第四話 質疑に伴う応答は隠形の影にかき消されて

「で、あれはどちら様?」


 早足になったエルスが真っ先に向かったのは〈秩序学会〉にある管理部室――すなわち、アレクセイのところだった。

 終業して少し時間が経過した管理室にはアレクセイの他に誰もいない。

 薄暗くなりかけた部屋を天井からつるされたガス灯がぼんやりと照らしている。部屋の壁際に沿う形でずらりと並んだ書棚の奥にある執務席。そこに濃茶の髪の青年――アレクセイは座っていた。机の上は雑多に込み合っていて、大量の書巻や資料が積み重なっている。

 アレクセイはいきなり現れたエルスに驚くでもなく、呆れて見せた。


「説明を飛ばしてその質問ってどうなのさ」

「なんでユイがあんなに大人しいんだ? 別人か? そっくりさんか? あるいは今までのは演技だったりするのか?」


 適当に思い浮かぶものをぽんぽん口にする。

 アレクセイがほとほと呆れたようにため息を吐いた。人当たりの良い好青年と呼ばれる彼にしては珍しい表情。


「物事を頭から疑ってかかるのは君の悪い癖だよね」

「人の言うことは頭から丸ごと飲み込んで信じて尻尾まで疑えというのが師匠の教えだったんだ」

「ジェシカもまたよくわからないことを……。つまりそれは、ちゃんと自分の頭で考えろってことだと僕は解釈するけど」

「でも、時として女の推量は男の確信よりずっと確かな時があるから、そういう時は無条件で降伏しろって」

「後半、意味がわからないから」

「婚約者がいるアレクにいならきっと意味がわかるって言ってたぞ」

「………とりあえずその話は置いておいて、とにかく、あれはユイだよ。それは間違いない」


 無理矢理本題に押し戻すように返ってきた返事は、エルスとしては疑わざるを得ないものだった。


「……本当に?」

「本当に」

「嘘じゃない?」

「嘘じゃない」


 そううなずくアレクセイの表情は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。

 エルスの声が自然と低くなる。


「彼女、何があったんだ?」


 正直、別人と言って差し支えのない彼女の病的な怖がり具合は何かあったとしか思えない。そう思っての質問だったのだが、アレクセイは首を横に振って否定した。


「何もないよ。むしろ、ユイは。今は一時的に悪化しているだろうけど」


 やけに、はっきりとした物言いだった。


「じゃあ、ユイは昔からああだったってのか?」

「そうだよ」

「ちなみに俺をぼろくそに言ってたあの頃のユイはどこに行ったんだ?」

「それは……とにかく、彼女は間違いなくユイだよ」


 こちらを無理やり言い聞かせるようなアレクセイの口調に引っ掛かりを覚えなくもなかったが、今ここで深く追求しても答えてくれるとは思えない。大人しく引き下がる。


「了解。とりあえず、そういうことにしておく」


 どうせジェシカあたりに口止めされているのだろう。もっとも、心配性なアレクセイのことだ。エルスが致命的な危機に陥る前に情報を開示してくれるだろうが。


「わかってると思うけど、ユイには細心の注意を払って接してあげてね。小さな子供を相手にするような感じでよろしく頼むよ」

「小さな子供って……相手は同年代の女子なんだが」

「あくまで例え話だよ。……その様子だと引き続き観察を頼まれてくれるってことでいいのかな?」

「……師匠が帰ってくるまで、な」


 帰ってくるまで、の部分を強調する。

 どうせ誰かがやらなければならないのだ。それに、思ったほどユイの相手が厄介ではないことがわかっただけ、気分の重さは減っていた。

 その後、本日のユイに関わる報告書を適当に書き上げたエルスが退室しようとした時のことである。

 今まさに出て行こうとしたエルスを、アレクセイが思い出したように呼びとめる。


「ああ、そうだ」

「ん?」

「……気は抜かないほうがいいよ」


 気をつけろ、とでも言うようにアレクセイが重々しく忠告する。

 誰に対して、というのは即座にわかった。同時に、そんなことか、とも思う。


「別に明日ユイに罵倒されても驚きはしないぞ。というか、今日の方が異常なぐらいで――」

「――そうじゃなくて」


 温和な義兄らしからぬ珍しく強めの声で遮って。


「そういう意味じゃなくて、殺されないようにねってこと」


 そう、アレクセイは深刻な顔で不吉なことを言い残した。







 殺されないように、とはどういう意味だろうか。

 翌日、エルスは食事を持ちながらアレクセイの言葉の意味を考えていた。

 怯えた子供のようなユイが、一変して以前のような言葉を浴びせてくるならわかる。だが、殺されるとなると話は別だ。

 そもそも、殺されないように、とアレクセイは言うが、エルスは仮にもジェシカの弟子だ。

〈死の天使〉の異名を持つジェシカ・ル・ロア。王都グラ・ソノルの内乱で数多くの戦士たちを葬った英雄。地上に舞い降りた天使のごとく、吐息をするように死を撒き散らす姿は敵味方問わず恐れられたという。

 まさしく大陸オスティナートでも最高の法術士であり、最強の名を冠するに相応しい女性。そんな彼女の弟子であるエルスとしては、並大抵の法術士に易々と負けるわけにはいかない。相手が同じ〈アヤソフィアの学び舎〉のトップクラスとされるクラスファーストであっても、だ。〈宮廷法術士〉や〈十二騎士〉といった三大精鋭に所属する人間ならいざ知らず。

 もちろん、それは矜持から来るものではない。ましてやジェシカの名誉や誇りを守るためでもない。エルスの命のためだ。

 なぜなら負けたら確実に修行のやり直しになる。冗談ではない。あの地獄のような修行のやり直しなんて命がいくつあっても足りない。否。二度やったら確実に死ぬ。死ぬより酷い目に遭わされる。それはエルスもごめんなので何としても回避しなければならない。


 などと明後日の方向に考えが向き始めたところで、目的の扉の前までたどり着いていた。

 扉をエルスはノックした。乾いた木の音が響く。

 案の定、返事はない。

 またか、と思いつつ、エルスは扉を開ける。


「失礼しまーす……」


 ――が、中はもぬけの空だった。

 開け放たれた窓からは昨日と同じように爽やかな風が吹き込んでいる。今日も変わらず窓の向こう側に見える緑の山並みが美しい。

 昨日と違う点があるとすれば、机の上に置かれた食器が空になっていることと、ベッドがベッドメイクしたように、きちんと整っているということ。

 昨日のような布団の山はどこにも見当たらない。

 エルスは黙った。黙る以外にどうすればいいのか。

 確かに、昨日のユイの怯えようでは、部屋から逃げ出してもおかしくはない――が、実際に脱走されると話は別だ。


 ――この件、アレクにいにどう報告しよう。


 そう嘆息しかけたところで、エルスの中でふとした疑問が浮かぶ。

 そもそも、昨日、あんな様子だったユイが外に脱走できるのか?

 もう一度エルスは室内をぐるりと見渡した。白く清潔なベッド。小さなテーブルと椅子。最後に、部屋の隅に置いてある大きめのクローゼットに視線が落ち着く。

 エルスは食事をベッドの上に置くと、クローゼットをノックしてみた。


「……ユイ?」


 返事はない。代わりに、クローゼットの中で何かが身じろぎする気配。どうやら、そこにいるらしい。


「あのさ、昨日も出された課題やってないし、さすがに今日はやっといた方がいいと思うんだが」


 クローゼットに、正しくはその中にいるユイに話しかける。

 だが、返事はない。

 やがて。


「……っ」


 クローゼットの中から聞こえてきたのは、すすり泣くような声だった。か細く、それでいて胸を締め付けるような、悲鳴のように小さな泣き声。

 それを聞いたエルスは言葉を軽く失った。


 そんなにか、と思った。

 そんなに嫌なのか。泣くほど辛いのか――と。


 結局、どうしてやることも出来ず、エルスはその日も本を読んで過ごすことにした。力づくでクローゼットから外に出すことは可能だが、何かの事情で酷く傷ついているらしい少女――しかも年下――を無理やり引きずり出すというのは流石のエルスも気が引ける。エルスは被虐的な趣味も持っていないが加虐的な趣味も持っていないのだ。

 帰り際、エルスは一つだけ書置きを残して去ることにした。

 食事をして課題を少しでも進めておくこと――そう書いた紙を食事がのったトレイの脇に置いて部屋から出て行った。

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