第三話 少年少女はかくして再び出会う
〈アヤソフィアの学び舎〉には観察処分という制度がある。
何らかの理由で謹慎を言い渡された生徒が、他の生徒により世話される仕組みだ。具体的に何をするのかというと、観察処分者の部屋に食事を運び、課題を与え、時には教える。そして夕刻の定められた時まで共に部屋で過ごすのだ。苦行である。
基本的に同性同士で行われるはずの制度に、なぜ異性であるエルスが選ばれるのか。それについては義兄のアレクセイいわく事情があるらしいので、今は考えないでおく。
そして、ユイ・メルセンヌ。
今回の観察処分者。要するに、エルスに観察される相手である。
ユイに関する情報が書かれた書類を眺めながら、エルスは寮に続く柱廊を歩いていた。
大きな石材で作られた柱と柱の間には歩兵槍を構えた甲冑――当然だが中身は空っぽだ――が置かれている。その隙間からは校庭と校庭の先にある赤レンガ色の建物――〈アヤソフィアの学び舎〉の本校舎が見えた。
エルスが片腕で器用に抱えたトレイの上にはオートミールの粥と野菜のスープ、焼いた塩漬け肉、小石みたいに固いパンが乗っている。
書類にはこう書いてあった。
……ユイ・メルセンヌ。クラスファースト第
こうして改めてみると、様々な資格を持つ優秀な法術士だ。写真を見る限りでは、十代前半ぐらいの可憐で愛らしい少女である。木苺色をした大きな瞳は愛嬌さえ感じられる。桃色にも見える薄い赤毛を左右の頭の高い位置で結んだ髪型は幼い容姿によく似合っていた。
だが、そんなステータスなど、どうでもいい。
問題なのはエルスと彼女との関係だ。
控えめに言って、彼女とはいい思い出がない。むしろ悪い思い出しかない。
何年か前、師匠であるジェシカからユイを紹介された時のことだ。
ユイはエルスをまじまじと見つめた後、にっこりと笑い、子猫のように愛らしい声で。
――死んで、そこの屑。
……一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
出会い頭――しかも初対面の相手に言う台詞じゃない。礼儀がなっていないとか常識が欠如しているとか色々言われるエルスだが、さすがの彼もこれが一般的ではないことぐらい理解できる。彼女なりのブラックジョークと言われてしまえば反論は出来ないのだが。あるいは彼女の故郷では挨拶だったりするのだろうか。
そして、信じられないことに、ユイは虫けらを見るような目でエルスを見ながら散々罵倒した。大声で盛大に罵倒し続けた。決壊したダムのような勢いで、実にバラエティに富んだ罵詈雑言を吐き続けた。圧倒されて呆然とその場に立ち尽くすエルスをいいことに、とことん暴言を連ねる姿は悪魔が乗り移ったようにも見えた。容姿が可愛いだけに余計に。
これがユイとの出会いであり、彼女の第一印象が最悪と確定した瞬間でもある。
なお、現在にいたるまでエルスとユイの関係は改善されていない。
なぜか。
理由は簡単だ。その機会に恵まれなかったからである。
クラスは一緒でも、部活動は違う。顔を突き合わせる理由があったとしたら、偶然に仕事が重なった時ぐらいか。その時もその時ですさまじい罵声を浴びせられたものだから、残念ながら本当にいい思い出というものはない。
それにしても、とエルスは手に持っていた書類を肩からぶら下げている皮のカバンに押し込みながら。
ジェシカが頼みごとをしてくるとは珍しい。大概のことは自力でどうにかしてしまう、あの師が、自身が不在とはいえアレクセイを通してエルスに何かをお願い――実際には脅迫だが――してくるのは、これが初めてだった。どういう関係なのだろう、あの二人は。
そのまま女子寮にたどり着いたエルスは階段を上り、長い廊下を歩いた後、ユイ・メルセンヌという札がかけられた扉の前で立ち止まった。ノックしようと扉に手を伸ばし、直前で動きが止まる。
果たして今回の罵倒は何から始まるのか。ゴミかカスか。寄生虫以下のウジ虫かもしれない。無駄にボキャブラリー豊富な彼女の暴言には一層感心させられる。しかし、強烈な敵意を抱く人間と対峙するのに、一切の疲労を感じないほどエルスは完全な無神経ではない。
だが、引き受けると言った手前、投げ出すわけにもいかない。
深呼吸した後、覚悟を決めてエルスはノックをした。
そのまま、しばらく待つ。
だが、しかし扉の向こうからは何の返事もない。
「……?」
エルスは不思議に思いながら、もう一度ノックをした。だが、やはり返事はない。物音もしない。
扉の取っ手に手をかけたエルスは、やや躊躇いがちにゆっくりと扉を引いた。扉に鍵はかかっていない。正しくは基本的に寮に鍵はついていないのだが。
「えっと、失礼します?」
何となく丁寧語でもう一度声をかけてから、エルスは扉を大きく開いた。
こぢんまりとした室内には大きめのクローゼットと木で出来た勉強机と椅子が置かれている。部屋に一つだけある窓は開け離れていた。そこから夏らしい陽気な風が流れ込み、レースのカーテンを揺らしている。
カーテンの向こう側、すなわち窓の外には森が広がっていた。学び舎の校舎はここからは見えない。森の先には青々とした山が連なっていた。いよいよ夏本番を迎えようとする山の緑は色濃い。
そして、窓際に置かれたベッドの上。そこには、こんもりとした謎の白い山ができていた。
山の中身が一体何なのか。想像に容易い。
「えーと、今日から観察者になった、エルスだけど……」
エルスが声を発すると、びくっと毛布が揺れた。やはり、あの中身はユイらしい。しかし、それにしては妙な反応である。
「おい?」
「だれ、ですか……」
すると、恐る恐るといった風に、白い布団の隙間から現れたのは木苺色の瞳だった。
「誰って……エルスだけど。エルス・ハーゼンクレヴァ。ついこの間顔を会わせたばかりだろ」
正しくは「目の前から消えて」と言われたのだが。
すると、おっかなびっくりという表現がまさにふさわしい様子で、ユイはエルスを見つめた。まるで怯えた小動物のようだ。
なにはともあれ、食事をテーブルの上に置こう。そう思ったエルスは足を踏み出してベッドの向かいにあるテーブルへと近づこうとした。
途端。
「……ひ……っ」
引きつった悲鳴のような声が聞こえてきた。
酷く恐ろしいものを与えられた子供のような顔で、ユイががたがたと震える。
エルスは、ぱちくりと目を瞬きさせた。
布団の陰に隠れたユイの顔色が暗がりでもわかるほど見る見る悪くなっていく。薄桃色の唇は既に血色を失って青ざめていた。パニックに陥る寸前のようなユイの怯えた様子は、とてもではないが演技の類には見えない。
どうやら本気でユイはエルスを怖がっているらしい。
でも、なぜ?
とっさに次の行動が思い当らなかったエルスは、その場に立ち尽くした。顔を合わせた途端、罵倒されると思っていただけに、拍子抜けもいいところだった。
やがて、エルスに出来たことと言えば、食事を机の上において、肩からかけていたカバンを足元に置くことだった。
たったそれだけの動作で、ユイの木苺色の瞳に絶望にも近い色がよぎる。
「ええと……、別に取って食いはしませんが」
意味もなくエルスは両手を上げていた。
しかしユイの怯えをはらんだ瞳はますます恐怖に歪んでいく。ユイの目じりから水晶のように透き通った涙がぽろぽろと零れ落ちていく様子が見えた。
信じられないことにユイは泣いていた。
「ええー……?」
思わず戸惑いのような呆れのような謎の非難めいた声が出る。
誰でもいいからこの状況を説明してくれないだろうか。そう思ってユイを見つめるのだが、ユイは嗚咽を漏らすばかりで答えてくれる気配はない。
やがて。
エルスは部屋の入り口に座り込むと、暇つぶしのために持って来ていた本をカバンから取り出して開いた。読み始める。
ここは下手に動いて刺激を与えるのは避けた方がいいだろう。どうせ、時間が経過すれば、そのうちユイも落ち着いてくるに決まっている。だったら、それまでの辛抱だ。
深く考えず、エルスは楽観的に考えて。
――楽観的に考えて、夕方になろうとしていた。
その間、進展があったかというと、残念なことに一つもなかった。会話もゼロ。時間だけが無為に流れていった。
窓の外に広がる山並みの間に夕日が沈んでいくのが見える。だいぶ傾いた陽がベッドの足の影を細長く斜めに映していた。
相変わらずユイは布団にくるまったままだ。その間、何をどうしてやればいいのかもわからなかったエルスは特に何もしないでいた。話しかけようとしたり動こうとしたりすれば酷く怯えるので、何も出来ないでいたというのが正しいが。
エルスは開いていた本を、ぱたんと閉じた。
「せめて食事ぐらいとったらどうだ?」
一切手を付けられていない食事は、すっかり冷え切っていた。
ユイは相変わらず布団に隠れたまま、泣き声を必死にかみ殺しているようだった。時々泣き声に合わせて白い布団が痙攣するように揺れる。
どうしたもんかな、と思う。これでは観察どころの話ではない。
すると折しも鐘が鳴る。任務終了の合図だ。
エルスは立ち上がった。布団をかぶったユイが震える。
「じゃあ、また明日。食器は明日回収するから、食べてといてくれ。後、課題も全部とは言わないから少しでも進めといてくれよ」
そう言い残してエルスは部屋を出た。
足早にエルスは寮の階段を下りていく。
向かう先は、決まっていた。
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