレクセイだった。声を潜めて話しかけてくる。
エルスは義兄の顔を見た後、手元の本に目を戻した。ページをめくりながら考え込むように。
「いや、怯えた動物って、どうしたら巣穴から引っ張り出せるかな、と思って」
「……それってユイのこと?」
「それ以外に誰がいるんだ?」
当たり前のように聞き返す。
アレクセイはエヴァグリーンの瞳に叱責とも異なる複雑な色合いを乗せると、エルスの隣の席に腰かけた。
「君って人の扱い方がけっこう雑だよね」
「放置していいんだったらまるっと放置するぞ。その報告書を上に提出して、後で師匠や上層部から文句言われるのはアレク
嫌味っぽくそう言うとアレクセイはきょとんと目を瞬かせた。その後、仄かに嬉しそうに口元を緩める。
「んだよ」
「いや、エルスが僕のことを気にしてくれているようで、なんだか嬉しいなって」
「……報告書に嘘偽りない事実を書いてやろうか」
「ごめん、それは勘弁」
そんなやり取りをした後も、エルスは書棚からリスやフェレットといった小動物の飼い方が書いてあるような本を散々引っ張り出し、時間の限り読み倒した。
結局、どの本も似たようなことしか書いてなかった。つまり、向こうが慣れるまで放っておくしかないらしい。
そうして本日も訪れたユイの部屋には、誰もいなかった。今日もクローゼットの中らしい。
変化のなさに落胆するでもなく、エルスはテーブルの上にある空になった食事のトレイと今日持ってきたトレイを差し替えようとした。
そこで気付く。
空になった食器の隣に、半分に折りたたんだ紙が一つ増えていることに。
開いたメモにはこう書いてあった。
――食事ありがとうございます。課題は進めておきました。
どうやら、ユイはエルスが不在の時にはクローゼットから外に出て、食事をしたり課題を終わらせたりしているらしい。
それならば、とエルスは考えた。
〇
それからというもの、エルスは数時間置きにノックをしてからユイの部屋に入り、手紙を置いて、部屋を出る、ということを繰り返して、彼女とやり取りを続けていた。
ちまちまとめんどくさいとは思うが、一日数回の手紙だけでやり取りで済むのは気楽である。
そうして、一週間がたった頃。
エルスがいつものようにユイのところに食事を持って行った時のことである。
いつものようにノックをし、いつものように部屋に入る。
驚いたことに、そこにはベッドの縁にちょこんと座った薄紅色の髪の少女――ユイがいた。ひらひらとしたワンピースの上に紺色のローブを着ている――というより、ローブに着られている感が強い。なにぶん背丈の低い小柄な少女だ。一番小さいローブのサイズでも袖が余るのだろう。
なんにせよ、久しぶりに見るユイの姿だった。
目が合った瞬間、彼女は、ぱっとエルスから視線を逸らした。相変わらず怯えの色は残っているが、脱兎のごとく逃げる気配はない。
何か言おうか散々迷った末、声をかけることはしなかった。多分、ここで距離を一気に詰めればユイは逃げる。直感的にそう思った。ここは、向こうから話しかけてくるまで待つのが得策だろう。
エルスは手紙を食事の脇に置いた後、試しに部屋の中にとどまることにした。。
それを見たユイが狼狽にも似た怯んだ気配を見せる。だが、逃げ出すことはしなかった。何かをぐっとこらえるように唇を引き締めると、ぶんぶんと首を横に振って小さな両手を握りしめる。どうやら勇気を振り絞っているらしい。
そして、いよいよユイが立ち上がった。が、彼女はすぐに腰が抜けたように、へなへなとベッドに座り込んだ。おい、折れるの早いぞ。
もう一度ユイが立ち上がる。今度は一歩踏み出すことに成功したようだった。しかし、油ぎれの機械人形のようなぎこちない動きである。しかも、エルスの方をめちゃくちゃ気にしている。
二歩進んだところでユイはUターン。しかもベッドの上で布団をかぶってしまうという始末。前進するどころか後退した。
……これは、まだ部屋の外に撤退してた方がいいな。
そう思って、エルスは立ちあがる。びくりとユイが恐怖で肩を跳ねあがらせたが、それは気にせず部屋の外に出る。
結局、その日もエルスは部屋に出たり入ったりを繰り返すことにした。
そんな手紙中心のやりとりを続けることさらに一週間。
徐々に慣れていったのだろう。ユイは部屋にエルスがいてもさほど動揺せずに部屋の中を移動するようになっていった。
そうして、思っていたより早く、その機会は訪れた。
その日も、エルスはノックをして、しばらくしてからユイの部屋に中に入った。
ベッドに腰掛けたユイがややうつむきながら入口のエルスを気にする姿も、見慣れた風景となっていた。
エルスが食事をテーブルの上に置いた時のことだった。
「……あの、おはようございます」
聞き違いかと思うような小さな声で、ユイが話しかけてきたのだ。
エルスはゆっくり振り返った。そこには今までずっとエルスから目線を逸らしてきていたユイがエルスをきちんと見つめていた。
木苺のような紅色の瞳と視線がぶつかる。
「えっと、おはよう?」
エルスは挨拶だけ返した。すると、ユイは座ったままの状態で、ゆっくりと頭を下げた。
「……今まで、本当にごめんなさい」
……これは、会話をする意志があると見ていいのだろうか。
「その……迷惑かけて、これからはちゃんと課題もやってくので、よろしくお願いします」
そう言いながら頭を下げるユイは無理をしているように見えたし、傷ついた幼子のようにも見える。
「いや、迷惑ってほどのことじゃなかったけど」
というか、罵倒されるより全然いい。その本音はあえてしまっておく。
「ユイ」
名を呼ぶと、ユイは緊張した面持ちで「はい」と返事をした。
――何があったんだ?
そう問いかけようとして、やめた。何となく、単なる好奇心や他意のない興味で踏み込んでいい領域ではない気がした。
「……とりあえず、課題やるか」
そう言ってエルスは一冊の本を差し出した。
課題を受け取ったユイは、あっさりと本日課せられた分の問題を全て解いてしまった。
この調子なら、ここ数週間の遅れもあっという間に取り戻してしまいそうな勢いだ。今まで課題の進み具合は遅いわけではなかったのだが、手紙中心でやり取りを進めていたため、とりわけ早いとも呼べなかったのだ。
まあ、なんにせよ、良い傾向である。
特に法術の組み立て方や理論についての回答は、目を見張るものがあった。
「なんていうか、有体だが、頭いいんだな」
「そんなことは、ないです」
ユイは謙遜したように首を振った後。
「……でも、一応、これでも〈宮廷法術士〉見習い候補生ですから。これぐらいは解けないと」
「その年齢で〈宮廷法術士〉――見習い候補生の推薦を得てるなんてすごいな」
エルスは含みもなく素直に感心する。
「そういうエルスさんこそ、その年齢で上級法術士資格を取得してるなんて、すごいですよ。さすがはジェシカ様のお弟子さんですね」
謡うような称賛を右から左に聞き流したエルスが耳ざとく拾ったのはジェシカの呼び方だった。
「そういえば、君は師匠と……えっと、ジェシカとどういう関係なんだ?」
「ジェシカ様は、ユイの恩人なんです。七年前、王都で一人ぼっちだったユイを拾って育ててくれたんです。今では本当の妹のように良くしてくださっているんです」
「ふぅん。妹……ね」
そう気のない返事を返す。
すると、ユイはびくびくと怯えた風にエルスを見上げた。
「あ、あの……何か問題でも?」
「いや、そんなに怯えなくても。ああ、そうだ。俺を呼ぶとき『さん』付けしなくていいぞ」
「え? でも、それじゃあ、なんて呼べばいいですか?」
「呼び捨てでもなんでも、好きに呼んだらいい」
そう言うと、ユイはしばらくの間考え込んだ。悩み、逡巡し、ためらいがちにゆっくりと口を開く。
「……じゃ、じゃあ……あの、えーたん」
すこん、とエルスは頭を壁に打ち付けるところだった。
「え、えーたん?」
うろたえたユイが再度エルスを愛称で呼ぶ。それが更なる追い打ちとなり、謎のめまいで頭が軽くぐらぐら揺れる。さすがに十五歳で「えーたん」とか勘弁して欲しい。
ユイは不安げに瞳を揺らしながら恐る恐る確認してくる。
「あの、駄目……でしたか?」
「駄目っていうか……まあ、それでいいや。うん。好きに呼んで……」
ここで却下すると泣きそうだし、という本音はしまっておく。
するとユイは小さく口元を綻ばせると、はにかむように微笑んだ。不覚にも可愛いと思ってしまったのは余談だ。
そうして、雑談を交えながら勉強を教え――その別れ際のことである。
「あの、えーたん」
部屋から出て行こうとするエルスを、ユイはわずかに期待のこもった眼差しで見上げた。
「その……また、明日も来てくれます、か……?」
「いや、来るも何も、観察者だから明日も来ざるを得ないんだが」
素っ気なく突き放すように告げたつもりだったのだが、何が問題だったのだろう。
控えめながらも、ユイの木苺色の瞳が嬉しそうにきらきらと輝く。その声は心なしか弾んでいた。
「はいっ、よろしくお願いしますっ」
……どうやら、自分は意図せずに小動物を手なずけてしまったらしい。
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